ジャジャジャジャーン(♪♪♪.) 

子どもからお年寄りまでご周知の通称「運命」交響曲。なぜ天空の星々のごとく数多存在する作曲家の中、ベートーヴェン(1770-1827)はひときわきらめく巨星として君臨しているのか!

歌曲王シューベルトは、若いころは私的なコンサートのための作曲をしていましたが、20歳を過ぎプロを意識するようになるとベートーヴェンの偉大な作品の前に曲が書けなくなり、書き始めてはみるものの途中で頓挫してしまい未完の曲を量産してしまうスランプの時期がありました。ブラームスも、ベートーヴェンの9つの交響曲の後になすすべを見いだせず20年も悩み推敲に推敲を重ね、43歳になってやっと第1番の交響曲を書き上げたという逸話も衆知のこと。ブルックナーも常にベートーヴェンの第九交響曲をお手本として交響曲を書いていたといわれています。ワーグナーにいたっては、もう交響曲を書くことを断念(!?)、楽劇という新ジャンル開拓に人生を捧げます(19歳のころのハ長調と未完の変ホ長調の交響曲がある)。しかし、ベートーヴェンの第九交響曲は彼の中で格別の思いがあり、ピアノへの編曲を行ったり、自身の音楽祭(バイロイト祝祭)のこけら落としの曲に選び自ら指揮をしたりしました。

こけら落とし公演の演目といえば、オープン150年になるウィーン楽友協会ホールの最初のコンサートですが、こちらもプログラムの1曲目はベートーヴェンの歌劇「エグモント」序曲でメインは交響曲第5番でした。

演奏家にとってもベートーヴェンの作品は重要なレパートリーです。レコード屋、いやCDショップ…いや!今はインターネットのwebサイトをみれば、数多くの指揮者がベートーヴェンの交響曲全集をリリースしているのが分かります。交響曲だけではなく、ライフワークとして生涯書き続けた17曲の弦楽四重奏曲(フーガも含む)やピアノ、ヴァイオリン、チェロの各ソナタなどは、全曲演奏・録音することは世界の一流アーティストとしての条件のようにさえなっています。

さて、ベートーヴェンといえば「恋と苦悩」「波乱万丈」といったドラマチックな言葉を添えて演出されることが多いのですが、そのような人生でのビッグイベントがどれだけ創作意欲と関係があるのでしょうか。そこで、創作意欲の度合いを作曲した作品の数と見立ててグラフにしたのが下の図です。横軸は年齢と出来事で縦軸にその年の作品数と累積数です。

こう見ると、ベートーヴェンの作品数はウィーンに出て若さあふれる意欲的な時期のほかに自身の健康や取り巻く環境の変化に大きくモチベーションが影響しているように見えます。有名なハイリゲンシュタットの遺書を書いたときには、逆に難聴というハンデをはねのけるべく仕事に集中した様子もうかがえます。


ベートーヴェンという作曲家は音楽史上どういう立ち位置にあったのか

それは、ベートーヴェンが史上初めて作曲家が自由な芸術家という地位を得たところにあります。少し前の時代のハイドンにせよモーツァルトにせよ、彼らは貴族のお抱えの音楽家でした。ただ、彼らも後期の作品にみられるように自身の芸術創作のための作品も書いていますが、一方、ベートーヴェンは早くから宮廷貴族の庇護(ひご)と拘束から離れ、独立したことにより自由に音楽の創作ができました。その背景には1789年におこったフランス革命に影響があったとされます。ルイ16世とマリー・アントワネットが処刑され王政が終わりをつげると、ヨーロッパ中で市民による自由を求める啓蒙思想が広まりました。ベートーヴェンがそのようなタイミングで音楽活動をする社会状況にあったことも、同じウィーン古典派と呼ばれても宮廷での音楽活動が主であったハイドンやモーツァルトとは状況が根本的に違います。ベートーヴェン自身がそういった宮廷での付き合いが苦手という説もありますが、どちらかというと武骨ではあるがにじみ出る才能ある音楽家であり、ピアノの超名手であったため、貴族からなにかと可愛がってもらっていた存在であったようです。

なお、ハイドンとベートーヴェンの関係は短いながらも師弟関係にあり、22歳のベートーヴェンは故郷のボンを離れウィーンにて名実ともに一番の作曲家だったハイドンに1年ほど初歩を教わりました。長くは教わりませんでしたが(ハイドンがロンドンでの仕事を控え忙しかったとか、ベートーヴェンの期待していたレッスンでなかったとか、諸説ありますが)、師匠への敬意は変わらず初期のピアノ三重奏やピアノソナタはハイドンに献呈されています。

さらに、ベートーヴェンの功績を考察してみると、当時の音楽界にとっては革命的で斬新な作曲家であり時代の最先端の音楽を披露する、いわば19世紀初頭における現代音楽作曲家(アヴァンギャルド, avant-garde)であったといえます。芸術家魂からすると、ハイドンやモーツァルトの諸先輩やまして当時の宮廷楽長サリエリ先生と同じであることは、自身の音楽にオリジナリティとアイデンティティがなくなってしまうのです。繰り返しになりますが、18世紀までは宮廷や教会での機会音楽・宗教音楽が音楽製作活動の中心でした。交響曲もセレモニーのなかで使われいってみれば使い捨てでもあり、使えるご主人のためにイベントがあるごとにどんどん新作を書く必要がありましたし、それが職業作曲家の仕事でもありました。

そのため、ハイドンが交響曲や弦楽四重奏の定型の確立を目指したともいえます。それが依頼主の要求や聴衆の満足がある程度満たす音楽を量産するにはルーティン化できるほうが効率が良く、あとはいかに旋律やリズムを面白くするかといった労力をかけるところに時間がさけるわけです。私たちも職場で仕事していて毎日会社に行くたびに違うことをさせられると大変ですよね。書類のひな型が決まっていたり、ある程度作業ルーティンが決まっていたりする方が仕事の効率が良いことは自明なことです。特に、ハイドンは1749年に現存する最初の曲であるミサ・ブレヴィスを書き、1803年に最後の弦楽四重奏作品を書いたのですが、生涯約50年余りで偽作を除いて850曲もの曲を書きました。特にエステルハージ候に仕えていた時代の1760年後半から1770年前半にかけては、年間30曲ペースで曲を書いていましたので、うんうん一曲ごとに悩んで書いている余裕はありません。

しかし、一方でベートーヴェンにはその宮仕えの必要がなく、11曲に創意工夫を凝らし、むしろハイドンが完成した交響曲というスタイルをどう新しくしていくかが芸術家ベートーヴェンの仕事だったのです。話は飛びますが、これは科学者も同じ性質を持っていて、先人がやってきた業績と同じ実験や考察をしても全く評価されません。常に発展と革新をしているからこそ科学は進歩し、その成功があってこそ評価されるものです。つまり、発展と革新を行う役目を担っているという点で芸術家と科学者は共通しているのです。

 

※ページの文字制限の都合上、次回に続きます! 

「19世紀初頭のアヴァンギャルド ベートーヴェン その2」 こちら

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