アベ戦争法案の参議院での審議が始まる。
その法案がとても危険な意味合いを持つのは、単にその法案によって日本が武力行使=戦争ができるようになるだけではないからだ。安倍首相自身の歴史認識とあわせ、日本を再び戦争国家へと大きく転換するターニングポイントになりかねないところに、今回の法改正の危険性が潜んでいるのだ。その一端が示されると見られているのが「アベ70年談話」だ。
8月中旬にも出されるというその「アベ談話」。これまでも内外からの批判に晒され、若干後退する感も垣間見える。これまでにも増して、談話への包囲網を拡げ、安倍首相の思惑を封じ込めなければならない。
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◆野望
安倍首相が戦後70年目の区切りの今年夏に出すとしてきた「アベ談話」の時期が近づいてきた。その談話がアジアだけでなく西欧まで含めて大きな関心を呼び集めてきたのには理由がある。それは第一次安倍政権の発足時から掲げてきた「戦後レジームからの脱却」という旗印が、これまで積み上げてきた戦後日本が辿ってきた歩みそのものの転換を意図しているのではないか、という疑念からだった。
周知のように、95年に出された村山談話は、あの大戦での「植民地支配」と「侵略」に対して「痛切な反省」と「心からのお詫び」を表明していた。冷戦構造の崩壊によって、アジアや極東諸国間の関係が複雑さを増していたからだ。それは05年の小泉談話でもおおむね継承された。それが「自虐史観」ではないのかという、右翼・保守派からの批判に呼応するかのように、安倍首相自身も、戦後日本の〝平和国家〟としての歩みに疑義を挟むかのようにな発言を繰り返してきた。それを象徴するのが「戦後レジームからの脱却」という旗印なのだが、そうした意図に沿った国際的なメッセージを発する事で、既存の歴史認識を上書きしたい、というのが首相の想いなのだろう。
その70年談話の発出にあたって、安倍政権は、「21世紀構想懇談会」という有識者会議をつくっている。その最終報告が8月初旬に出される見込みだ。ただし、安倍首相は、その報告書の意を汲んで談話を発出するとはしていない、あくまで参考意見だという。消費増税や戦争法案でも同じような検討機関をつくったが、結局、それは参考程度、単なるアリバイづくりに終わっている。今回も広く意見を聞いたという通過儀礼でしかなく、その議論も含めて、世論の動向や諸外国の反応を推し量ってきたのだろう。
◆包囲網
安倍70年談話は、当初国内よりも海外から、しかも日本から遠いヨーロッパや米国からの疑念や警戒感を呼び起こした。それは日本が敗戦国から立ち上がって経済大国となった〝平和国家〟としての戦後の歩みを根本的に転換するのではないか、というものだった。すでに世界有数の軍事大国になっていたにも関わらず、表向きは、海外では武力行使せず、戦争に突き進んだ過去を反省する姿勢を示してきたからだ。
しかし安倍首相は、政権の座について以降、相次いでそれらを覆すかのような言動を繰り返してきた。そして今回の「談話」だ。仮にそれがあの大戦への反省や謝罪の姿勢を投げ捨てるような内容になれば、誰が見ても戦後日本の歩みを根本から転換させるものに写るのは当たり前のことだろう。
アベ談話は、日本が戦争もする軍事大国になることを阻んできた包囲網への挑戦でもある。
戦後日本の平和主義を支えていたもの、それはアジア諸国民の警戒感、米国の監視、それに日本の人々の戦争忌避の決意、この三つが大きい。
南シナ海の周辺国では、昨今の中国の伸張などで対中警戒感が高まり、軍事的なバランスも踏まえて日本の軍事的な役割に期待する面もある。しかし、当たり前の話だが、戦争によって多くの犠牲者を出した地域をはじめとして、日本軍による占領に対する反感や忌避感は、広くアジア諸国に残っている。
併合や傀儡国家などで蹂躙された過去を持つ中国や朝鮮は、それ以上に日本の軍事的復活に対する警戒感が強い。それが戦後日本の歩みに大きな規制力として働いてきたのは当然の成り行きだ。
韓国や中国ではそれらに加えて複雑な紛争も抱えている。靖国神社、従軍慰安婦、歴史教育、竹島や尖閣諸島を巡る軋轢などだ。両国は、政権の正統性を保持する意図も含めてナショナリズムへの傾斜が強まり、日本との間で対抗策の応酬を繰り返しているのが実情だ。そうしたなかで出される「アベ談話」、お互いの火に油を注ぎ込む類で、緊張を呼び込むのは当然だろう。
◆飼い犬
今回のアベ談話の特徴は、アジアや極東のみ成らず、西欧や米国の警戒感を呼んでいることである。
EU諸国ではアベ談話への関心が強まり、警戒感や批判が拡がっている。ドイツのメルケル首相が、訪日時にわざわざ談話に言及したのも、その一端に他ならない。西欧の警戒感は、日本や独など枢軸国が、曲がりなりにも戦後の戦勝国主導の国際秩序を受け入れることによって現在の国際社会の相対的な安定があり、それが崩されるのではないか、という警戒感である。たとえばドイツは、保守政権も含めてナチスの戦争犯罪を追求してきたし、それが前提となって独仏和解が進み、欧州共同体や現在のEUが存在する歴史がある。
米国では安倍首相の歴史認識に対し、いわゆる歴史修正主義ではないかと疑われ、ポツダム宣言や東京裁判を受け入れることで日本が国際社会への復帰を成し遂げたこと、要は米国主導の戦後秩序を否定しているのではないか、という疑惑が拡がっていた。
それが4月の安倍訪米時の議会演説などで、幾分かはその疑惑は晴れたという受け止め方が拡がった。とはいえ、安倍演説は、米国が喜びそうなフレーズを連ねただけで、そうした米国へのお追従ともいえるような発言は、安倍首相の本意とはとても言えない代物だ。安倍首相が靖国神社に参拝したことを受けて、「失望した」というメッセージを寄せた米国の警戒感は、依然として消えていないのだ。
安倍談話が米国の警戒感を呼び起こしているとはいえ、なにも米国の期待通りの態度をとるべきだと言いたいわけではない。米国は最近でもイラン・イラク戦争ではフセイン政権にテコ入れし、またあのビン・ラディンを援助・利用した後で対テロ戦争やイラク戦争を戦いもした。つい最近では、シリアのアサド政権打倒から「イスラム国」との闘いのためにフセイン政権とそれを後押しするイランとの協調路線に切り替えた。米国の世界戦略とは、かくも場当たりでいい加減なものだからだ。
同じ事は戦後の日本占領政策にも当てはまる。
占領統治初期は軍国主義の解体と民主化を主要な目的として、戦争犯罪人を裁いたりそれに荷担した者を公職追放などにした。が、米ソ冷戦構造がしだいに緊迫化するなかで、日本を対ソ包囲網に組み込むために日本の再軍備化を進め、また、戦争指導者の公職復帰なども進めた。
米国は、集団的自衛権の行使容認など、米国の世界戦略に沿った道を進んでいるかぎり、日本の政権を支持してきた。が、日本の戦前への復古傾向や対米自立化と自主防衛への思惑に対しては、警戒感が強い。だから米国でさえ、安倍首相の歴史修正主義は許せない裏切りと写っている。それはそうだろう。押しつけ憲法論や靖国参拝などは、米国による占領政策と戦後の対日政策と真っ向から衝突するからだ。それを許せば、東京大空襲や広島・長崎への原爆投下に対する正統性などが、次々と矢面に立たされることになる。ひいては米国による占領統治、戦後の対日政策すべて否定される事態になりかねない。戦後レジームからの脱却は、傲慢な米国からすれば「飼い犬に手をかまれる」ような意味合いも含まれているのだ。
そんな米国は、安倍談話がどんな内容になるか、様々な圧力を加えながら警戒感を持ってみている、ということだろう。
◆本音
アベ談話がどのような内容で出されるのか、いまから想像してもあまり意味はないが、それでもある程度は予想が付く。
安倍首相は、政権発足以降も、歴史認識に関わる様々な発言をしてきた。たとえば憲法だ。安倍首相が執念を燃やしてきた改憲に関して、占領軍による押しつけ憲法だとの趣旨で批判を繰り返してきた。また東京裁判についても、占領下での事後法による一方的な政治裁判だったとの保守派、右翼などの受け止め方についても、それを否定しない態度を続けてきた。むしろそれらと同感だとの態度がにじみ出るものだった。
ただし、それらをあからさまに否定する事までは出来ない。仮にそうすれば、ポツダム宣言の受け入れに始まって、憲法改定、東京裁判、講和条約すべて否定することになり、米国の意に沿うかたちでの国際社会への復活そのものを否定することになるからだ。そんなことになれば、対米関係をはじめとする国際社会との関係は大混乱する。だから、最近は、東京裁判も講和条約も受け入れることで、日本は国際社会に復帰できた、と、安倍内閣としてもそれらを受け入れてきたことを認める発言をしている。
村山談話で明確に出された「侵略と植民地支配」についても、同様のことがいえる。「侵略という定義は……定まっていない、国と国との関係でどちら側から見るかで違う。」という趣旨の発言だ。たとえば先の大戦を朝鮮や中国が侵略だと受け止めていても、日本側からすればそうではなかった、と言いたいのだろう。実際、安倍首相のお友達でもある北岡伸一氏(5月30日、朝日)も、満州事変やその後の満州国の創設だけみれば、明らかに侵略戦争だったとし、それ以降の日中戦争や対米戦争については言及を避けている。その言葉を裏返せば、日中戦争や対米戦争は侵略戦争ではなかった、それは米国による石油禁輸などによる日本の「存立危機」から日本を守る「自存自衛」の「強いられた戦争」だった、ということにでもなるのだろう。
また有識者懇ででた意見として、「国策を誤った」ことに対し、「戦争に負けたんだから戦略的に大失敗であり、国策を誤ったという言葉でよい」(7月22日、朝日)という意見もあったという。戦争に負けたから、だというと、戦争に勝てば国策の誤りではない、ということになりかねない。安倍首相が集めた有識者懇では、実にこういういい加減な意見が交わされるているのだ。
◆反省
戦後日本の軍事的復活を阻止してきた三つ目は、日本の民衆自身による、「二度と戦争はしてはならない」というあの戦争への痛切な反省と後悔の念だ。いはば非戦・平和への願いだ。それが「占領憲法」と保守や右翼から批判されながらも、自分たちの気持ちや願いにフィットした憲法を保持してきたのは、そうした反省に支えられたものだった。
ただし戦後日本の再出発にあたっては、不充分な点も多い。なかでも戦争責任を免れない天皇及び天皇制を政治の世界から排除できなかったこと、それに戦争指導者たちを自分たちによって告発、追求、裁けなかったことだ。
日本では、戦争指導者として巣鴨刑務所に収攬された岸元首相が公職復活したのは、その最たる現れだった。その他に公職追放から政界や官界、経済界に復帰した戦争加担者も多い。こうした日本の現実は、ドイツがあのヒットラーのナチスを戦後長きにわたって追求し続けたのとは正反対だった。日本では、戦前の支配層が、ほぼそのまま戦後の支配層を形成したのが実情だったのだ。日本人全体として、あの戦争を根源的に反省、克服したとは言い難いのだ。
これらの出来事は、米国の対日政策が国際情勢の変化のなかで180度変わったことの影響が大きいとはいえ、日本の民衆自身が、戦争や戦争の責任者の追求を成し遂げられなかったことの結果であり、この意味は重い。戦争責任者の政界復帰により、戦前と地続きの歴史観や政治観を持った政治家が、戦後も日本の政界で少なからず影響力を保持してきたからである。
そうした戦後構造を抱え込んできたからこそ、あるいは戦争責任者に対する「一億総懺悔」などと、中途半端な対応で済ませてきたからこそ、いまになって安倍首相という、戦前回帰のトンデモ首相を生み出してしまうのだ。私たちが反省すべきなのは、そんな私たち日本の民衆自身が背負う負の歴史そのものでもある。
◆主役
その安倍首相による「戦後70年談話」。当初の閣議決定を経た〝首相談話〟から、閣議決定抜きの〝首相の談話〟に格下げされたという。とはいっても国際的にみれば同じ〝首相ステートメント〟だ。これも外野の〝騒音〟にかまわず自身の思いを盛り込みたいと考えているのか、それとも、実績づくり優先のパフォーマンスか、あるいは外堀を埋められつつあるなかで談話発出の断念を避けるあがきなのだろうか、そのいずれかだろう。
内容的にも、多方面からの批判に押されて当初の思惑よりだいぶ後退したトーンへと、修正を余儀なくされているようだ。「70年談話」の予行演習とみなされていた4月の米国での議会演説も、戦後の国際社会への復帰を西側の一員として日米同盟という米国の後ろ盾を得て出発したとリップサービスするだけだった。「押しつけ憲法論」を通すのであれば、米国議会で堂々と「東京裁判は不当なものだった」「押しつけ憲法は変える」というべきなのだが、さすがにそこまでの勇気は持っていなかったわけだ。
外国からの警戒感や批判に頼っていたのでは、敗戦直後と同じになる。7月17日には、74人の国際政治学者らが、31年~45年の戦争を「国際法上、違法な侵略戦争だった」として、村山談話の継承を求める共同声明を発表している。国会周辺では、戦争法案をはじめ、安倍談話への抗議のデモが取り巻いている。新たな戦前を呼び込む戦争法案への闘いも合わせ、アベ〝戦前談話〟包囲網を形成し、安倍首相の思惑や野望を封じ込めていく以外にない。主役は私たち自身なのだ。(廣)
(「ワーカーズ」8/1より転載http://www.workers-net.net/w541-2.html#542b)