幸福のためには不幸が必要か | まーちゃんのブログ

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幸福のためには不幸が必要か


100%の幸福は人間的な幸福ではないように思えますが、あなたはどう思いますか。何の心配もない幸福は、ただ甘いだけの人工甘味料のようなものじゃないですか。甘さの中にコクが感じられるには、ミネラルのような苦みや塩味がないとだめなんじゃないでしょうか。非常に残酷で、私は非難されると思いますが、誰かの不幸や悪が、遠く離れた誰かの幸福を支えている気がしてなりません。

これをはっきりさせるために1)幸福のためには不幸が必要である、2)幸福のためには不幸は必要ではない、の2つの視点から考えてみたいと思います。


1) 幸福のためには不幸が必要である

私たちは無意識に、ニュースなどで知る遠くの不幸、とんでもなく恐ろしい殺人事件や、戦争、災害、知り合いの知り合いが事故に会ったり、難病にかかったりするのを、自分の幸福のスパイスにしている節があります。その不幸と比較して、その関係性で、自分のなんでもない、どちらかというと不満や不安が勝っている日常を、幸福だと感じるようになる。自分が幸福だということに気づくのです。

世界中のすべての生きとし生けるものが幸福になったら、幸福と言う言葉はなくなり、それは生活という言葉に吸収されてしまうでしょう。世界中が100点満点の美男美女ばかりになったら、美男美女という概念はなくなり、人という概念に吸収されてしまいます。スタートボタンを押せば勝てるゲームは、ゲームではなくただのスイッチです。人は比較で幸福を感じているのです。善と悪、美と醜、苦と楽のバランスが自分に都合がいいとき、幸福と感じるのです。

自分と社会との関係でもそれは言えますが、自分の中でも同じことが言えます。自分の中が善、美、楽で100%満たされ、100%幸福だったらそれは神です。心だけが神になってしまった人間です。心の中のバランスが善、美、楽95%、悪、醜、苦5%くらいのバランスのとき最高に幸福になるのではないでしょうか。

これはひどいことかもしれませんが、大きな救いもあります。それはこういうことです。私がひどい目にあって、苦しんでいるとき、不幸のどん底にいるとき、それがどんなに誰にも知られず、私の心の中だけのことであっても、私が不幸であることによって、世界の誰かが幸福になる。そして私の心の中に、小さな不幸があるとき、その小さな不幸は結局私の幸福の原因になっているのです。つまり世の中の不幸はすべて無駄ではない。誰かの役に立っている、ということが言えます。


2) 幸福のためには不幸は必要ではない

比較によらない、純粋な幸福を想像してみましょう。お酒や、ドラッグで陶酔しているときがそれでしょうか。私はお酒が飲めないのですが、メニエール病で救急車で運ばれたとき、点滴をされて10分後ぐらいに、あたりがバラ色になって楽になった経験があります。あれは何かの薬が効いたんですね、きっと。

お酒や薬で幸福になるのが純粋かどうかは疑問ですが、正常な精神のままそういう状態になればいいわけですね。一瞬は可能な気がします。何か宗教のようなものを熱心に信じて、一瞬は100%幸福になれるような気がします。でも、次の瞬間すごく落ち込んだり、悩んだりしそうです。犯罪の匂いもします。

もう一つ方法を思いつきました。忘却です。心の中の不幸を忘れることで100%幸福という状態にするのです。痴呆症のような感じですか。ただし正常な精神状態は維持します。私のような忘れっぽい人は、これができるかもしれません。でも、長続きはしないでしょう。正常な精神なら、いずれ思い出しますから。

このように幸福のためには不幸は必要ではないことを証明しようとしても、まず不幸のない心を作り出すことができません。


以上の1)、2)から、2つのことが言えます。一つは、人間の幸福には不幸が必要だった。もう一つは、人間には必ず不幸が付きまとうので、それを幸福の材料にしてしまった。

結論としては、幸福のためには不幸が必要である、ということです。以前に書いた「幸福の絵」や、「幸福の仕事」なども結局この不幸と幸福のバランスによって幸福の泉を実現するものでした。

しかし、気になることがあります。不幸のない正常な心を作り出すことができないという点です。不幸のない心は、異常な状態でしか作り出せませんでした。不幸や不安のない心は、錯乱した心です。そこがどうも引っかかります。

人は生きるために、不安が必要なのではないでしょうか。恐怖によって危険を回避しているのではないでしょうか。不幸が人に将来の準備をさせ、様々な発明をさせ、結果的に長生きさせているのではないでしょうか。不幸は、近づくと危険だよ、そのままにしておいたら危ないよ、という警告なのです。人間が何の危険もない完璧な環境を作ったとき、この警告は不用になります。そういう環境を天国と言うこともできます。人間は天国に住むとき、100%幸福で不幸の全くない心を獲得するのです。

もし地上に天国を作ることができたら、幸福のためには不幸は必要ではありません。現実的には無理でしょう。でも、どういうわけか、できるような気がするのです。そしてその方法は簡単で、私はもうすでに知っているような気がします。

私が私以外の人になることはできず、私の世界から出ることは不可能だという事実が、その大きなヒントになります。ここでは、それ以上考えるのはやめておきましょう。

とりあえず、現実では不幸が幸福の役に立っていること、不幸が不用な世界が私の世界だったら可能かもしれないこと、この2点だけはわかりました。


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