再び余市へ

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「9万坪の医療施設を見に行きませんか」


と誘われ連休の札幌へ。


来月のICPM学術集会が開催される会場を視察して

翌4日に札幌駅から電車に乗る。

小樽で乗り換え「蘭島」駅に降りると階段も通路も木造で、

浅田次郎先生にいただいた小説「鉄道員(ぽっぽや)」を

彷彿させる無人駅でした。


改札を出ると、
管理を任された坂本 仁 さんが迎えに来られ車で約10分ほどで現地に。

元、温泉施設の館内から広大な敷地にある池や中央に一般道が走り、

道路沿いに水量豊かな川が流れる。


医師のホロス松戸クリニック・村上信行院長は

「治療やリハビリには最適な環境です」

と写真撮りを繰り返しておりました。

来月中旬に本格調査のため、再び村上医師ほかと現地入りが予定されました。


昼食には車で5分の余市町登町

ホテル「エーヴランド」2階のレストランに行き食事を始めると、

海外のホテルマンを思わせる遠藤支配人が来られたので数年ぶりの挨拶を交わす。


余市は想い出深い。


2005年から札幌市で医療講演会を開催、

4年後に函館で薬品会社の講演会に呼ばれ

翌日に余市の「エーヴランド」に移動。


ホテルで岩盤浴の制作指導を行った。
度々ホテルを訪れ鈴木宗男議員と面談、

ICPM副会頭の平田章二医師との講演会、

スポーツ報知の新聞取材を受け阪神・掛布雅之DCと対談など

色々お世話になりました。


数年ぶりに「再び余市へ」来て皆様との再会でした。

千葉県の練習場で腱鞘炎の治療薬を提供した

ジャンボ・尾崎将司プロのコース設計により完成のゴルフ場、

クラブハウスを兼ねたヨーロッパ調のお城を再現させた建物で

結婚式場もありレストランも相変わらず美味しく、

雰囲気も大変素敵でした。




エーブランドにて



記念写真に好評なロビー中央階段で記念の1葉

トラップ家の次女が死去

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ザルツブルグを中心に撮影した「サウンド・オブ・ミュージック」が

1965年に世界中で公開されました。


亡命映画の主人公でトラップ家の最後の生存者で

次女マリア・クランツィスカ・フォン・トラップ女史が、

38年に亡命したアメリカで2月18日に99歳の生涯を閉じ一つの歴史が終わったと

冒頭の題名によりニュースが配信され、ロケ先を訪ね歩いたことの想い出に浸っています。


又、490年以上遡ると「微量療法」を発表したスイスの医学者は

ザルツブルグで教鞭を執り、現在では名を冠し開校したパラケルスス医科大学にその名を残した。


その市内から1時間の山頂で日本からの治療者をサポートしたり付近の鉱山、

近隣のヨーロッパでラジウム鉱石の採掘を行い使用法を研究。


昨年のTV対談でホルミシス研究者と出演、

前記使用法を説明すると放映後に数カ国の駐日大使から問い合わせがあり治療シート、

ミストルーム業者の依頼により開発に参加。春先の完成に向けて着手しました。

服部禎男先生と何日か過ごしました。

その一端をご紹介。



桐生市での講演です。


服部禎男工学博士は、

自身が開発の新4S(小型原子炉)炉に対する説明、

質疑応答には元・大阪大学医学部放射線科の中村仁信名誉教授が担当。



後日、東京で

服部博士にバングラデシュ・ダッカ大学医学部M.A.モミン教授を紹介。


席上、同国のTV出演を打診され、9月24日に中央区の新川区民館での収録に決定。




収録は、モミン教授の司会です。


モミン教授の母国語による紹介で収録が開始され、

服部博士が「チェルノブイリ事故の後、

安全な原子炉の要請を受けた」と説明が始まりました。


50年前の実験で発見した研究を続け

1988年に燃料無交換超小型安全炉を発案した。


同年、東京大学で「原子力リスク削減理論」論文による

工学博士号を取得した博士は、
翌年、米国アルゴンヌ国立研究所から

金属燃料技術の提供を受け水生産論文を完成させ、

米国原子力学会で発表。


更に招聘されたIAEAの要請により、電力中央研究所が東芝に設計を発注します。


96年、ロシアでの講演を米国などにも広げ2000年には新4S炉構想を開始しました。


メキシコから数カ国を経て、07年4月のモンゴル国会講演では導入が決定されました。

09年にカザフスタン政府に招聘された根本は、

服部博士の依頼により英論文を持ち、

渡航して各地で説明を実施しました。


数カ国の駐日大使に面会しネパールでは国会に呼ばれ、

担当大臣および総理大臣に面談で説明会に発展しました。

収録の終盤には服部博士が提案する「ホルミシス療法」に対して、


モミン教授が


「根本先生、海外での治療は可能ですか?」


「日本国内の現状と医療現場の実情は?」


と質問してきます。


私は以下のように答えました。


「開発された製品を利用すること」

「製品の線量を上げて医師がデータを取り始めたこと」


玉川温泉の「北投石」や「中国」「バドガスタイン」のラジウム鉱石
を見せて説明し、

更に鉱石をパウダー状にしてシートに塗布して1000μSv/hを超える線量
で難病治療に使用している医療機関の医師がいることを紹介しました。




核兵器など危険な武器の高線量放射線には、

これまで以上の注意と世界中の監視をするべきで、
危険が伴う大型原子炉から、

安全な「超小型原子炉への変換」をすすめるべきだと思います。



医療などに利用される中線量放射線の安全利用、

世界で3千を超えるデータを持つ低線量ホルミシスは、
更なる研究継続を望みます。


全国民が毎日被ばくする線量は、

ごくごく微量であり福島でも風評被害に負けず

正しい知識で自然値放射線などを知って欲しいと思います。





根本正男のブログ-服部博士、モミン教授


戦後の原子力研究第一期生で

元・電中研名誉理事の服部禎男博士と

バングラデシュ・ダッカ大学医学部放射線科 M.A.モミン教授と

筆者・根本の収録風景の写真。









NPO法人ホリスティックメディカルラボラトリ

事務局長です。



たいへん重要な記事を見つけましたので、

お知らせします。


2013年1月13日 Forbes.comの記事で

2013/1/17付けの日本経済新聞Web版に掲載されています。


http://www.nikkei.com/article/DGXZZO50651160W3A110C1000000/



全文引用します。


是非、お読み下さい。





放射線と発がん、日本が知るべき国連の結論



 昨年12月、極めて重要な報告書が粛々と発表された。そこに結論として書かれているのは、原子力科学の専門家が長年にわたり主張してきたことだ。――つまり、約0.1シーベルト(Sv)または10 rem以下の放射線の被曝(ひばく)は大した問題ではない。

 「しきい値無し直線仮説(Linear Non-Threshold : LNT仮説)」は0.1Sv(10 rem)以下の被曝には当てはまらないが、世界中の自然放射線量はこの範囲にある。そればかりか、この低線量域は、原子力、医学的治療、そして福島のように原発事故で被害を受けた地域にとって最も重要な意味を持つ。



 原子放射線の影響に関する国連科学委員会(UNSCEAR)が提出した。低線量の被曝の影響は非常に不確かなものであるため、UNSCEARとしては「低線量の被曝と大人数を掛け合わせて、自然放射線量と同等以下のレベルで漸増的な被曝によって健康被害を受ける人数を推定することは勧めない」と述べている。


 この手法はチェルノブイリ以来広く行われてきたことであり、福島では今も採用されている。


福島事故で「健康への影響無し」


 報告書により、世界はようやく正気に戻り、人体に害を与えないことに無駄な時間を費やすのをやめ、実際に悪影響を及ぼす問題、そして本当に注意を必要とする人々に目を向けるようになるかもしれない。例えば津波によって引き起こされたインフラや経済への打撃、あるいは福島周辺の真のホットスポットの除染。さらには、人体に影響を与えない程度の放射線量しか浴びていないのに、被曝の恐怖に怯えて暮らし、まさにそうした不安に心身をさいなまれている何万人という日本人をケアするといったことだ。また、日本政府においては真剣に原発再稼働の準備を始めたり、国際原子力機関(IAEA)や米国政府からの改善案に耳を傾けることだ。


 この報告書によって、低線量の被曝が個人と大規模な集団の健康に及ぼす影響について言えること、言えないことがはっきりするだろう。


 自然放射線量が2.5ミリSv(250 ミリrem)から3.5ミリSv(350 ミリrem)に上昇しても、発がん率は上昇せず、認識できるような公衆衛生上の影響は何も起きない。同じように、自然放射線量が2.5ミリSv(250 ミリrem)から1ミリSv( 100 ミリrem)に低下しても発がん率は低下せず、公衆衛生上の問題に一切影響を与えない。


 重要なのは、通常の議論は短期間(一度)に強烈な放射線に被曝することを想定しており、同じ量を1年といった長い期間をかけて被曝した場合、影響はさらに小さくなることだ。つまり毎月0.1Sv(10 rem)を被曝すれば影響はあるかもしれないが、年間で同じ0.1Svを受けた場合は、慢性にせよ、急性にせよ認識できるような影響は一切ない。


 さらにUNSCEARは、一昨年の福島の原発事故による識別可能な人体への影響はなかったとしている。「影響無し」としているのだ。

 日本人は再び国産の食品を口にできる。放射線による汚染が軽微で、米国・コロラド州やブラジルといった世界各地の自然放射線並みのレベルにとどまっていれば、避難地域への帰宅も始められる。


浪費される膨大な資金


 現在、表土や落ち葉の除去に費されている膨大なムダな資金(ニューヨーク・タイムズの記事参照)は、深刻な汚染状況にある福島原発付近での最新技術を使った除染に集中投資すればよい

 0.1Sv(10 rem)以下の被曝に誤ってLNT仮説を当てはめたことによる経済的・心理的負担は、ただでさえストレスを感じていた日本国民には著しく有害で、今後もそれを続けることは犯罪行為といえる。


 LNT仮説を要約すると、あらゆる放射線は命にかかわる有害なもので、被曝線量がどれほど低くても人体に有害な影響を与えるとする考え方だ。被曝量が2倍なら発がん率も2倍になる、と。第二次世界大戦後にヘルマン・マラーが提唱し、UNSCEARを含む国際機関が採用したが、その有効性が最も発揮されたのは冷戦中に核兵器実験を中断させるための交渉の切り札として使われたときだ。世界に放射能への恐怖が広がったのは、その副作用である(記事「マラーはウソをついたのか?」参照)。

 当然ながら、年間0.1Sv(年10 rem)以下では被曝量が2倍になっても発がん率は2倍にならない。人体への影響はまったくない。数百万人にのぼる原子力作業従事者を50年にわたって綿密に調査した結果、一般人の平均と比べて被曝量は数倍から10倍だったが、がんによる死亡率は変わらなかった。米国のニューメキシコ州とワイオミング州の人々の年間被曝量はロサンゼルスの住人の2倍だが、発がん率はむしろ低い。LNT仮説が正しければ、こうしたことは起こりえない。


 地球上のどこを見ても、被曝量が年間0.1Sv (年10 rem)以下のケースで、LNT仮説を裏づけるような識別できる影響が出ている集団はない。自然放射線量が年間0.1Sv(10 rem/年)を超える中東、ブラジル、フランスでさえそうだ。


 議論されることはほとんどないが、LNT仮説は人体の器官とペトリ皿で培養した細胞に低い線量を照射した際に機能する生物の免疫機構や生物学的な治癒にかかる時間を考慮していない。


国連総会で承認された報告書


 UNSCEARは世界各国の専門家で構成される独立機関として1995年から定期的に会合を開いている。原爆の生存者、チェルノブイリ原発事故の影響、産業界で起きた放射線による事故、医療現場での放射線治療の研究を通じて放射能への人類の理解を促進するとともに、放射性物質による発がん性が低いことも明らかにしてきた。


 専門家の多くは長年、何もしないことが害悪になる重大な問題について、結論を先延ばししたり、言葉を濁すようなことはやめようとしてきた。今回の報告書は好ましい変化だ。報告書は国連総会で承認されたので、今後は世界中の国々が独自の放射能安全策を策定するのに参考にするだろう


日本に与える重大な影響


 これはLNT仮説を誤用して、特に食品について福島事故への過剰反応ともいうべき基準見直しを実施した日本にとって特に重要だ。


 世界的に認められた食品中の放射能レベルは1キログラムあたり1000ベクレル(米国の場合は同1200ベクレル/キログラム)だ。大部分はセシウム137とストロンチウム90が占めるが、こうした基準値はIAEAやUNSCEARのような組織が数十年にわたる研究にもとづいて設定している。福島の事故後、国民の放射能への不安が高まっていることがメディアで報じられたため、日本政府は不安を静めようと基準値を従来の半分に抑えた。だが不安が静まらなかったため、基準をさらに引き下げて国際基準の10分の1にした。


 放射能は思っていた以上に危険である、国内の食品は有毒だと伝えれば、国民が安心すると思ったのだろうか。彼らは正気だったのか?


 この結果、国民は日々口にしている食品にさらに不安になるという意図しない影響が生じ、安全な食品は危険なカテゴリーに入れられ、食品輸出は抑制され、経済的・社会的損害はさらに広がった。


 通常であれば安全な食品が、突然、出荷制限の対象になった。青森県産の野生キノコ類は、1キロあたり120ベクレルの放射性セシウムが検出されたため出荷が制限された。このセシウムは福島事故とは一切関係がなく、世界中の人々が食べている食品に含まれているのと同じタイプであり、事故以前はまったく問題にされなかった。(記事「日本の規制値は厳しすぎる」を参照)


 日本人はいわれ無き制裁を加えられるべきではない。だがこのような最近の動きやUNSCEARの報告書からは、日本人が制裁を受けているのは明らかだ。食品の放射性物質の基準値を引き下げる理由はなかった。半減期の短い放射性核種が既に崩壊してしまったことを思えば、なおさらだ。誤った前提の一つは、日本人が汚染された食品しか摂取できないというもので、これはとんでもない見当違いだ。国際的な基準値は確固たる根拠にもとづいて設定されており、それを引き下げることは日本の農家や消費者をさらに痛めつける以外、何の役にも立たない。


 UNSCEARのウォルフガング・ワイス委員長は、事故のあった原発の周辺地域の住民、労働者、子供たちには、放射能による健康への影響は一切観察されていない、と述べている。これは世界保健機関(WHO)や東京大学が既に発表した研究成果とも一致している。原発周辺地域の住人が被曝した放射線量は非常に低く、識別できるような健康被害が生じることはまったく考えられない。


 日本政府は様々な失敗を犯したが、福島県で速やかに避難を実施し、汚染された食品や飲料水が消費されるのを正しく防いだ。これは旧ソ連政府が意図的に市民から情報を隠したチェルノブイリ事故とは対照的だ。


 ヨウ素の放射性同位体で半減期の短い「ヨウ素131」の食物摂取は、子供や若者の甲状腺で吸収されると甲状腺がんを引き起こすリスクがあることで知られているが、これがチェルノブイリ事故が一般市民に及ぼした唯一の重大な放射線による健康被害だ。旧ソ当局が情報を公開し、迅速に行動していれば、この被害は防げたはずだったが、もちろん彼らは一般大衆のことなど大して気にしていなかったのだ。


 日本ではこうしたことは起こらない。半減期がわずか8日のヨウ素131は事故後の数カ月で崩壊してしまい、大量に摂取した例は1人も報告されていない。


日本人は恐怖ではなく真実に基づき行動を


 報告書によると、福島原発では非常事態に対応していた6人の作業員が0.25Sv(25 rem)を超える放射線を浴び、170人が0.1~0.25Sv(10 ~ 25 rem)を被曝した。このうち健康に悪影響が出た者はなく、おそらく今後も影響は出ないだろう。福島原発で亡くなった6人の死因は、がれきに押しつぶされたり、海に流されるといった事故で、放射能とは一切関係なかった


 確かに0.1Sv (10 rem)を超える放射線の被曝は健康に影響を与え、それは統計的に1Sv (100 rem)に達するまで増加する。ただこの比較的高い線量域についても、十分に大きな母集団でない限り、影響は観察しにくい。それほどの規模の放射能事件、すなわち大勢が0.1~1Sv (10 ~100rem)の放射能を浴びたのは、第二次大戦中の原爆投下だけである。


 放射線の影響が明らかになりはじめるのは、1Sv (100 rem)以上の高線量を急激に浴びたときだが、そうした状況ですら、考え得る他の要素を排除しない限り、放射能を明白な原因と断定することはできない、とUNSCEARは説く。


 こうした見方が放射性廃棄物の処分にどれほど重大な意味を持つかは、別の機会に譲ろう。


 結局のところ、放射能への恐怖ではなく真実にもとづいて行動するように変わらなければ、われわれは日本、ベラルーシ、ウクライナの人々に責務を果たしたことにならないうえ、今後も見当違いのことに時間とカネを費やすことになるだろう。反核運動家や陰謀説が好きな人々は今回の国連の報告書を受け入れないだろうが、彼らはどのみち国連が嫌いなのだ。



by James Conca, Contributor


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終戦の翌月8日に

進駐軍の総指揮官ダグラス・マッカーサー元帥が
日比谷交差点に立ち、皇居外苑お濠を挟み向かいに建つ「第一生命館」
に目を留めた。



帝国ホテルでの昼食後に

イーストウッド代将を連れ「第一生命」を訪れ、

矢野一郎常務から建物内の説明を受け予定されていた接収物件
の視察を取りやめ宿舎に戻っていった。


10日に日本政府から正式通知を受け15日の午後に明け渡しを完了。
地上階をGHQに接収され「第一生命」の業務は地下階に移され6階の
社長室がD・マッカーサー元帥の執務室として日本の戦後処理が行わ
れた。



同27日に天皇陛下の申し入れによりアメリカ大使館に於いて通訳
とお二人の会談があり、心を通わせた面談により新聞発表などに写真
が掲載された。


マッカーサー元帥が指揮官を解かれ帰国の翌年6月に、

総司令部が市ヶ谷に移転され6年10カ月の接収を終え

全ての建物が返還された。


執務室を記念室として保管その後一般公開するが、

2001年にアメリカ同時テロが発生し公開が中止された。



時を経た12年、第一生命保険が創立から110周年

および返還から60年の節目を迎え特別企画と銘打ち、

7月17日から一週間にわたり先着200名限定で

1回20名が一部屋15分程度の公開・撮影となりました。


多くの国会議員と全国からの観覧希望者であふれ

You Tubu などで紹介された。

9月に知るが後の祭り、知人の紹介により特別な許可が
おり10月3日10時30分に外観を撮影し

エレベーターで8階へ数分で旧館に移動、

新館の6階に該当する通路を進み趣のある重厚なドアー
「執務室」です、

写真撮影と説明をいただき資料室に移動「第一生命」と

元帥に関する貴重な品々が整然と飾られておりました。



更に会議室に移動するが

当時のままの備品が多数あり入室が禁止、
残念ながら通路からの撮影になりました。



帰り際、受付嬢から「先月9月15日が創立記念日であり

社を挙げて喜びを感じています」と聞かされ、

「来年以降も9月15日の記念日を祝ってください

私の誕生日も一緒です」と告げると、

大変美人な受付嬢は口元を押さえ笑いをかみ殺しておりました。


身を挺して国民を庇った天皇陛下、

復興に導いたマッカーサー元帥に感謝、

歴史を残し守った第一生命のお一人お一人と

今回の機会をくださった皆様に心よりお礼申し上げます





根本正男のブログ-マッカーサー執務室

元帥の胸像と筆者





根本正男のブログ-マッカーサー デスク

マッカーサー元帥のテーブルと椅子を前にして