今年から、女友達が一緒にお茶の稽古を習い始めた。

いつもセンスが良くてインテリアに凝っていたりと、ずぼらな私には貴重な人材である。

 

 茶道を始めると何やかやと道具が欲しくなるし、また家で稽古するには必要にもなってくる。

 

 先生に、どんなお茶碗を購入したら良いか尋ねている、私もそういえばどんな選び方をすれば良かったのかと改めて聞きたいところである。

 

というのも、お茶の世界では、いくらでも高いものはあるし、100年前の茶碗(だからこそ貴重、という考えでいくと)でも古い方に入らないそうだ。

かといって、お稽古用に1000円のお茶碗では味気ない。

 

 そうすると、先生曰はく、

「持って触ってみて自分の手になじむもの、自分が良いと思ったものが良いから。値段じゃないよ。人に聞いて選んでいたら絶対上達しません。その時の自分が選んだものが良いものだから。」

と。

 確かに、私が最初に買った抹茶碗は、高くはなかった。というか安かったのだけれど、そこに置いてある中で一番気に入ったものだった。

白いパールの色が、なんとも夏らしいような気がして、ふくふくした気持ちで購入した。

 

家に帰って、お湯を淹れてみると釉薬がざらざらして、お湯を拭くときに茶巾が擦れている。失敗、買う前に確認しておくんだった!

茶筅で点てるときはガリガリ、ゴリゴリ、と怪しい音がする。

それでも、「パールが可愛いからいいの!」と使ってはいるけれど、先生の稽古場で長く使われている茶碗は確かに手になじむし、使いやすい、厚さも良い塩梅。聞けば100年前の真葛だそうだ。が~ん!そういう事なんですね・・・。

 

 

 先輩のお弟子さんに聞くと、利休が窯元が沢山持ってきた茶碗を、弟子たちに好きなのを取らせた後に残った茶碗を見て、

「お前たちは、目が見えていないね」と言ったそうで。

要するに、どこどこの誰々が作った茶碗でもすべてが良いわけではなくて、その中のいくつかしか良いものではないと。

 

だから、「持った時に自分が気に入ったものを選びなさい」という

一可先生の言葉は、ブランドや有名だからという理由ではなくて、自分の目を養いなさい、ということなのだなと。

 

 例えばファッションでいえばシャネルやヴィトンがすべて良いわけではなくて、中には、「今季に売るように仕方なくこさえたデザインなんだな」とか、ブランドのロゴが前面に出すぎていて「シャネルでもこれは持っていたら恥ずかしいな」というのが、やっぱり、ある。生意気だけど、買えないけれど。だから、自分にとっての、値段とかデザインと質とのバランスが大事なんだろうと思う。

 

  私?もちろん、夏はガリガリ君。