ビワイチ以来、約1か月、全くロードバイクに乗っていませんでした。(._.)


本当に色々ありまして・・・。


このブログは私の備忘録も兼ねておりますので、その時の出来事や心情を残しておく為に書き記します。



ビワイチから帰って来て「充分に楽しんだし、明日から仕事頑張ろう!」と思っていた矢先にコロナに罹患(2日後に妻と息子も発症)して1週間会社を休んだ後に、ダルさや咳等の後遺症に苦しみながら仕事に復帰して何とか1週間乗り切ったのですが、週末に体調を崩してロードバイクにはずっと乗れずじまいで10月2日の月曜日を迎えました。


この日は、私のコロナ休暇で遅れていた諸々の案件にも目処が付いて、新たな別の問題も出てきたりしましたが、それなりの段取りも終えて「あとは明日にしよう。」って事で帰宅して晩ごはんを食べた後の事です。


不意に私のスマホに着信があり、見ると妹からでした。


「えっ?!これは絶対に実家(名古屋)で何かあったな。」と一瞬で悟り、電話に出てみると、比較的落ち着いた声の妹から、父が家で倒れて救急車で病院に運ばれた事、弟が付き添っている事、心肺停止状態であった事、自分(妹)もこれから娘の運転で病院に向かう事、詳細については弟からの連絡を待っている事、を一気に聞かされました。


完全に私の思考は停止状態でした。


最悪の事態を覚悟をしなければいけない事は分かっていましたが、電話を切った後はしばらく放心状態でした。

連絡を受けた事実をそのまま妻に伝えました。

私も妻も放心状態で同時にひどく動揺もしておりました。

何とも重苦しい空気に包まれた数十分を過ごして、再び妹から着信がありました。

心臓マッサージ等の蘇生処置も虚しく、父が他界した事を告げられました。

死因は肺気腫による呼吸不全とのことでした。

ずっと酸素吸入をしていたので、本当に限界だったんだと思います。

そこからは、翌日の午後に名古屋の実家で父の亡骸と対面するまで、ずっと思考がまとまらずフワフワした状態で、時折無性に悲しくなるといった状態でした。

覚えているのは、夜遅くに塾から帰ってきた息子に「お祖父ちゃん亡くなったよ」と教えたら、息子も現実が受け止められないのか何も言葉が出てこなくなっていた事、私も会社の皆さんに忌引休暇の為、不在になる旨の連絡をして、ボーッとした後で、深夜2時頃に喪服やらの帰省の用意をして、取り敢えず朝まで目を瞑って眠ろうと試みた事、妻は既にボロボロに泣いていた事、等々です。

翌日になって、私はすぐに実家に向かい、妻と息子は取り敢えずそれぞれ仕事と学校に行って、翌日から2日間休む届け出をしました。

実家までの道中、父との数々の思い出が頭の中を駆け巡ります。

本当にたくさんの事が次から次へと思い出されます。

一つ一つ文章にしたら、大変な量になるので心の中に大切な思い出としてしまっておきます。

最後に言葉を交わしたのは、この夏休みに私が帰省を終えて東京に帰る時に「また年末に来るからね。絶対に元気で居てよ!」と声を掛けて、父は「おう、分かった。気をつけて帰れよ。」と言ってくれたのが最後の会話でした。

その時は、ちょうど台風の影響で東海道新幹線が大変な事になってて、私が予約していた新幹線も大幅な遅延となり、東京までデッキで立ったまま深夜に家に辿り着いた日でした。

本当はもっと余裕を持ってゆっくり話したかったのですが、それが本当に心残りでした。

私は大学卒業後、実家を出てから既に30年以上経ち、名古屋以外での暮らしの方が長くなっており、私自身も年齢を重ねて、両親も後期高齢者になっている現状を考えても、こんな日はいつか必ずやってくる事は分かっていたはずで、その「覚悟」は自分の中では既に出来ているものと思っていました。

しかし、いざその時が来ると、本当に悲しくて、現実を受け入れられない自分が居て、「心ここにあらず」と言った状態のまま、実家に辿り着きました。

憔悴しきった母と弟、妹、姪っ子達が迎えてくれました。

居間に入ると、綺麗な布団に北枕で寝かされ、顔には白い布を掛けられた父が横たわっていました。

私はすぐに駆け寄り、一旦間をおいて心を落ち着けて、ゆっくりを手を合わした後に、側まで行って布を取って父の遺体と対面しました。

本当にいつもの居眠りしてる時の顔です。

でも、もう二度と目を開く事はありません。

その事実を目の前に突きつけられて、感情の昂ぶりを抑えることが出来ませんでした。

感謝の気持ちを伝えようにも言葉になりません。

ただ涙が溢れるばかりです。

その場に居た皆は昨日からずっとこんな気持ちで居たのかと思うと、長男として情けないやら、申し訳ないやらで、自分の不甲斐なさを感じると同時に、出来ていたと思い込んでいた「覚悟」が、全く出来ていなかった事を知りました。

実家の事は、実質的に弟が取り仕切っており、正式な跡取りは弟になります。
(これはもう何年も前に兄弟間で話し合って決めておりました。)

この日の午前中には、通夜、葬儀に関して、弟と妹が斎場と打ち合わせして、既にある程度の事は決定しており、私の様な名ばかりの長男を喪主として、話が進められておりました。

父を看取った後に、母を労りながら、すぐにここまで手配をしていた弟と妹が本当に頼もしくもあり、自分の無力さを改めて感じ、恥じ入るような気持ちでした。

それでも弟が少しでも負担を軽くできるならと思い、形ばかりの喪主を引き受けました。

そこからは、悲しみに浸りながらもなかなか忙しい時間が流れていきました。

通夜、葬儀、火葬、初七日と兄弟や親類に支えられながら滞り無く終えることが出来ました。

その間に、本当に久しく会っていなかった伯父達や従兄弟達にも会うことが出来、父との思い出を語り合うことが出来ました。

まだ四十九日法要と納骨がありますが、ここまで一通り終えて一段落して、改めて思う事は「親父は偉大だった。」という事です。

私は既に人生の後半を生きており、残り期間もそんなには多くないと思いますが、その人生の中で為し得たことを比較すると、私は父の足元にも及んでおりません。

恐らくこの先、追いつく事は無いでしょう。

父は頑固で偏屈でしたが、子供たちには適度に厳しく、総合的に見れば優しくて尊敬出来る父で、孫達に取ってはただただ優しくて大好きなお祖父ちゃんだったと思います。

私を含めて子供や孫達をずっと見守ってくれた事、心から感謝しています。

認知症が進んで来た母も「本当に優しくて良い人だったよ。なんでこんなに早く亡くなっちゃったのかねぇ。」と涙ながらに何度も何度も繰り返していました。

親父、本当にありがとう。


令和五年10月、父逝去に際しての「思い」。