外資による日本企業の株の買いあさり、大型合併や東芝の粉飾決算など、企業をめぐるニュースには事欠きません。一方では企業の内部留保が史上最高につみあがりながら賃上げや設備投資には資金を回さず、このような反社会的行動が批判されています。
「企業の生み出す富は誰のものか?」そして「企業はそもそも誰のものか?」という現代的なテーマについて「ワーカーズ・バックナンバー」より再録しました。

「ワーカーズ・バックナンバー」から
324号 2006/7/1
村上代表が証券取引法違反で逮捕された。年初(06年)のライブドアの堀江元社長に引き続く逮捕で、マネー資本主義を招来した小泉首相の退場を象徴する事件となった。
検察による「時代の寵児」に向けられたこの逮捕行為は、利潤のためには手段を選ばないという米国流の市場原理万能主義に対し、法による支配、言い換えれば国家による統制機能の回復という、国家権力による周到に準備された介入意図が透けて見えるようだ。
こうした村上逮捕の持つ意味は脇へ置いておくとして、ここでの関心は、国土開発=西武鉄道の堤義明逮捕に続き、堀江、村上逮捕で再び持ち上がっている「会社は誰のものか」という、より根源的なテーマだ。それを考える一つの材料が6月23日の朝日新聞に出ているので、それを参考に再度この点を考えてみたい。

■現象論に終始する「ステークホルダー論」
周知のように、「会社は誰のものか」という根源的なテーマが世情をにぎわすようになったのは、最近では国土開発の代表として西武鉄道グループに君臨したあの堤義明が虚偽記載で証券取引法違反で逮捕されたこと、さらには昨年ライブドアの堀江貴文社長がニッポン放送株を買い占めてフジサンケイグループを乗っ取ろうと世間の耳目を集めたからだ。当時、堀江社長の買い占めに対して、日本放送側が様々な対抗策を講じて派手な活劇を展開していたのは記憶に新しい。そこでは経営者側が株主を選ぶのか、あるいは株主の意志が会社経営を左右するのか、ということだった。いいかえれば一体「会社とは誰のものなのか」という究極のテーマが突然浮上したわけだ。
このテーマも含む三人の専門家の主張を掲載した6月23日の朝日新聞の紹介から始めたい。
ビル・エモット氏(英エコノミスト誌の前編集長)は、日本型資本主義はバブル経済でそれまでの銀行主導の規律が崩れたが、米国流のカウボーイのような株主の登場を想定した規制が甘く、それを東京地検がかつての日本型の既成を取り戻すためか、あるいは証券市場における法による統治を確立しようとして時代を象徴する有名人の逮捕に踏み切った。だが、それでも英米型に近づくだろう、というものだ。
二人目は青木昌彦氏(スタンフォード大名誉教授)だ。かれは「会社とは何か、どうあるべきか」という論争について、一つは会社は株主のもので、経営者はその代理人として行動すべきだというもの、もう一つは会社は株主だけでなく従業員や地域コミュニティーなど様々なステークホルダー(利害関係人)から信託を受けた機関である、と紹介した上で、今回の一連の事件はステークホルダー論の新しい展開と位置づけることができる、としている。というのは、最近のように技術や価値観が多様な時代では、企業は建物・土地・機械のような「物的資産」より、たとえば「環境に優しい」というような「企業理念」や特別な情報生産力を持った「人的資源」やブランドなどの「情報資源」等が一層重要な役割を果たすからだという。結論的には、資本市場の公正性を保つルールづくりと、それに耐えられる企業の倫理的基準や企業価値を造り出していくことが必要だ、というものだ。
■「ステークホルダー論」では課題は見えてこない
3人目は「不平等社会日本」の著者でもある佐藤俊樹氏(東京大助教授)。
佐藤氏は「会社は本来、誰の所有物でもない。株主のものでも、従業員のものでも、経営幹部のものでもない。誰の所有物でもないから法人なのであって、誰かのものなら法人ではない。」という。彼によれば、バブル経済の崩壊後は労働組合や銀行の監視機能が低下し、経営者が「自分たちのもの」にし始めた会社に対し、村上氏が「物言う株主」として登場した。が、彼はいつでも株を売り抜けるという自由を手放さないまま会社を自分のモノ扱いした、だから村上ファンドによる阪神電鉄株の買い占め劇も、経営幹部による「私物化」と株主による「私物化」の正面衝突だったということになる。結局、佐藤氏は「会社は誰のものでもない。私たちは誰がどのように会社に関わるべきかを自分で考えて決めるしかない。」という結論で満足する。
「会社は誰のものか」を直接取り上げていないエモット氏をのぞけば、青木氏も佐藤氏も結局は「ステークホルダー論」に立っていることが分かる。その「ステークホルダー論」というのは会社は株主、経営者、従業員、購買者・消費者など、様々な利害関係者が関わり支えている、という観点の考え方だ。実際、佐藤氏も「私たちの生活は会社に支えられている。『この会社なら』と安心して、商品やサービスが買える。勤め先や投資先にもできる。おかしな会社を延命させる必要はないが、快適な生活にはまともな会社が続くことが欠かせない。」として、青木氏と同じような趣旨の発言をしている。
確かに青木氏や佐藤氏にの言うことは常識的なものだ。それでも最終的には「市場の評価に耐えられる企業価値」を強調する青木氏にしても、「会社に関わるべきかを自分で考えて決めるしかない。」としか示せない佐藤氏にしても、「ステークホルダー論」では、目の前で争われた企業の争奪劇に対して、読者、労働者はどういう方向での解決をめざすべきなのかさっぱり見えてこない。結局「ステークホルダー論」とは、会社とは様々な利害関係の結節点として存在している、という事実を後追いするだけでしかなく、「会社は誰のものか」という「有史以来」(?)の根源的な問題に正面から答えていないことになる。
■所有権の復活?
「会社は誰のものか」に正面から向き合うには、やはり「所有」の問題に立ち返る必要がある。
結論的に言えば、堀江氏や村上氏の行為が提起したものは、所有権至上主義の立場だ。日本放送株の所得によって日本放送ばかりでなくフジサンケイグループ全体をライブドア傘下の子会社にしたいという堀江氏や、自分が差し向けた経営陣によって阪神電鉄への支配権を獲得しようとした村上氏の行動は、それ自体非常に分かりやすいものだった。これに対して防衛策に追われた日本放送=フジサンケイグループや阪神電鉄側の防衛策は、経営権すなわち占有権による所有権への抵抗と見ることもできる。
こういう観点で見れば、漫然とした経営陣につけいることで企業経営、企業統治のずさんさを暴き出した堀江氏や村上氏の行動は、既成勢力への挑戦とも受け取られてアウトサイダーなどから喝采を受けもした。しかし二人の行動は、経営権優位の日本的な会社のあり方への挑戦という側面はあったにしても、その性格自体は古い古典的なものでしかない。
というのも、周知のように所有権至上主義の社会というのは、資本主義以前の封建社会での領主による統治権という政治権力優位の時代に対して、資本主義の成立とともに確立してくるものだからだ。日本でも明治政府が進めた政商の育成や官営工場の払い下げなどで強大な財閥が持ち株会社を通じて巨大な企業グループを支配してきた歴史がある。それが敗戦による財閥解体や企業グループによる株の相互持ち合いなどによって大株主の力が相対的に弱体化し、法人資本主義(奥村宏)や経営者革命(J・バーナム)が強調されるようになった。日本で言えば、戦前の所有権優位の時代から戦後の経営権・占有権優位の時代への転換だ。
そうした日本的経営がバブル崩壊で崩れ、グローバル競争時代への突入という状況の中で登場した小泉首相は、規制緩和などで米国型の弱肉強食の市場=利潤万能型社会を招き寄せてきた。資本主義の先祖返りとも言えるかもしれない「儲かればいい」という二人は、そうした時代を象徴するものとして「時代の寵児」として持ち上げられたわけだ。が、しかしそれは私たち労働者のめざすべき方向とは全く逆のものでしかない。
■表舞台から退場した株主=資本家
私たちがめざすべきは、経営権=占有権に対する所有権優位の社会ではない。占有権優位の社会こそめざすべき目的である。しかしその場合、現在の会社での占有権は経営者が独占している。そのうえ日本では労使運命共同体論で労働者は会社人間・企業戦士にさせられてきた。私たち労働者は、その経営者の指揮・監督する下である意味(知る業の恐怖を背負っているという意味で)では強制労働に従事させられている。若干の発言権や仕事のやり甲斐などというのは、あくまでその土台の上での話である。労働者はいわば経営を補助する位置、すなわち占有補助者の地位に甘んじている。その占有補助者の地位から経営権を獲得することで名実とも占有者の地位を確立すること、言い換えれば労働権優位の社会への転換であって、これが労働者がめざすべき課題であり目標なのだ(広西説)。
佐藤氏は「誰の所有物でもないから法人なのだ」などとしているが、誰のものでもないものは皆のもの、すなわち共有物なのかというと、そんなことはないのは子供でも分かる。最終的な決定権が誰にあるのか、を見れば分かりやすい。会社(株式会社)は法律上は株数による議決権を通じて最終的な決定権は株主にある。しかし現在の大企業では単独で議決に必要な株を所有している株主はまれで、だから一般的には広く業務執行権を委ねられた経営者(取締役)の裁量の余地が大きくなっているのが普通だ。ほどんとの株主は零細株主で、持ち株に比例した有限責任を負う無力な存在でしかない。その分だけ大株主は相対的に少数の株の所有で大きな決定権を手にすることが出来るわけだ。が、単独の過半数に満たない株しか所有していない中では、絶対的な決定権を持つことは出来ない。いわゆるオーナー社長は例外的な存在でしかなく、結局は個々の会社では大株主と経営者の個々の状況で力関係が決まることになる。
■所有権優位から占有権優位、そして労働権優位の社会へ
しかしここで考えなければならないのは大株主と経営者の力関係の変遷ではない。会社(株式会社)の持つ本来の意義こそ考えるべきなのだ。
株式会社の意義については様々言われている。巨額の資金の集積や経営専門家による積極経営などだ。しかし私たち労働者が注目すべきは、株式会社によって所有と経営がはっきり分離してきたこと、大株主という会社の所有者が経営の一線からいなくなったことだ。言い換えれば生産過程から大株主、資本家がいなくなったことである。資本家による労働者に対する業務指揮権が経営専門家としての雇われ経営者に移されたことは、それだけ労働者に対する資本家の指揮命令権が弱体化したこと、所有にもとづく指揮権が間接化したということだ。逆に言えばそれだけ所有権の力が後退したことである。資本主義の発展は、それまでの政治権力優位から所有権優位の体制を確立したが、株式会社の発展を通じた資本主義の高度化そのものの結果として所有権の間接化が進んだことになる。現に会社や職場で働いている限りは、会社の所有者が誰であるかはほとんど意識されず、日常的には経営者と労働者が会社を動かし、支えているのである。
とはいえ、経営者と労働者は占有者と占有補助者というように、その位置関係、利害関係がぶつかり合ってもいる。経営者の胸先三寸で労働者の首が飛ぶ場合もあり、現にバブル経済崩壊の過程で膨大な労働者がリストラ=解雇されてきた。占有補助者が占有者になるということはまさに革命的な事態である。
株式会社の所有と経営の分離から、労働者が占有権を獲得して会社を我がものとするという課題について考えてきたが、その手本はすでに存在している。協同組合のことである。協同組合は、内部的には出資者=労働者が経営を担い、また自ら労働する。出資金の配当についても出資金に比例して受け取るのではなく、労働していることに対して平等に配当される建前になっている。いわば所有権は協同組合設立の場面だけの問題に局限されており、経営権は労働権と一体のもの、むしろ労働権を前提したものになっている。それだけ労働権の力が強化・拡大していることを意味しているわけで、いわば所有権至上主義や経営権至上主義に取って代わって「労働権至上主義社会」というべき社会のモデルになっている。
とはいってもそうした関係は協同組合の内部原理に止まっており、また現存する協同組合は消費・流通協同組合がほとんどで、その中には「会社化」しているものも多くなっている。だから現存する協同組合をそのまま拡大していけば良いというほど課題は簡単なものではない。しかし資本主義がもたらした企業社会のただ中に、所有権の明らかな制限・後退や労働権優位のモデルが生み出されていることにこそ注目していきたい。単なる「ステークホルダー」の片割れに止まっている場合ではないのだ。(廣)
「企業の生み出す富は誰のものか?」そして「企業はそもそも誰のものか?」という現代的なテーマについて「ワーカーズ・バックナンバー」より再録しました。

「ワーカーズ・バックナンバー」から
324号 2006/7/1
村上代表が証券取引法違反で逮捕された。年初(06年)のライブドアの堀江元社長に引き続く逮捕で、マネー資本主義を招来した小泉首相の退場を象徴する事件となった。
検察による「時代の寵児」に向けられたこの逮捕行為は、利潤のためには手段を選ばないという米国流の市場原理万能主義に対し、法による支配、言い換えれば国家による統制機能の回復という、国家権力による周到に準備された介入意図が透けて見えるようだ。
こうした村上逮捕の持つ意味は脇へ置いておくとして、ここでの関心は、国土開発=西武鉄道の堤義明逮捕に続き、堀江、村上逮捕で再び持ち上がっている「会社は誰のものか」という、より根源的なテーマだ。それを考える一つの材料が6月23日の朝日新聞に出ているので、それを参考に再度この点を考えてみたい。

■現象論に終始する「ステークホルダー論」
周知のように、「会社は誰のものか」という根源的なテーマが世情をにぎわすようになったのは、最近では国土開発の代表として西武鉄道グループに君臨したあの堤義明が虚偽記載で証券取引法違反で逮捕されたこと、さらには昨年ライブドアの堀江貴文社長がニッポン放送株を買い占めてフジサンケイグループを乗っ取ろうと世間の耳目を集めたからだ。当時、堀江社長の買い占めに対して、日本放送側が様々な対抗策を講じて派手な活劇を展開していたのは記憶に新しい。そこでは経営者側が株主を選ぶのか、あるいは株主の意志が会社経営を左右するのか、ということだった。いいかえれば一体「会社とは誰のものなのか」という究極のテーマが突然浮上したわけだ。
このテーマも含む三人の専門家の主張を掲載した6月23日の朝日新聞の紹介から始めたい。
ビル・エモット氏(英エコノミスト誌の前編集長)は、日本型資本主義はバブル経済でそれまでの銀行主導の規律が崩れたが、米国流のカウボーイのような株主の登場を想定した規制が甘く、それを東京地検がかつての日本型の既成を取り戻すためか、あるいは証券市場における法による統治を確立しようとして時代を象徴する有名人の逮捕に踏み切った。だが、それでも英米型に近づくだろう、というものだ。
二人目は青木昌彦氏(スタンフォード大名誉教授)だ。かれは「会社とは何か、どうあるべきか」という論争について、一つは会社は株主のもので、経営者はその代理人として行動すべきだというもの、もう一つは会社は株主だけでなく従業員や地域コミュニティーなど様々なステークホルダー(利害関係人)から信託を受けた機関である、と紹介した上で、今回の一連の事件はステークホルダー論の新しい展開と位置づけることができる、としている。というのは、最近のように技術や価値観が多様な時代では、企業は建物・土地・機械のような「物的資産」より、たとえば「環境に優しい」というような「企業理念」や特別な情報生産力を持った「人的資源」やブランドなどの「情報資源」等が一層重要な役割を果たすからだという。結論的には、資本市場の公正性を保つルールづくりと、それに耐えられる企業の倫理的基準や企業価値を造り出していくことが必要だ、というものだ。
■「ステークホルダー論」では課題は見えてこない
3人目は「不平等社会日本」の著者でもある佐藤俊樹氏(東京大助教授)。
佐藤氏は「会社は本来、誰の所有物でもない。株主のものでも、従業員のものでも、経営幹部のものでもない。誰の所有物でもないから法人なのであって、誰かのものなら法人ではない。」という。彼によれば、バブル経済の崩壊後は労働組合や銀行の監視機能が低下し、経営者が「自分たちのもの」にし始めた会社に対し、村上氏が「物言う株主」として登場した。が、彼はいつでも株を売り抜けるという自由を手放さないまま会社を自分のモノ扱いした、だから村上ファンドによる阪神電鉄株の買い占め劇も、経営幹部による「私物化」と株主による「私物化」の正面衝突だったということになる。結局、佐藤氏は「会社は誰のものでもない。私たちは誰がどのように会社に関わるべきかを自分で考えて決めるしかない。」という結論で満足する。
「会社は誰のものか」を直接取り上げていないエモット氏をのぞけば、青木氏も佐藤氏も結局は「ステークホルダー論」に立っていることが分かる。その「ステークホルダー論」というのは会社は株主、経営者、従業員、購買者・消費者など、様々な利害関係者が関わり支えている、という観点の考え方だ。実際、佐藤氏も「私たちの生活は会社に支えられている。『この会社なら』と安心して、商品やサービスが買える。勤め先や投資先にもできる。おかしな会社を延命させる必要はないが、快適な生活にはまともな会社が続くことが欠かせない。」として、青木氏と同じような趣旨の発言をしている。
確かに青木氏や佐藤氏にの言うことは常識的なものだ。それでも最終的には「市場の評価に耐えられる企業価値」を強調する青木氏にしても、「会社に関わるべきかを自分で考えて決めるしかない。」としか示せない佐藤氏にしても、「ステークホルダー論」では、目の前で争われた企業の争奪劇に対して、読者、労働者はどういう方向での解決をめざすべきなのかさっぱり見えてこない。結局「ステークホルダー論」とは、会社とは様々な利害関係の結節点として存在している、という事実を後追いするだけでしかなく、「会社は誰のものか」という「有史以来」(?)の根源的な問題に正面から答えていないことになる。
■所有権の復活?
「会社は誰のものか」に正面から向き合うには、やはり「所有」の問題に立ち返る必要がある。
結論的に言えば、堀江氏や村上氏の行為が提起したものは、所有権至上主義の立場だ。日本放送株の所得によって日本放送ばかりでなくフジサンケイグループ全体をライブドア傘下の子会社にしたいという堀江氏や、自分が差し向けた経営陣によって阪神電鉄への支配権を獲得しようとした村上氏の行動は、それ自体非常に分かりやすいものだった。これに対して防衛策に追われた日本放送=フジサンケイグループや阪神電鉄側の防衛策は、経営権すなわち占有権による所有権への抵抗と見ることもできる。
こういう観点で見れば、漫然とした経営陣につけいることで企業経営、企業統治のずさんさを暴き出した堀江氏や村上氏の行動は、既成勢力への挑戦とも受け取られてアウトサイダーなどから喝采を受けもした。しかし二人の行動は、経営権優位の日本的な会社のあり方への挑戦という側面はあったにしても、その性格自体は古い古典的なものでしかない。
というのも、周知のように所有権至上主義の社会というのは、資本主義以前の封建社会での領主による統治権という政治権力優位の時代に対して、資本主義の成立とともに確立してくるものだからだ。日本でも明治政府が進めた政商の育成や官営工場の払い下げなどで強大な財閥が持ち株会社を通じて巨大な企業グループを支配してきた歴史がある。それが敗戦による財閥解体や企業グループによる株の相互持ち合いなどによって大株主の力が相対的に弱体化し、法人資本主義(奥村宏)や経営者革命(J・バーナム)が強調されるようになった。日本で言えば、戦前の所有権優位の時代から戦後の経営権・占有権優位の時代への転換だ。
そうした日本的経営がバブル崩壊で崩れ、グローバル競争時代への突入という状況の中で登場した小泉首相は、規制緩和などで米国型の弱肉強食の市場=利潤万能型社会を招き寄せてきた。資本主義の先祖返りとも言えるかもしれない「儲かればいい」という二人は、そうした時代を象徴するものとして「時代の寵児」として持ち上げられたわけだ。が、しかしそれは私たち労働者のめざすべき方向とは全く逆のものでしかない。
■表舞台から退場した株主=資本家
私たちがめざすべきは、経営権=占有権に対する所有権優位の社会ではない。占有権優位の社会こそめざすべき目的である。しかしその場合、現在の会社での占有権は経営者が独占している。そのうえ日本では労使運命共同体論で労働者は会社人間・企業戦士にさせられてきた。私たち労働者は、その経営者の指揮・監督する下である意味(知る業の恐怖を背負っているという意味で)では強制労働に従事させられている。若干の発言権や仕事のやり甲斐などというのは、あくまでその土台の上での話である。労働者はいわば経営を補助する位置、すなわち占有補助者の地位に甘んじている。その占有補助者の地位から経営権を獲得することで名実とも占有者の地位を確立すること、言い換えれば労働権優位の社会への転換であって、これが労働者がめざすべき課題であり目標なのだ(広西説)。
佐藤氏は「誰の所有物でもないから法人なのだ」などとしているが、誰のものでもないものは皆のもの、すなわち共有物なのかというと、そんなことはないのは子供でも分かる。最終的な決定権が誰にあるのか、を見れば分かりやすい。会社(株式会社)は法律上は株数による議決権を通じて最終的な決定権は株主にある。しかし現在の大企業では単独で議決に必要な株を所有している株主はまれで、だから一般的には広く業務執行権を委ねられた経営者(取締役)の裁量の余地が大きくなっているのが普通だ。ほどんとの株主は零細株主で、持ち株に比例した有限責任を負う無力な存在でしかない。その分だけ大株主は相対的に少数の株の所有で大きな決定権を手にすることが出来るわけだ。が、単独の過半数に満たない株しか所有していない中では、絶対的な決定権を持つことは出来ない。いわゆるオーナー社長は例外的な存在でしかなく、結局は個々の会社では大株主と経営者の個々の状況で力関係が決まることになる。
■所有権優位から占有権優位、そして労働権優位の社会へ
しかしここで考えなければならないのは大株主と経営者の力関係の変遷ではない。会社(株式会社)の持つ本来の意義こそ考えるべきなのだ。
株式会社の意義については様々言われている。巨額の資金の集積や経営専門家による積極経営などだ。しかし私たち労働者が注目すべきは、株式会社によって所有と経営がはっきり分離してきたこと、大株主という会社の所有者が経営の一線からいなくなったことだ。言い換えれば生産過程から大株主、資本家がいなくなったことである。資本家による労働者に対する業務指揮権が経営専門家としての雇われ経営者に移されたことは、それだけ労働者に対する資本家の指揮命令権が弱体化したこと、所有にもとづく指揮権が間接化したということだ。逆に言えばそれだけ所有権の力が後退したことである。資本主義の発展は、それまでの政治権力優位から所有権優位の体制を確立したが、株式会社の発展を通じた資本主義の高度化そのものの結果として所有権の間接化が進んだことになる。現に会社や職場で働いている限りは、会社の所有者が誰であるかはほとんど意識されず、日常的には経営者と労働者が会社を動かし、支えているのである。
とはいえ、経営者と労働者は占有者と占有補助者というように、その位置関係、利害関係がぶつかり合ってもいる。経営者の胸先三寸で労働者の首が飛ぶ場合もあり、現にバブル経済崩壊の過程で膨大な労働者がリストラ=解雇されてきた。占有補助者が占有者になるということはまさに革命的な事態である。
株式会社の所有と経営の分離から、労働者が占有権を獲得して会社を我がものとするという課題について考えてきたが、その手本はすでに存在している。協同組合のことである。協同組合は、内部的には出資者=労働者が経営を担い、また自ら労働する。出資金の配当についても出資金に比例して受け取るのではなく、労働していることに対して平等に配当される建前になっている。いわば所有権は協同組合設立の場面だけの問題に局限されており、経営権は労働権と一体のもの、むしろ労働権を前提したものになっている。それだけ労働権の力が強化・拡大していることを意味しているわけで、いわば所有権至上主義や経営権至上主義に取って代わって「労働権至上主義社会」というべき社会のモデルになっている。
とはいってもそうした関係は協同組合の内部原理に止まっており、また現存する協同組合は消費・流通協同組合がほとんどで、その中には「会社化」しているものも多くなっている。だから現存する協同組合をそのまま拡大していけば良いというほど課題は簡単なものではない。しかし資本主義がもたらした企業社会のただ中に、所有権の明らかな制限・後退や労働権優位のモデルが生み出されていることにこそ注目していきたい。単なる「ステークホルダー」の片割れに止まっている場合ではないのだ。(廣)