今に生きる | まーちゃんのブログ

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誰かに読んでもらうつもりで書くと、自分の考えがよくまとまってすっきりするので、このブログを始めました。

* 今に生きる *

私たち人間は何のために生きているのでしょうか。職業として、あるいは社会の一員として、人の役に立ち、命を救いたいと思うのは当たり前です。だから誰かのために生きているということができるかもしれません。

でも、本当の意味で誰かのために生きることができるのでしょうか。自分を捨てて献身的に生きても、自分の満足のためにお金を稼ぎ名を上げ人を助けていても、結局すべて誰かの役にも立ち迷惑にもなっているのです。この私は何のために生きているのかという問いに、誰かのために生きていると答えたとしても、結局私が生きていること自体、その誰かの迷惑になっているかもしれません。生きるという行為は生産的でもありますが、破壊的でもあるのです。

画期的な発明や文化の発展は、素晴らしくもありますが、もろく危険で残酷な一面も持っています。健康で長生きをし、快適な暮らしを誰もが満喫する時代が来ても、そこに不幸がないとは言えません。人の本当の満足や幸福は、外から見ていては測ることができないということです。つまり何かのために生きるとき、その何かが外面的なものだったら、どんなに頑張ってもその何かのためには生きられないということになります。生きたとしても、その何かを破壊する結果になるかもしれません。

何のために生きるか、という問いに対する答えは、内面的でなければなりません。そうでなければその答えは効力を発揮しません。

では、私たちは何のために生きるのでしょうか。私は、今を楽しむために生きているんだと思います。過去でも未来でもなく、今まで行ったことのある場所や、水平線のかなたの土地でもなく、この瞬間とこの場所を楽しむこと。今ここで、五感と思考と感情のすべてを楽しむこと。それが、私の生まれてきた目的だと思うのです。その目的は、この暗闇の中で、この苦悩の中で、この痛みの中でさえ、今ここで達成し完結することができます。

今ここで、この瞬間、この指先にあたる小さな光の中で達成し完成する目的は、過去や未来、そして遠いかなたの地とは全く関係のないものではありません。逆にすべての時間と場所がこの小さな光の反射の中にあることなのです。ただ私は、過去や未来から今を作り出しているのではなく、過去や未来から完全に切り離された今を楽しむ内に、現在の中にすべての時間と空間があり、過去や未来、そして遠い宇宙のかなたの空間は、幻に過ぎなかったことに気づくのです。

今この瞬間こそが現実で、江戸時代も2050年もリオデジャネイロも北京も、幻にすぎません。今この小さな木の机の上にある光沢こそが現実で、今朝のコーヒーも明日の東京も幻でまやかしです。そして持続しながら移り変わる現在という瞬間は、人間の思考と感情と感覚のフィルターを通して過去や未来になります。過去や未来は実体ではなく、単なる断面図にすぎません。断面図は見やすくわかりやすいのですが、実物とは全く別のものです。それは説明にすぎません。「テニスの楽しみ方」という解説書と、実際のテニスの試合をすることくらいの違いがあります。本と行為ですから比較の対象にもなりません。


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