反転攻勢に出よう!
学者・専門家による反対表明、それに行動に立ち上がった多くの人々による反対の声を無視して、アベ戦争法が成立させられてしまった。国会内外の議論で、安倍首相などが言う同法の必要性や根拠の綻びが次々と明らかになるなかでの強行採決、ただただ国会議席の多数に依拠しての暴挙という以外にない。
安倍首相にとっては念願の戦争法の成立だったかもしれない。が、反対行動の拡がりは、武力行使への安倍首相のフリーハンドを狭めるまで追い詰めたともいえる。
法案が成立させられたとはいえ、ここで立ち止まることなく、防御戦から陣地戦へ、さらには追撃戦へと闘いの歩みを進めていきたい。
◆裏口入学?
すでに多く語られてきたように、今回の戦争法の意味は、なんだかんだと屁理屈をこねて自衛隊が現実に武力行使できるようにすること、さらには政治と軍事力を一体化して外交を展開する〝普通の帝国主義国家〟として再登場したいという、安倍首相の思惑を実現する一里塚だ、ということにある。いはば、安倍首相が言う、〝自衛隊の持てる力を発揮する〟ための解釈改憲だった。
はじめに戦後の経緯をちょっとだけ振り返る事から入ってみたい。
日本は、あの戦争への反省と教訓を踏まえ、戦争とそのための戦力を放棄し、平和な国家づくりに進むはず、だった。あるいは、日本は〝普通の国〟としてではなく、戦争はしない、武力も持たない〝特殊な国〟として再出発することで、戦後の国際社会に復帰することが出来たともいえる。
ただし現実には、平和国家としての再出発を願う圧倒的多数の人々の願いに反し、一つまた一つとその歩みをねじ曲げられてきた。その出発点が、サンフランシスコ条約に基づく日本の本格的な再軍備と日米軍事同盟だった。それ以降、戦前から続く日本の反動勢力は、日本も〝普通の国家〟として、憲法の制約を実質的に突破してしまう施策を次々と導入してきた。
戦前のような軍事力も行使できる普通の国への再転換は、当然ながら内外からの厳しい警戒や批判を受けてきたものでもあった。日本の支配勢力は、やむなく日本の〝普通の国家〟への回帰を、日米同盟のもとで、米国や米軍に追随する手法でその回帰を追求する道を選択せざるを得なかったわけだ。

ただし、こうした野望がそう簡単に実現できるはずもない。米国の日本コントロール、アジア民衆の監視、それに日本の民衆などの平和意識と闘いが、その野望の前に立ちはだかっていたからだ。安倍首相が言う〝戦後レジームからの脱却〟とは、そうした内外からの制約を散り払って、戦前のように軍事力の行使もいとわない〝普通の国〟へと日本を再度大転換させる、ということに他ならない。だから〝戦後レジームからの脱却〟という旗印は、戦前のような〝日本を取り戻す〟という安倍首相の野望を、単刀直入に表すスローガンなのだ。
ただしそうした安倍首相の野望も、すんなり実現したわけではない。第二次政権発足直後は、そのもくろみを改憲に賭けてきた。が、三方向からの制約は重く、明文改憲という正面突破の思惑は跳ね返され、やむなく裏口入学としての96条改訂や、さらには何度も繰り返してきた解釈改憲に後退せざるを得なかったのが、これまでの経緯だった。
今回の戦争法の成立は、一面で安倍首相などの好戦派の野望がまた一つ実現したことは間違いない。が、半面では、当初の思惑が砕かれて裏口からしかその野望を実現できなかったという意味で、安倍首相としては、中途半端な結果を余儀なくされたことになる。私たちは、今後の闘いのあり方を考える上でも、こうした攻防戦の位置と性格を直視する必要がある。

◆原動力

今回の戦争法案反対の闘いは、最近になく大きく拡がった。これまでの一部野党や左派的・独立的労組、あるいは政治グループ・市民団体などが担ってきた反対行動は、今回大きく拡がったのだ。
多方面から注目されているように、学生などの若者やママさんグループそれに学者集団など、これまで政治行動から距離を置いてきた人たちが大挙して政治の舞台と街頭に登場した。それに、学者や各職業団体からも多くの反対決議や声明が寄せられた。これらにも触発されて、ごく普通の人たちがそれぞれ街頭に出てアピールする場面が、それこそ都会から地方まで含めて日本中のあちこちで見られた。
こうした行動は、90年初頭のアフガン・イラク戦争反対行動の時より、格段に拡がりを持ったものだった。その時は、人々の人道的な正義感や使命感から突き動かされていたのに対し、今回の行動は、それこそ自分たちや自分の子どもが戦争にかり出されるかもしれない、しかもそのことが自分の知らないところで決められてしまうという、まさに自分の身に降りかかる脅威として捉えられていた、ということだろう。それがたとえ「利己的」と言われようが、自分自身の問題として、主権者意識・当事者意識を持って受け止められたことは、反原発行動と共通で近年にない画期的な事態だった。そうした思いやそこからわき上がる行動は、ちょっとやそっとのことで消え去ることがない。一端このことを自覚した人々は、たとえ一時は最前線から退いたとしても、事態の推移によっては必ず行動で意思表示するだろう。
政治が変わるのは、いつの時代でも新しい行動参加者が大規模に政治の舞台に登場する時だ。そうした人たちが政治変革の原動力となる。反原発や今回の闘いで、その端緒が切り開かれた事になる。今後それがどう拡大・展開するか、真価が問われる時でもある。新しい主役は、多くの課題を乗り越えて必ず飛躍した闘いを展開するだろう。
◆結合
ただ今後の闘いに影響する課題や一抹の危惧も無いわけではない。
今回の戦争法案反対の根拠として、憲法違反かどうかに大きな争点が集中したこともその一つだ。それ自体が一つの大きな争点であるには違いない。が、本来は憲法に違反している日米軍事同盟や在日米軍基地の問題など、現実の政治・軍事問題との関係性が時に後景に追いやられたことである。このことは、安倍政権が、現実の安保環境が激変したこと、あるいは最近の中国の脅威を協調してきた姿勢への全般的な対決の構図をつくる面での不充分さと関連している。安倍政権との攻防は、平和主義の理念追求と安保・軍事面での現実対応とですれ違いに終始した。
街頭など闘いの最前線では、一面化や単純化はやむを得ないことで、必要な場面もある。が、継続的な闘いの観点からは、土台の不充分さとして今後の闘い方にも影響するかもしれない。すべて今後の闘い方次第にかかっている。
またこの間の街頭での闘いをリードしてきた観がある学生団体(SEALDs)や学者の会などの一部には、政党や労組などの旧来型の闘いへの違和感や反撥からか、個人としての闘いを重視する声も聞かれた。あるいは政党や労組などの行動を〝動員された行動〟だと一面化して捉え、それに対置するものとして〝個人の自発的な行動〟を強調する発言もあった。
現実の政党や労組、あるいはかつてのそれらの闘いがそうした一面を持っていたのは否定出来ないし、克服すべき課題ではある。が、個々の闘いを超えて全体的、長期的な闘いを牽引すべき政党や、職場や地域などを基盤として自分たちの利益や社会的な活動をする労組の運動を否定したり一刀両断して済ますわけにはいかない。
たとえばやり玉に挙げる動員型の集会・デモにおいても、工場や職場での組合員の声や意志を背景として行動に出るという側面も見る必要がある。私が所属したかつての組合でも、集会やデモに取り組むべきだ、という組合員の声が執行部を動かす場面も多々あったのだから。
端的な話が、街頭での集会やデモが、工場や職場でのストライキなどと結びつくことに、政権や支配層は危機感を抱き、また動揺する。かつて「桜田テーゼ」というものがあった。40年近く前の話だが、当時の日経連会長だった桜田武が、ロッキード事件やスト権ストで混乱した政治状況のなかで発言した言葉だ。主旨は〝政治は混乱していても、企業の職場が労使協調で安定していて、それに警察や官僚組織が機能していれば,支配体制は安泰だ〟というものだった。いわゆる「労使関係安定帯論」である。国家支配の要諦である体制の安定策を語ったこの発言に即してみれば、今回の闘いの最大の弱点と言えば、個々の組合員の声を反映した労働組合の参加が限られたこと、しかも街頭やネットでの闘いに終始し、職場や工場での闘いと連動できなかったこと、だろう。
今回の若者などの闘いは、あの中東でのジャスミン革命や香港での雨傘革命、それにニューヨークのオキュパイ運動などに触発された面もあるだろう。それら若者を中心とする闘いはそれなりに大きな役割を果たした。が、問題はそうした闘いが一旦はうまくいったり、あるいは挫折した後の問題だ。エジプトでは、11年の民衆革命で政権打倒にこぎ着けた。が、イスラム勢力に偏ったムルシ政権が13年の軍部のクーデターで排除される段階では、青年組織の一部はむしろ軍隊に期待するという態度を取ってシーシ軍事クーデターを後押ししてしまった。いま、エジプト革命を牽引した少なくない青年が監獄に入れられているという。こうした諸外国の経験からも学んでいく必要がある。
私は、反原発運動も同じだが、普通の市民による個々の自発的な行動と、政党や労組の組織的な闘いが結合するような道を模索すべきだと考える。これらはいまの民間大企業を中心とする御用組合が多い連合労組には期待できないとしても、一連の反原発闘争や戦争法案反対の闘いの場でも、現に個々の左派的・独立系組合などは重要な参加勢力になっているのだ。そうした将来展望を共有することで、戦争法制の撤廃や安倍政権打倒をめざす闘いのバージョンアップも可能になるのだと思う。
◆追撃
戦争法が成立して、日本は本当に海外で戦争が出来るようになったのだろうか。法的土俵では出来るようになったかもしれないが、政治的には、極めて脆弱な土俵しか作れなかった、ともいえる。拡がった反対意見や街頭行動が、強行突破を諮った安倍政権に実質的な縛りの役割を果たすからだ。かつて日本周辺という概念は地理的概念ではないとしながら、結局は日本周辺に限定せざるを得なかったことと同じだ。
現に、安倍首相が集団的自衛権の行使を可能にするために持ち出したホルムズ海峡封鎖や米艦防護の事例は、答弁が食い違ったり修正されたりで、実際に行使できるか疑問符が付いたままだ。出撃準備中の米軍機への給油など、米軍の武力行使との一体化の問題も曖昧さが浮き彫りになった。また存立危機事態や重要影響事態という概念も曖昧さが露わになり、事実上の政府への白紙委任に対して厳しい目が注がれるようになった。これらも含めて実際の法律運用や武力行使に際して、政権の判断は厳しい批判の目に晒されるだろう。いはば、実際の法律運用の道に地雷が埋め込まれたようなものだ。
いうまでもないが、安倍首相の野望は今回の戦争法が最終目標ではない。次はなにが来るのだろうか。
普通であれば、安倍首相が当初持ち出していたように集団的自衛権の全面行使、それを可能にするような憲法の明文改定だろう。しかしこれまでの攻防で、国民世論の半ば以上が、戦争法案のごまかしや危険性を見抜いてしまった。過去の改憲アンケートで9条改憲では改正賛成派が少数だったが、憲法改正そのものには改憲賛成派が多数だった。が、安倍政権による改憲そのものへの警戒観や批判が拡がっており、明文改憲はこれまで以上にハードルが高くなった。一本調子に改憲に走ることは出来ないだろう。むしろ今後の展開は、実質的な軍事力の整備や海外派兵の実績づくりなどに向けられるかもしれない。現に、政権は来年早々にも南スーダンでのPKO活動で今回の戦争法の適用を準備している。とはいっても、安倍首相などは9条改憲をあきらめたわけではない。現にその旗は掲げ続けるとも明言している。
安倍首相は通常国会の会期末を前に記者会見した。そこでは戦争法だとのレッテル貼りに対して向きになって反論する姿が目立った。それだけダメージがあったのだろう。また次の改造内閣の重要課題に「一億総活躍社会」をあげ、アベノミクスは第二ステージの始まりだと強弁した。選挙の前には経済・景気、選挙が終われば改憲なのだろうか。そんな安倍政権の有権者を小馬鹿にした態度は繰り返させてはならない。安倍政権打倒への闘いを、これまで以上に拡げていく以外にない。(廣)

学者・専門家による反対表明、それに行動に立ち上がった多くの人々による反対の声を無視して、アベ戦争法が成立させられてしまった。国会内外の議論で、安倍首相などが言う同法の必要性や根拠の綻びが次々と明らかになるなかでの強行採決、ただただ国会議席の多数に依拠しての暴挙という以外にない。
安倍首相にとっては念願の戦争法の成立だったかもしれない。が、反対行動の拡がりは、武力行使への安倍首相のフリーハンドを狭めるまで追い詰めたともいえる。
法案が成立させられたとはいえ、ここで立ち止まることなく、防御戦から陣地戦へ、さらには追撃戦へと闘いの歩みを進めていきたい。
◆裏口入学?
すでに多く語られてきたように、今回の戦争法の意味は、なんだかんだと屁理屈をこねて自衛隊が現実に武力行使できるようにすること、さらには政治と軍事力を一体化して外交を展開する〝普通の帝国主義国家〟として再登場したいという、安倍首相の思惑を実現する一里塚だ、ということにある。いはば、安倍首相が言う、〝自衛隊の持てる力を発揮する〟ための解釈改憲だった。
はじめに戦後の経緯をちょっとだけ振り返る事から入ってみたい。
日本は、あの戦争への反省と教訓を踏まえ、戦争とそのための戦力を放棄し、平和な国家づくりに進むはず、だった。あるいは、日本は〝普通の国〟としてではなく、戦争はしない、武力も持たない〝特殊な国〟として再出発することで、戦後の国際社会に復帰することが出来たともいえる。
ただし現実には、平和国家としての再出発を願う圧倒的多数の人々の願いに反し、一つまた一つとその歩みをねじ曲げられてきた。その出発点が、サンフランシスコ条約に基づく日本の本格的な再軍備と日米軍事同盟だった。それ以降、戦前から続く日本の反動勢力は、日本も〝普通の国家〟として、憲法の制約を実質的に突破してしまう施策を次々と導入してきた。
戦前のような軍事力も行使できる普通の国への再転換は、当然ながら内外からの厳しい警戒や批判を受けてきたものでもあった。日本の支配勢力は、やむなく日本の〝普通の国家〟への回帰を、日米同盟のもとで、米国や米軍に追随する手法でその回帰を追求する道を選択せざるを得なかったわけだ。

ただし、こうした野望がそう簡単に実現できるはずもない。米国の日本コントロール、アジア民衆の監視、それに日本の民衆などの平和意識と闘いが、その野望の前に立ちはだかっていたからだ。安倍首相が言う〝戦後レジームからの脱却〟とは、そうした内外からの制約を散り払って、戦前のように軍事力の行使もいとわない〝普通の国〟へと日本を再度大転換させる、ということに他ならない。だから〝戦後レジームからの脱却〟という旗印は、戦前のような〝日本を取り戻す〟という安倍首相の野望を、単刀直入に表すスローガンなのだ。
ただしそうした安倍首相の野望も、すんなり実現したわけではない。第二次政権発足直後は、そのもくろみを改憲に賭けてきた。が、三方向からの制約は重く、明文改憲という正面突破の思惑は跳ね返され、やむなく裏口入学としての96条改訂や、さらには何度も繰り返してきた解釈改憲に後退せざるを得なかったのが、これまでの経緯だった。
今回の戦争法の成立は、一面で安倍首相などの好戦派の野望がまた一つ実現したことは間違いない。が、半面では、当初の思惑が砕かれて裏口からしかその野望を実現できなかったという意味で、安倍首相としては、中途半端な結果を余儀なくされたことになる。私たちは、今後の闘いのあり方を考える上でも、こうした攻防戦の位置と性格を直視する必要がある。

◆原動力

今回の戦争法案反対の闘いは、最近になく大きく拡がった。これまでの一部野党や左派的・独立的労組、あるいは政治グループ・市民団体などが担ってきた反対行動は、今回大きく拡がったのだ。
多方面から注目されているように、学生などの若者やママさんグループそれに学者集団など、これまで政治行動から距離を置いてきた人たちが大挙して政治の舞台と街頭に登場した。それに、学者や各職業団体からも多くの反対決議や声明が寄せられた。これらにも触発されて、ごく普通の人たちがそれぞれ街頭に出てアピールする場面が、それこそ都会から地方まで含めて日本中のあちこちで見られた。
こうした行動は、90年初頭のアフガン・イラク戦争反対行動の時より、格段に拡がりを持ったものだった。その時は、人々の人道的な正義感や使命感から突き動かされていたのに対し、今回の行動は、それこそ自分たちや自分の子どもが戦争にかり出されるかもしれない、しかもそのことが自分の知らないところで決められてしまうという、まさに自分の身に降りかかる脅威として捉えられていた、ということだろう。それがたとえ「利己的」と言われようが、自分自身の問題として、主権者意識・当事者意識を持って受け止められたことは、反原発行動と共通で近年にない画期的な事態だった。そうした思いやそこからわき上がる行動は、ちょっとやそっとのことで消え去ることがない。一端このことを自覚した人々は、たとえ一時は最前線から退いたとしても、事態の推移によっては必ず行動で意思表示するだろう。
政治が変わるのは、いつの時代でも新しい行動参加者が大規模に政治の舞台に登場する時だ。そうした人たちが政治変革の原動力となる。反原発や今回の闘いで、その端緒が切り開かれた事になる。今後それがどう拡大・展開するか、真価が問われる時でもある。新しい主役は、多くの課題を乗り越えて必ず飛躍した闘いを展開するだろう。
◆結合
ただ今後の闘いに影響する課題や一抹の危惧も無いわけではない。
今回の戦争法案反対の根拠として、憲法違反かどうかに大きな争点が集中したこともその一つだ。それ自体が一つの大きな争点であるには違いない。が、本来は憲法に違反している日米軍事同盟や在日米軍基地の問題など、現実の政治・軍事問題との関係性が時に後景に追いやられたことである。このことは、安倍政権が、現実の安保環境が激変したこと、あるいは最近の中国の脅威を協調してきた姿勢への全般的な対決の構図をつくる面での不充分さと関連している。安倍政権との攻防は、平和主義の理念追求と安保・軍事面での現実対応とですれ違いに終始した。
街頭など闘いの最前線では、一面化や単純化はやむを得ないことで、必要な場面もある。が、継続的な闘いの観点からは、土台の不充分さとして今後の闘い方にも影響するかもしれない。すべて今後の闘い方次第にかかっている。
またこの間の街頭での闘いをリードしてきた観がある学生団体(SEALDs)や学者の会などの一部には、政党や労組などの旧来型の闘いへの違和感や反撥からか、個人としての闘いを重視する声も聞かれた。あるいは政党や労組などの行動を〝動員された行動〟だと一面化して捉え、それに対置するものとして〝個人の自発的な行動〟を強調する発言もあった。
現実の政党や労組、あるいはかつてのそれらの闘いがそうした一面を持っていたのは否定出来ないし、克服すべき課題ではある。が、個々の闘いを超えて全体的、長期的な闘いを牽引すべき政党や、職場や地域などを基盤として自分たちの利益や社会的な活動をする労組の運動を否定したり一刀両断して済ますわけにはいかない。
たとえばやり玉に挙げる動員型の集会・デモにおいても、工場や職場での組合員の声や意志を背景として行動に出るという側面も見る必要がある。私が所属したかつての組合でも、集会やデモに取り組むべきだ、という組合員の声が執行部を動かす場面も多々あったのだから。
端的な話が、街頭での集会やデモが、工場や職場でのストライキなどと結びつくことに、政権や支配層は危機感を抱き、また動揺する。かつて「桜田テーゼ」というものがあった。40年近く前の話だが、当時の日経連会長だった桜田武が、ロッキード事件やスト権ストで混乱した政治状況のなかで発言した言葉だ。主旨は〝政治は混乱していても、企業の職場が労使協調で安定していて、それに警察や官僚組織が機能していれば,支配体制は安泰だ〟というものだった。いわゆる「労使関係安定帯論」である。国家支配の要諦である体制の安定策を語ったこの発言に即してみれば、今回の闘いの最大の弱点と言えば、個々の組合員の声を反映した労働組合の参加が限られたこと、しかも街頭やネットでの闘いに終始し、職場や工場での闘いと連動できなかったこと、だろう。
今回の若者などの闘いは、あの中東でのジャスミン革命や香港での雨傘革命、それにニューヨークのオキュパイ運動などに触発された面もあるだろう。それら若者を中心とする闘いはそれなりに大きな役割を果たした。が、問題はそうした闘いが一旦はうまくいったり、あるいは挫折した後の問題だ。エジプトでは、11年の民衆革命で政権打倒にこぎ着けた。が、イスラム勢力に偏ったムルシ政権が13年の軍部のクーデターで排除される段階では、青年組織の一部はむしろ軍隊に期待するという態度を取ってシーシ軍事クーデターを後押ししてしまった。いま、エジプト革命を牽引した少なくない青年が監獄に入れられているという。こうした諸外国の経験からも学んでいく必要がある。
私は、反原発運動も同じだが、普通の市民による個々の自発的な行動と、政党や労組の組織的な闘いが結合するような道を模索すべきだと考える。これらはいまの民間大企業を中心とする御用組合が多い連合労組には期待できないとしても、一連の反原発闘争や戦争法案反対の闘いの場でも、現に個々の左派的・独立系組合などは重要な参加勢力になっているのだ。そうした将来展望を共有することで、戦争法制の撤廃や安倍政権打倒をめざす闘いのバージョンアップも可能になるのだと思う。
◆追撃
戦争法が成立して、日本は本当に海外で戦争が出来るようになったのだろうか。法的土俵では出来るようになったかもしれないが、政治的には、極めて脆弱な土俵しか作れなかった、ともいえる。拡がった反対意見や街頭行動が、強行突破を諮った安倍政権に実質的な縛りの役割を果たすからだ。かつて日本周辺という概念は地理的概念ではないとしながら、結局は日本周辺に限定せざるを得なかったことと同じだ。
現に、安倍首相が集団的自衛権の行使を可能にするために持ち出したホルムズ海峡封鎖や米艦防護の事例は、答弁が食い違ったり修正されたりで、実際に行使できるか疑問符が付いたままだ。出撃準備中の米軍機への給油など、米軍の武力行使との一体化の問題も曖昧さが浮き彫りになった。また存立危機事態や重要影響事態という概念も曖昧さが露わになり、事実上の政府への白紙委任に対して厳しい目が注がれるようになった。これらも含めて実際の法律運用や武力行使に際して、政権の判断は厳しい批判の目に晒されるだろう。いはば、実際の法律運用の道に地雷が埋め込まれたようなものだ。
いうまでもないが、安倍首相の野望は今回の戦争法が最終目標ではない。次はなにが来るのだろうか。
普通であれば、安倍首相が当初持ち出していたように集団的自衛権の全面行使、それを可能にするような憲法の明文改定だろう。しかしこれまでの攻防で、国民世論の半ば以上が、戦争法案のごまかしや危険性を見抜いてしまった。過去の改憲アンケートで9条改憲では改正賛成派が少数だったが、憲法改正そのものには改憲賛成派が多数だった。が、安倍政権による改憲そのものへの警戒観や批判が拡がっており、明文改憲はこれまで以上にハードルが高くなった。一本調子に改憲に走ることは出来ないだろう。むしろ今後の展開は、実質的な軍事力の整備や海外派兵の実績づくりなどに向けられるかもしれない。現に、政権は来年早々にも南スーダンでのPKO活動で今回の戦争法の適用を準備している。とはいっても、安倍首相などは9条改憲をあきらめたわけではない。現にその旗は掲げ続けるとも明言している。
安倍首相は通常国会の会期末を前に記者会見した。そこでは戦争法だとのレッテル貼りに対して向きになって反論する姿が目立った。それだけダメージがあったのだろう。また次の改造内閣の重要課題に「一億総活躍社会」をあげ、アベノミクスは第二ステージの始まりだと強弁した。選挙の前には経済・景気、選挙が終われば改憲なのだろうか。そんな安倍政権の有権者を小馬鹿にした態度は繰り返させてはならない。安倍政権打倒への闘いを、これまで以上に拡げていく以外にない。(廣)
