皆さんは、戦国武将といえば誰が好きですか?織田信長?豊臣秀吉?徳川家康?

 「戦国武将」と言っても数多くの人物が居ますので、好きな武将は人それぞれですよね。その中で、昔から今まで多くのファンが居る戦国武将がいます。「真田幸村(さなだゆきむら)」です。

 真田幸村は本名・真田信繁(のぶしげ)ですが、知名度としては「幸村」の方が高いです。そのため、あえてこの記事では「真田幸村」で統一します。

 真田幸村といえば、大阪冬の陣・夏の陣で徳川を追い詰めるなど、大きい勢力に勇敢に立ち向かって、華々しい最後を遂げた人物と言われていて、今でも「好きな戦国武将ランキング」で10位以内には必ず入るほどの人気ぶり。ランキングによっては、信長などの戦国三英傑を抜いてしまうほどです。教科書に載ってることが少ないのに知名度は高いのは凄い!

 ではなぜ、ここまで真田幸村は人気の武将になったのでしょう??今回は、いかに真田幸村が多くの人から愛される人物になったのか、探っていきます!

 

【目次】

①真田幸村はイケメン??

②経歴を見てみよう〜青春から大坂時代編〜

③経歴を見てみよう〜関ヶ原から九度山編〜

④反骨精神がファンを生んだ??

⑤それでもやっぱり真田幸村は凄い!!

 

①真田幸村はイケメン??

 これだけの知名度に関わらず人気なのは、きっと彼の容姿もある程度整っているからなはず・・・実際、これまでNHK大河ドラマではカッコイイ俳優さんが演じてきました。一例でいえば、若林豪さん・城田優さん、そして真田幸村を主人公にして「真田丸」では堺雅人さん・・・カッコイイですね。そして現在の女性ファンを作るキッカケの一つに「ゲーム」があります。戦国無双・戦国BASARAをはじめとして、戦国時代を扱ったゲームは多いですが、調査すればするほど真田幸村はイケメン!!いわゆるモブキャラのような地味〜なデザインはありません。

 では、実際の真田幸村はどうだったのか!?彼の肖像画として言われているのが上田市立博物館にありますが、第一印象としては素朴・・・座っているので判断出来ませんが、身長もそんなに高くはなさそう。性格も伝わっているのは、物静かで柔和、あまり怒らなかったそう。戦国武将といえば、イケイケドンドンのオラオラ系のイメージが強いですが(記者の偏見)、真田幸村は調べる限り全く違いますね。やはり誰が演じるか、どのようなキャラクターデザインにするかで人気が変わりますね。

 

②経歴を見てみよう〜青春から大坂時代編〜

 続いては、幸村の経歴を見てみましょう。「真田幸村のアピールポイントを教えて!」と聞くと、大半の人は大坂冬の陣での真田丸、大坂夏の陣で家康を追い詰めたと言うでしょう。では若かりし頃はどのように過ごしていたのか??実はあまりハッキリ分からないのです。

 彼が生まれた頃の真田家は、武田信玄というより武田勝頼(かつより)の時代。長篠の戦いで敗れてからは一矢報いようと挽回していきましたが、それでも時代の流れには勝てず・・・織田、徳川連合軍により滅亡してしまいます。さあ、困った真田家。そこで家のために駆け回る人物がいました。その名も真田幸村!ではなく、父の「真田昌幸(まさゆき)」!!大河ドラマ「真田丸」では、草刈正雄さんが演じて多くのファンを作りましたね。

 昌幸はまずは織田信長に恭順し、信長が本能寺の変で去ると、近隣の徳川・上杉・北条へあっちゃこっちゃ鞍替えして命を繋いでいきます。そして、幸村は上杉の人質となったと言われており、ようやく名前が出てきました。そんなこんなで独立を図っていた真田家ですが、ここでもやはり時代の流れには勝てず・・・羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)が勢力を急激に伸ばすと、真田も服従せずにはいられなくなり、またもや幸村は人質となり、大坂で過ごすことになりました。幸村は大阪時代の生活もよく分かっておらず、一説では秀吉の馬廻衆(大将=秀吉の護衛や付き添い)だったのでは?と言われております。「真田丸」ではここのエピソードを上手く活用し、秀吉や石田三成との交流で関係性を構築して大坂の陣へ繋がっていたので、三谷幸喜さんはさすがだなーと関心して観ていました(何様や)。

 

③経歴を見てみよう〜関ヶ原から九度山編〜

 やがて秀吉が亡くなると、日本中を巻き込んだ大きな戦が始まります。そう、「関ヶ原の戦い」です!ここで真田家は大きな決断をします。父・昌幸と幸村は石田三成側へ付きますが、兄・真田信幸(のぶゆき)は徳川家康側へ付きます。信幸の妻は、家康の家臣である本多忠勝(ほんだただかつ)の娘だったため、婚姻関係で父・弟と分かれたと言われております。ただ、この時代、命よりも「家」を残すことが大事と言われていたので、どちらが勝っても家が存続出来る様にあえて敵味方に分かれた家は真田家だけでなく多くの戦国大名でみられます。

 結果はご存知の通り、信幸のいる徳川の勝利。昌幸と幸村は信幸の助命嘆願が功を奏し、切腹にはならず紀州国九度山(くどやま)←今の和歌山県九度山町へ蟄居(ちっきょ)となりました。

 九度山での生活もあまりハッキリと資料には残っておりません。ただ、約15年ひたすら謹慎生活を送り、昌幸はこの世を去ってしまいました・・・しかし、ここで最後の希望が飛んできたのです!徳川と豊臣の対立が決定的になると、多勢に無勢の豊臣は全国各地の浪人を呼び集めることに。幸村のもとにも誘いが来ました。これまでの苦難の日々・父の無念・徳川に一矢報いようという気持ちが昂った!か分かりませんが、幸村はついに九度山を脱出し大坂城へ帰ってきたのです。

 

④反骨精神がファンを生んだ??

 さて、大坂城へ入った幸村。大坂の陣では華々しい活躍をしました!!・・・が、ここではあえて割愛します。どうですか皆さん、大坂の陣までの真田幸村。人気ランキングに入るほどの活躍がみられました??私は正直に言うと、かなり印象が薄い人物、どこにでも居そうな人物かと・・・やはり大坂の陣で一気に注目されたのでしょう。

 ただ、だからこそ、人気が出たのかもしれません。真田幸村が最初に注目を浴びたのが「真田三代記」という書籍で、書かれたのは江戸時代。そうです、敵である徳川の時代です。自分たちが居る時代を治めている徳川に、最後まで追い詰めた人物がいた!となれば、民衆としてもこれほど面白い話は無いと、興味をそそられますよね。案の定この本は人気作となり、のちの「英雄・真田幸村」が爆誕しました。

 さらに人気をあげたのは、「真田三代記」を基にして、幸村の10人の忍びが活躍する「真田十勇士」。猿飛佐助(さるとびさすけ)という名は、聞いたことがある人もいるかもしれませんね。真田十勇士が一般的に広まったのは大正時代。大正デモクラシーといわれる、強大な権力から自由・民主主義を掲げる時代でしたので、これも権力に抗う姿が、人々の勇気になったのでしょう。こうして時代が進むに連れて、真田幸村は多くの民衆の希望となり、今の人気へ繋がっていきました。

 

⑤それでもやっぱり真田幸村は凄い!!

 以上、真田幸村はなぜここまで人気になったのかを探ってきました。確かに幸村は、前半生はそこまで目立つような働きをしておらず、全ては大坂の陣の活躍に注がれているでしょう。そして、後世の人達により、「英雄・真田幸村」が作られてファンを構築していきました。

 ただ、それでも昔も今も変わらず人気を維持しているのは、やはり真田幸村という人物自体に魅力があるからでしょう。先に述べた通り、彼はイメージするようなザ・戦国武将という荒々しさはなく、温和な性格と言われておりますが、そんな人物が最後に見せ場を作るなんて、やはり只者ではありません!

 これからも多くの作品で真田幸村が登場し、もしかしたら、今までとは違ったデザインで、イケメンでは無い幸村も出てくるかもしれません。ですが、それでも人気は減ることは無いでしょう。彼が残した華々しい最期は、変わることは無いですから。

 この記事をキッカケに、真田幸村・真田家に興味を持っていただけたなら、まずはゲームでもドラマでも何でもよいので、真田に触れてみましょう。そしたらあなたも、いつのまにか真田ファンになっている・・・はず。