茶番劇はいい加減にしろ!

 軽減税率の導入を巡る議論が続けられている。選挙公約で導入を掲げた公明党ががんばっているような構図をつくりたいのだろうが、議論そのものは肝心な部分を覆い隠す、本末転倒な茶番劇でしかない。

 私たちは、大企業や富裕層に甘く、労働者や社会的弱者に厳しい消費税や税財制全般を標的にした議論と闘いを拡げていく以外にない。



茶番劇

 消費税再引き上げ時での軽減税率導入は、来年の参院選も視野に入れた安倍首相の思惑もあって、再引き上げ時の17年4月導入がほぼ固まっている。いま何を対象に軽減税率を導入するのか、自公の与党内での調整が続いている。16年度税制に関する自民党税調による取りまとめ作業が12月10日頃には固まるので、それにあわせた軽減税率の規模や線引きの議論も大詰めを迎えている。

 とはいえ、軽減税率をめぐる議論の中身は、11月1日号でも触れたようにお粗末極まるものだ。現在の焦点は、軽減税率の対象を生鮮食品の他、加工食品にどれだけ拡大するのか、が焦点になっている。仮に生鮮食品に一部の加工食品を対象に加えると軽減額は約4000億円、すべての加工食品も対象とすると1兆円,外食も対象とすると1・3兆円、その間のどこに線を引くか、というのが議論の中心だという。

 ふざけるな、と言いたい。なにも軽減税率は8%据え置きでなくとも5%や非課税でも良いはずだ。それに非課税を食料品以外にどれだけ拡げるか、といった議論も隠されたままだ。消費税を導入している各国も、20%前後の基本税率でも軽減税率は10%や5%や2%、それに非課税品目もあり、幾重にも軽減されている事例もある。それを10%だ8%だと勝手に前提条件を付けて、その中でだけ線引きする様な姑息な議論に私たちが付き合わされる筋合いはない。

 安倍首相は,軽減税率の決着を,〈税と社会保障の一体改革〉の枠内で調整する、と自民党に指示したという。要は、他の支出、たとえば公共事業や軍事費などを減らさずに、あくまで社会保障支出を減らすことで軽減税率を導入する、ということだ。

 民主党政権時の〈税と社会保障の一体改革〉でも、5%から段階的に10%への引き上げで増える税収は14兆円。その内、自動的に増える給付に7・3兆円、国民年金の国庫負担分などに廻されるのが3・2兆円ほどで、これはあくまで後付け、計算上の操作に過ぎない。肝心の社会保障の充実に廻されるのは2・8兆円ほどでしかない。安倍首相の指示でいえば、今回の軽減税率導入で減る税収は、社会保障に廻す分を減らすことでつじつまを合わせる、というわけだ。これまでの議論の成り行きを考えれば、軽減税率の対象を広げればその分だけ社会保障の拡充分が削られ、軽減税率を狭めれば充実策はそのまま維持される。結局、どちらを取るのか、という噴飯ものの議論を繰り広げているわけだ。

 むろん、消費税再引き上げを前提に考えれば、私たち低所得者や年金暮らしの人にとって軽減税率は導入されるに越したことはない。が、そのなかみは右の様な代物なのだ。そんな議論は、問題の本質を覆い隠す目くらましであり、ペテンでしかない。





聖域確保

 そもそも消費税再引き上げを決めた〈税と社会保障の一体改革〉そのものが、私たちをペテンにかけるものでしかないのだ。

 こうとつに消費増税をぶち上げた菅首相、その後の野田内閣で合意した民自公による三党合意でも、消費増税の根拠とされたのは、財政再建と社会保障財源の確保のためだった。そこでは、増え続ける社会保障費を賄うために、公平に幅広く負担してもらうとし、同時に、消費税収は全額社会保障に廻す、というものだった。

 その時点から、私としては、〈税と社会保障の一体改革〉の狙いは、社会保障を人質にした消費増税で、公共事業や軍事費など他の支出を聖域化するものだ、と批判してきた。現に安倍政権発足時から、アベノミクスなどというキャッチフレーズのもとで〈機動的な財政支出〉という景気対策が繰り返されてきた。国土強靱化を掲げた大盤振る舞いも進められてきた。増えた消費税収のおかげで他の予算はこれまで通り以上に確保されたわけだ。円安などで企業利益が増えた結果としての税収増もあわせ、国の借金を減らすのかと思いきや、税収増はばらまかれ続けてきたのが現実だ。財政再建など、はなから頭にないのだ。

 消費税は全額社会保障に使うという約束も噴飯ものだ。社会保障給付は国家財政で30兆円以上、消費税10%でもまだ足りない。今後も増え続ける社会保障給付を考えれば、今後もその都度、消費税引き上げを続けるとでもいうのだろうか。逆進性がある大衆課税で,労働者や社会的弱者を支えるという枠組み自体が、税の再配分機能を無視した本末転倒なのだ。

 少し前、基本税率22%のスウェーデンと5%の日本で、税収全体に占める割合はほぼ同じだという推計もある。それは、スウェーデンでは、医療や教育などで幅広い非課税品目があり、また食料品や医薬品などの生活必需品が軽減税率の対象になっているからだという。消費税率は、見かけの税率だけでは判断できないのだ。日本は、すでに消費税に依存する度合いが最も高い国になった、という指摘もある。

 私たちは、いま改めて主張する必要がある。逆進性がはっきりしている消費税と社会保障をリンクさせることは大企業や官僚や富裕層を利するだけであり、いまこそ消費増税反対の声を上げる場面だろう。

企業責任

 消費税問題でもっとも基本的で重要な問題は、社会保障にしても再配分問題にしても、誰の責任でそれを行うのか、ということだ。民主党政権時の議論では、所得税は働く世代の負担が大きくなりすぎるとの議論で、各世代がまんべんなく負担するべきだという、いわゆる世代間格差の問題にすり替えられた。しかし、対置すべきは、働いているかリタイアしているかは問わず、労働者・勤労者か、それとも企業や富裕者か、という対立軸だ。格差社会が進行するなか、私たちとしては、労働者を働かせていることで利益を手にする企業こそ負担すべきだと考える。

 ところが、消費再増税を巡る議論のなかでまったく埒外に置かれたのがその〈企業の社会的責任〉だった。企業が焦点になってきたのは、アベノミクスでもそうだったが、企業が活躍できる社会、企業が富む社会の実現だった。その文脈で、企業活動がしやすくなる規制緩和や、あるいは企業を国内にとどめ、外国からの企業誘致にもつながる法人減税が叫ばれ、それを段階的に実現するというのが、アベノミクスだった。現に、企業の法人実効税率は、段階的に引き下げられ、17年度には20%台に引き下げることを前提し、15年度は32・11%に引き下げ、16年度には30・88%に引き下げることが既定事実化しているのが現実だ。まったく、安倍政権に限らず、企業に優しく、庶民に厳しく、というのが歴代政権がやってきたことなのだ。

 本来は社会保障給付が増えれば、税の再分配機能を活用するためにも、企業や富裕層から増税すべきなのだ。現に円安などを背景に企業は史上空前の利益を出している。企業の内部留保は、14年度で400兆円にも膨らんでいるという。個人所得税も1974年の75%から段階的に引き下げられ、いまでは最高税率は40%程度だ。アベノミクスでは、富裕層の支出を期待するとして、相続税の引き下げも行われている。

 これらに限らず、税制全体で企業や富裕者優遇策が繰り返され、税の再分配機能は低下し続けている。現に日本の相対的貧困率も増えており、OECDでも最下位クラスだ。こんな実質的な不公平、アンバランスな税制を続けながら〈税と社会保障の一体改革〉などというペテンを続けさせるわけにはいかない。



本丸を攻めよう

 社会保障に関する税と財政の枠を取り払って、より広い土俵で考えれば、年金と医療の保険制度がある。社会保険負担でいえば、現行では基本は50%ずつという労使折半だ。この是非と改善策が議論の土俵からはじめから排除されているのがこれまでの一体改革だ。

 私も何回も問題提起してきたように、社会保険の負担が欧米では企業により多く負担させている。たとえば、日本はほぼ労使折半だが、フランスでは事業主と勤労者の負担割合は3対1程度、スウェーデンでは4対1程度だ(別表参照)。要は、社会保険料の労使負担率を、企業に重く負担させることが急務であり、また効果も大きい。労働者の健康や障害、それに老後の生活に対して企業責任を重くするのである。

 税制にしても社会保険にしても、企業に重い責任を課すという、このテーマが〈一体改革〉では完全に無視され、土俵外に追いやられてしまったのだ。現在の企業中心社会から利益を得ている企業は労働力に依存しており、その世代を超えた確保によってはじめて利益を得ることが出来る。その社会的責任を負わせることが重要で不可欠なのだ。

 社会保障給付を税金で、しかも大衆課税である消費税とリンクさせたことが、諸悪の根源であり、それを企業責任を回避するマジックのごとく振り回されたのが、あの〈一体改革〉:だったのだ。現に企業や財界は、公的年金の義務化=年金財源の税金化をしきりに叫んでいた。労使折半の社会保険から税による負担にすれば、企業負担はなくなる。一体改革は企業の意向に沿って行われているのだ。その方便に利用されたのが、いわゆる世代間格差の問題だったのだ。社会保障改革の本丸は、そのための企業責任を明確にすることでもある。

 こうした課題を解決するためにも、労働者による闘いを前進させることが焦眉の課題になる。消費増税や軽減税率をめぐる闘いは、国の政策だけのものではなく、したがって国政選挙だけの問題だけではない。企業責任に対する、労働者の闘いの課題と地続きのものなのだ。労働者やその先代や子孫まで含めて、自分たちの生活を守るのは、自分たちの闘い如何にかかっているのだ。(廣)