中山道の鵜沼宿を離れ

ランチとビックリ神社に

寄って踊りまで時間もある

ので美濃加茂市にあります

中山道の太田宿へ

 

1843年当時は尾張藩領で

本陣1軒が脇本陣1軒そして

旅籠20軒に家屋108軒あり

脇本陣林家所蔵の旅籠万覚

帳によれば松野屋 岩井屋

坂本屋 三升屋 油屋 今井屋

小松屋などが太田宿で宿屋

を営んでいたと記されてい

るそうです

美濃路にありながら尾張藩

領だったという中山道の

太田宿は落合宿から鵜沼宿

までは当時尾張藩が支配

していました

 

中山道の太田宿は【江戸】

東京の日本橋から【京】

京都三条大橋までを結ぶ

江戸時代の五街道の一つ

中山道六十九次のうち江戸

から数えて51番目の宿場町

になります

飛騨へ向かう飛騨街道と

関市から郡上へ向かう

関街道への分岐点を持つ

場所として大いに栄えた

ので御座います

江戸時代には尾張藩太田

代官所が置かれ尾張藩の

美濃国支配で5万6千石の

拠点として位置づけられて

いました

平行して木曽川が流れ

交通や物流の要衝として

機能していました

中山道を旅する沢山の人々

が一息つき草鞋を脱いで

疲れを癒やしたとされます

中山道の三大難所の一つに

数えられた太田の渡しが

あり太田宿は中山道の三大

難所で木曽のかけはし太田

の渡し碓氷峠がなくばよい

と唄われた一つになります

太田の渡しのある場所で

木曽川の大水の際は旅人達

が足止めされたといわれて

います

後期には尾張藩太田代官所

が設置されるなど政治的に

も重要な場所でした

町並みは東から上町そして

仲町と下町に分かれ中心に

本陣が配されていました

祐泉寺の裏側の街道筋には

当時の面影が残るS字の

枡形があります

明治時代後期の旧十六銀行

太田支店の建物の二階部分

の格子になぜか?観音様の

御尊顔だけが掛けられて

いました

旧太田宿本陣門

旧太田宿本陣門は広大な

敷地を誇る太田宿の本陣に

おいて唯一現存する史跡で

1861年10月に皇女和宮の

幕府への下向のために建て

られたと伝えられます

この門は一間の薬医門で

両袖に半間の塀がつき

旧本陣の偉容を偲ばせる

格式あるつくりです

旧太田脇本陣林家住宅

 

脇本陣とは本陣に次いで

江戸時代の宿駅制度上の半

公共的な宿泊機関として

機能していました

宿場町の有力者がその役割

を担っていて太田宿では

林家がその役割を担って

いました

1769年に建てられた母屋が

現存し現在も住居として

利用されております

隣接する隠居家も共に国の

指定重要文化財に指定され

ていて一般開放しています

太田の渡し太田の渡しは

中山道の三大難所の一つで

中山道の旅路においては

なくてはならないもの

だったそうですね

1926年太田橋が架設され

たので渡しの役割を終え

ました

本陣前と脇本陣横には

太田宿中山道会館があり

ます

太田宿中山道会館は太田宿

を巡る旅の出発点でもあり

ます

中山道太田宿の歴史や文化

そして江戸時代の宿場や旅

の様子を紹介する展示室や

飲食コーナーに物産品展示

に販売コーナーなどがあり

ます

江戸の宿場を再現した

コーナーには本陣の東門の

本物が移築保存されていま

した

昭和57年に中山道の歴史と

文化を活かした町づくりを

進めるため美濃加茂商工

会議所青年部会員を中心に

中山道若衆会を設立し

日本一長い綱引き大会を

開催するなど太田宿からの

発信を始めたそうです

古い町並みも昔の雰囲気を

出すためでしょうか?郵便

受けにも一工夫がされて

ました

古い町並みは町の家屋だけ

ではなく町にあり使用され

ていた物や調度品がある事

も含まれての町並みと抹茶

は思っています

町並みの建物は色々と手が

入り新しくされ古い様に

復元されていますが物や

調度品は修繕はしますが

原型が残っていますよね

それもコミコミでの古い

町並みかなと

西に歩くと道標が見えて

きました

 

この辻が郡上街道との追分

で右 関 上有地左

西 京 伊勢道とありました

昔の町並みですが雰囲気を

出す所は少ないですが先人

が歩いた道を下駄を履いて

歩いた抹茶で御座いました

 

つづく