◆均等待遇?
安倍首相は1月22日の所信表明演説で、非正規社員の待遇を改善するために〝同一労働同一賃金〟の実現に踏み込む」と明言し、あわせてこの春に策定する「ニッポン1億総括役プラン」に盛り込むと表明した。

またまた飛び出した選挙"政策"
安倍首相の同一労働同一賃金
単純に安倍発言を信用するとすれば、私も大賛成だ。だがまてよ。安倍首相が言っていることは、私たちも賛成する同一労働同一賃金への道と同じなのだろうか。ちょっと考えてみる必要がある。
言うまでもなく、同一労働同一賃金とは、同じ仕事=職種に従事しているのであれば、誰でも同じ賃金を受け取れる制度のことだ。同等に評価される違った職種についても含めて同一〝価値〟労働同一賃金という概念もあるが、基本は同じである。
今さらいうまでもないが、この数十年、非正規労働者が爆発的に増えるにしたがって、賃金格差は複雑さを増しながら大きくなってきた。今では同じような働き方をしていても、正社員と派遣やパートなど、月給で半分から3分の1,年収レベルで3分の1から5分の1ぐらいの格差が拡がっている。安倍首相は、こうした格差を解消する方法として、同一労働同一賃金の導入を検討するというわけだ。
安倍首相は、賃金格差の改善について、これまでは〝均衡〟待遇を主張してきた。〝均衡〟待遇とは、正社員と非正規などの格差が、それなりに理屈があれば一定程度許される、というものだ。要するに正社員と非正規で一定の格差があっても、それが責任の度合いなどをふまえたバランスが取れていれば許される、という考え方で、要は差別賃金を容認する考え方なのだ。
現に、差別賃金を導入して拡げてきた企業は、雇用形態を何種類にも細分化し、その相互に賃金格差を付けることで総額人件費を抑えてきた。その口実として、転勤や時間外労働の可否や職種の違いを持ち出しながら格差を正当化してきた。安倍首相が言ってきた〝均衡〟待遇は、そうした企業の言い分とまったく同じだったのだ。
それなのに今後は〝均等〟待遇の実現をめざす、と踏み込んだわけだが、実際はどうなのだろう。2月5日におこなわれた予算委員会での首相発言は、次の様なものだ。
〝均等〟待遇とは,仕事の内容や経験、責任、人材活用の仕組みなどの諸要素が同じであれば、同一の待遇を保証することだ。」「今まで進めてきた均衡待遇とは、仕事の内容や経験、責任、人材活用の仕組みなどの諸要素にかんがみ、バランスの取れた待遇を保障することだ。」また「時間ではなく成果で評価をしていく。」とも発言している。
これだけでははっきりしないが、「仕事の内容や経験、責任」もいろんな格付けが可能であり、それに人材活用の仕組みも加えれば、企業にとって賃金格差などなんとでも説明できる代物になってしまう。安倍首相がどこまで同一労働同一賃金に踏み込もうとしているか、これだけ見ても底が知れているというべきだろう。
◆職能給の年功的運用
日本の賃金制度は、一夜にして成立したわけではない。戦後長く続く賃金をめぐる労使のせめぎ合いのなかで、経営者側に押し切られる形で形成されてきたものだ。その流れをざっと見てみる。
戦争直後は混乱期で、労働者は食べていくのに精一杯で、賃金もそのための生活給としての性格が強かった。加えて、現実の低賃金を納得させるために将来における賃金上昇、すなわち年功型の賃金制度が経営者側の主導で採用された。
生活給・年功給の時代の次は、高度成長の前半期に労使間で峻烈な攻防があり、使用者側が押し切る形で職務給や能力給が広く導入された。いわゆる能力給・職能給などだ。この時代まではまだ年功的要素も大きな比重を占めていたが、80年代からの低成長時代に入るとともにしだいに属人給的な性格を強め、成果給や役割給、それに究極の査定賃金としての年俸制などが導入されてきた。
とはいっても、労働者も生活できなくては継続的な制度にならないので、実際の運用は年功的な性格も色濃く残したものだった。いはば〝職能給の年功的運用〟といった性格のもので、要は能力だとか成果だと屁理屈を付けながら、経営者が好きかってに査定してきたのだ。今では組合側は賃金制度に関して経営側と対峙するような体系的なプランは、なにも持ち合わせていないのが実情なのだ。
現行の賃金制度は複雑怪奇。ただ正社員の賃金は形の上では職能給、成果給が中心だ。しかし、年功給部分も実質的に残されている。とはいっても属人的には能力や成果の評価次第で大きな格差が出る。ただ、個別の年齢層では、ある程度生活が出来るだけのゾーンに収まる様な賃金制度になっている。それにパート・アルバイトなど非正規労働者の低額な時間給が併存しているというわけだ。
◆連帯型賃金制度
ここで賃金制度について、ちょっとおさらいをしておきたい。
賃金制度を大きく分けると、二つに分かれる。一方は、職種をランク付けする仕事給だ。職務給,仕事給,職種給がこれにあたる。これに対し、人間を、個々の労働者をランク付けするのが属人給だ。年功(年齢)給、能力給、成果給,年俸制などだ。
職能給、成果給の特徴は,賃金が職種や職務によって格付けされるのではなく、あくまで属人的に、個々の労働者を格付けするものになっている。いわゆる属人給で、経営者が個々の労働者を査定などで格付けするものだ。当然のことながら、労働者の企業・会社への従属は強化される。日本の企業戦士、過労死などの温床となっている全人格的な労働者支配の土台となるものだった。
企業は、様々な方式の賃金体系を持っているが、多くが企業の恣意的な判断によって賃金が決められている。そもそも職能給(職務遂行能力)にしても、個々人の能力を正確に計量する基準など無いからだ。だから企業が好き勝手に個々の労働者の賃金を決めているのが実情なのだ。
とはいっても、昔からそうなのではない。現行の職能給などは,歴史的に企業。経営者側によって導入されてきた経緯があるからだ。戦後復興期の横断賃率をめぐる攻防などがその代表だが、最近の例では経団連(当時は日経連)がつくった1995年の『新時代の日本的経営』がある。それまでは正社員中心の雇用形態が当然だったものを、いわゆる中核社員と専門技能社員、それに定型的な単純労働の三類型に分け、それぞれ長期雇用の成果給正社員、専門職としての定額賃金の期間限定社員、それに単純労働の時間給の非正規労働者、この三つに類型化し、全体では非正規労働者を増やしていく、という提言だった。
それ以前はというと、パート・アルバイトなどは数も少ないうえ、家計責任を負わないママさんパートや学生バイトが多く、賃金の格差構造はそれほど大きな問題とはならなかった。日経連の提言はそれを大きく転換し、正社員の多くを非正規に置き換えていく、という宣言でもあった。
実際、日経連のこの提言を転機として、日本中に派遣や期間限定など、非正規労働者が爆発的に増加した。こうした経緯を考えれば、現行の職能給の姿をした年功給と非正規の時間給をひっくるめて同一労働同一賃金に切り替えていくには、気が遠くなる様な努力と闘いが必要なのだ。
同一労働同一賃金は、属人給とは性格がまったく違う。人ではなく仕事を格付けするもので、いわゆる仕事給・職種給だ。労働者や労働組合は、個々の企業の壁を越えて企業横断的に集団として使用者側と交渉して、それぞれの仕事・職種をランク付けする。だからその格付けは個々の企業や労働者個人の問題ではなくて、企業横断的な産業レベルでの集団的なランク付けだ。個々の企業・会社は、自分の会社の1人1人を格付けすることは出来ない。査定などで個々の企業に従属させることがそれだけ難しくなる。だから仕事給──同一労働同一賃金は、個別企業の壁を越えた企業横断的な連帯的賃金制度とも呼ばれてきたのだ。仕事内容が同じなら、どの企業で働いていても同じ賃金を受け取れるということは、賃上げでも労働者は企業の壁を越えて同一歩調を取れるし、個別組合や労働者個々人が仲違いする要素が少ない賃金形態なのだ。日本の様な労使運命共同体など成り立たない。それを知っている企業=経営者は頑強の抵抗してきたし、今でもそうだ。この賃金形態をめぐる闘いは、雇用での正規・非正規をめぐる労使間の闘いなどと合わせ、処遇の均等待遇をめぐる産業レベルでの労使の一大係争テーマなのだ。時の首相のひとことなどで動く様な代物ではない。
◆困惑とはた迷惑?経団連と連合
同一労働=同一賃金では、人をランク付けするわけではないが、それでも仕事・職種をランク付けすることで、間接的に労働者をランク付けすることになる。同一価値労働=同一賃金にしても同じである。職種の価値判断には客観的な指標に加えてどうしても主観的な指標が入るためだ。
そのランク付けは、欧米では産業別の労使が交渉で決めてきた長い歴史的な経緯がある。当然企業の言い分と労働者側の言い分が対立することも多い。が、それ以上に難しいのは、職種のランク付けをめぐる産業間や企業内での労働者側内部の調整であり、労働者どうしで納得がいくランク付けが出来るかどうかが大きな問題となってきた。
西欧では資本主義の二百数十年にわたる悲惨な労働者の状態や経験を土台にして闘い取られてきた同一労働同一賃金制度。日本の場合、結局は労働者側の合意形成が出来ないまま、企業の能力給への大きな力に対抗することが出来ないまま押し切られていった、というのが歴史的な経緯だ。
そういう曰く付きの同一労働同一賃金。裏切られた(?)形になった経団連は、困惑しながらもさっそく反撥している。経団連の副会長は、「日本は欧米と労働風土が違う。同じ仕事だから同じ賃金、とはいかない。」(2月6日朝日)とさっそく否定し、独り歩きしない様に牽制している。
では労働組合の連合は歓迎しているのか。幹部は「企業が合理的に説明できない場合、同じ仕事なら同じ賃金、待遇にすべきだ。」(2月6日同)と言うが、歯切れは悪い。この「企業が合理的に説明できない場合」というのは、安倍首相も条件にあげる「仕事の内容や経験、責任、人材活用の仕組みなどの諸要素が同じであれば」という条件と同じではないだろうか。そうであれば、これまでも企業が現行の差別賃金をそうした条件で説明してきていた実態を、何も変えられない。あるいはたして二で割るように、正社員の賃金が引き下げられることを警戒しているのだろうか。いずれにしても闘いとは無縁の連合にとって、はた迷惑と感じるのも無理からぬ所ではある。
安倍首相がいくら明言しても、現実の差別賃金は変わりようがない。ただそれが経団連の様に〝日本の労働風土〟だと、なにか自然現象のように言うのは全くの事実のねじ曲げなのだ。現実は、戦後の混乱期からの脱却に際して、労働組合の力が強くなる同一労働同一賃金の導入に頑迷に反対し、企業・経営者に都合がよい賃金制度を強引に導入してきた経緯を隠しているからだ。連合もそれに同調してきた御用組合の系譜を引き継いでいる。いはば、現行の差別賃金に象徴される〝日本の労働風土〟に、両者は共犯関係にあるのだ。
安倍首相の口から出た同一労働同一賃金。実際は単なる口から出任せ、毛針の一つに過ぎない。私たちは正面から同一労働同一賃金の旗を掲げて闘い抜く以外にない。(廣)
安倍首相は1月22日の所信表明演説で、非正規社員の待遇を改善するために〝同一労働同一賃金〟の実現に踏み込む」と明言し、あわせてこの春に策定する「ニッポン1億総括役プラン」に盛り込むと表明した。

またまた飛び出した選挙"政策"
安倍首相の同一労働同一賃金
単純に安倍発言を信用するとすれば、私も大賛成だ。だがまてよ。安倍首相が言っていることは、私たちも賛成する同一労働同一賃金への道と同じなのだろうか。ちょっと考えてみる必要がある。
言うまでもなく、同一労働同一賃金とは、同じ仕事=職種に従事しているのであれば、誰でも同じ賃金を受け取れる制度のことだ。同等に評価される違った職種についても含めて同一〝価値〟労働同一賃金という概念もあるが、基本は同じである。
今さらいうまでもないが、この数十年、非正規労働者が爆発的に増えるにしたがって、賃金格差は複雑さを増しながら大きくなってきた。今では同じような働き方をしていても、正社員と派遣やパートなど、月給で半分から3分の1,年収レベルで3分の1から5分の1ぐらいの格差が拡がっている。安倍首相は、こうした格差を解消する方法として、同一労働同一賃金の導入を検討するというわけだ。
安倍首相は、賃金格差の改善について、これまでは〝均衡〟待遇を主張してきた。〝均衡〟待遇とは、正社員と非正規などの格差が、それなりに理屈があれば一定程度許される、というものだ。要するに正社員と非正規で一定の格差があっても、それが責任の度合いなどをふまえたバランスが取れていれば許される、という考え方で、要は差別賃金を容認する考え方なのだ。
現に、差別賃金を導入して拡げてきた企業は、雇用形態を何種類にも細分化し、その相互に賃金格差を付けることで総額人件費を抑えてきた。その口実として、転勤や時間外労働の可否や職種の違いを持ち出しながら格差を正当化してきた。安倍首相が言ってきた〝均衡〟待遇は、そうした企業の言い分とまったく同じだったのだ。
それなのに今後は〝均等〟待遇の実現をめざす、と踏み込んだわけだが、実際はどうなのだろう。2月5日におこなわれた予算委員会での首相発言は、次の様なものだ。
〝均等〟待遇とは,仕事の内容や経験、責任、人材活用の仕組みなどの諸要素が同じであれば、同一の待遇を保証することだ。」「今まで進めてきた均衡待遇とは、仕事の内容や経験、責任、人材活用の仕組みなどの諸要素にかんがみ、バランスの取れた待遇を保障することだ。」また「時間ではなく成果で評価をしていく。」とも発言している。
これだけでははっきりしないが、「仕事の内容や経験、責任」もいろんな格付けが可能であり、それに人材活用の仕組みも加えれば、企業にとって賃金格差などなんとでも説明できる代物になってしまう。安倍首相がどこまで同一労働同一賃金に踏み込もうとしているか、これだけ見ても底が知れているというべきだろう。
◆職能給の年功的運用
日本の賃金制度は、一夜にして成立したわけではない。戦後長く続く賃金をめぐる労使のせめぎ合いのなかで、経営者側に押し切られる形で形成されてきたものだ。その流れをざっと見てみる。
戦争直後は混乱期で、労働者は食べていくのに精一杯で、賃金もそのための生活給としての性格が強かった。加えて、現実の低賃金を納得させるために将来における賃金上昇、すなわち年功型の賃金制度が経営者側の主導で採用された。
生活給・年功給の時代の次は、高度成長の前半期に労使間で峻烈な攻防があり、使用者側が押し切る形で職務給や能力給が広く導入された。いわゆる能力給・職能給などだ。この時代まではまだ年功的要素も大きな比重を占めていたが、80年代からの低成長時代に入るとともにしだいに属人給的な性格を強め、成果給や役割給、それに究極の査定賃金としての年俸制などが導入されてきた。
とはいっても、労働者も生活できなくては継続的な制度にならないので、実際の運用は年功的な性格も色濃く残したものだった。いはば〝職能給の年功的運用〟といった性格のもので、要は能力だとか成果だと屁理屈を付けながら、経営者が好きかってに査定してきたのだ。今では組合側は賃金制度に関して経営側と対峙するような体系的なプランは、なにも持ち合わせていないのが実情なのだ。
現行の賃金制度は複雑怪奇。ただ正社員の賃金は形の上では職能給、成果給が中心だ。しかし、年功給部分も実質的に残されている。とはいっても属人的には能力や成果の評価次第で大きな格差が出る。ただ、個別の年齢層では、ある程度生活が出来るだけのゾーンに収まる様な賃金制度になっている。それにパート・アルバイトなど非正規労働者の低額な時間給が併存しているというわけだ。
◆連帯型賃金制度
ここで賃金制度について、ちょっとおさらいをしておきたい。
賃金制度を大きく分けると、二つに分かれる。一方は、職種をランク付けする仕事給だ。職務給,仕事給,職種給がこれにあたる。これに対し、人間を、個々の労働者をランク付けするのが属人給だ。年功(年齢)給、能力給、成果給,年俸制などだ。
職能給、成果給の特徴は,賃金が職種や職務によって格付けされるのではなく、あくまで属人的に、個々の労働者を格付けするものになっている。いわゆる属人給で、経営者が個々の労働者を査定などで格付けするものだ。当然のことながら、労働者の企業・会社への従属は強化される。日本の企業戦士、過労死などの温床となっている全人格的な労働者支配の土台となるものだった。
企業は、様々な方式の賃金体系を持っているが、多くが企業の恣意的な判断によって賃金が決められている。そもそも職能給(職務遂行能力)にしても、個々人の能力を正確に計量する基準など無いからだ。だから企業が好き勝手に個々の労働者の賃金を決めているのが実情なのだ。
とはいっても、昔からそうなのではない。現行の職能給などは,歴史的に企業。経営者側によって導入されてきた経緯があるからだ。戦後復興期の横断賃率をめぐる攻防などがその代表だが、最近の例では経団連(当時は日経連)がつくった1995年の『新時代の日本的経営』がある。それまでは正社員中心の雇用形態が当然だったものを、いわゆる中核社員と専門技能社員、それに定型的な単純労働の三類型に分け、それぞれ長期雇用の成果給正社員、専門職としての定額賃金の期間限定社員、それに単純労働の時間給の非正規労働者、この三つに類型化し、全体では非正規労働者を増やしていく、という提言だった。
それ以前はというと、パート・アルバイトなどは数も少ないうえ、家計責任を負わないママさんパートや学生バイトが多く、賃金の格差構造はそれほど大きな問題とはならなかった。日経連の提言はそれを大きく転換し、正社員の多くを非正規に置き換えていく、という宣言でもあった。
実際、日経連のこの提言を転機として、日本中に派遣や期間限定など、非正規労働者が爆発的に増加した。こうした経緯を考えれば、現行の職能給の姿をした年功給と非正規の時間給をひっくるめて同一労働同一賃金に切り替えていくには、気が遠くなる様な努力と闘いが必要なのだ。
同一労働同一賃金は、属人給とは性格がまったく違う。人ではなく仕事を格付けするもので、いわゆる仕事給・職種給だ。労働者や労働組合は、個々の企業の壁を越えて企業横断的に集団として使用者側と交渉して、それぞれの仕事・職種をランク付けする。だからその格付けは個々の企業や労働者個人の問題ではなくて、企業横断的な産業レベルでの集団的なランク付けだ。個々の企業・会社は、自分の会社の1人1人を格付けすることは出来ない。査定などで個々の企業に従属させることがそれだけ難しくなる。だから仕事給──同一労働同一賃金は、個別企業の壁を越えた企業横断的な連帯的賃金制度とも呼ばれてきたのだ。仕事内容が同じなら、どの企業で働いていても同じ賃金を受け取れるということは、賃上げでも労働者は企業の壁を越えて同一歩調を取れるし、個別組合や労働者個々人が仲違いする要素が少ない賃金形態なのだ。日本の様な労使運命共同体など成り立たない。それを知っている企業=経営者は頑強の抵抗してきたし、今でもそうだ。この賃金形態をめぐる闘いは、雇用での正規・非正規をめぐる労使間の闘いなどと合わせ、処遇の均等待遇をめぐる産業レベルでの労使の一大係争テーマなのだ。時の首相のひとことなどで動く様な代物ではない。
◆困惑とはた迷惑?経団連と連合
同一労働=同一賃金では、人をランク付けするわけではないが、それでも仕事・職種をランク付けすることで、間接的に労働者をランク付けすることになる。同一価値労働=同一賃金にしても同じである。職種の価値判断には客観的な指標に加えてどうしても主観的な指標が入るためだ。
そのランク付けは、欧米では産業別の労使が交渉で決めてきた長い歴史的な経緯がある。当然企業の言い分と労働者側の言い分が対立することも多い。が、それ以上に難しいのは、職種のランク付けをめぐる産業間や企業内での労働者側内部の調整であり、労働者どうしで納得がいくランク付けが出来るかどうかが大きな問題となってきた。
西欧では資本主義の二百数十年にわたる悲惨な労働者の状態や経験を土台にして闘い取られてきた同一労働同一賃金制度。日本の場合、結局は労働者側の合意形成が出来ないまま、企業の能力給への大きな力に対抗することが出来ないまま押し切られていった、というのが歴史的な経緯だ。
そういう曰く付きの同一労働同一賃金。裏切られた(?)形になった経団連は、困惑しながらもさっそく反撥している。経団連の副会長は、「日本は欧米と労働風土が違う。同じ仕事だから同じ賃金、とはいかない。」(2月6日朝日)とさっそく否定し、独り歩きしない様に牽制している。
では労働組合の連合は歓迎しているのか。幹部は「企業が合理的に説明できない場合、同じ仕事なら同じ賃金、待遇にすべきだ。」(2月6日同)と言うが、歯切れは悪い。この「企業が合理的に説明できない場合」というのは、安倍首相も条件にあげる「仕事の内容や経験、責任、人材活用の仕組みなどの諸要素が同じであれば」という条件と同じではないだろうか。そうであれば、これまでも企業が現行の差別賃金をそうした条件で説明してきていた実態を、何も変えられない。あるいはたして二で割るように、正社員の賃金が引き下げられることを警戒しているのだろうか。いずれにしても闘いとは無縁の連合にとって、はた迷惑と感じるのも無理からぬ所ではある。
安倍首相がいくら明言しても、現実の差別賃金は変わりようがない。ただそれが経団連の様に〝日本の労働風土〟だと、なにか自然現象のように言うのは全くの事実のねじ曲げなのだ。現実は、戦後の混乱期からの脱却に際して、労働組合の力が強くなる同一労働同一賃金の導入に頑迷に反対し、企業・経営者に都合がよい賃金制度を強引に導入してきた経緯を隠しているからだ。連合もそれに同調してきた御用組合の系譜を引き継いでいる。いはば、現行の差別賃金に象徴される〝日本の労働風土〟に、両者は共犯関係にあるのだ。
安倍首相の口から出た同一労働同一賃金。実際は単なる口から出任せ、毛針の一つに過ぎない。私たちは正面から同一労働同一賃金の旗を掲げて闘い抜く以外にない。(廣)