長浜ブラ、後編です^
前編では『盆梅展』&『日本最古の駅舎』をご覧頂きました。
今作・後編では長浜の中心部を街ブラしてみたいと思います
スタート&ゴールは前作と同じく、JR長浜駅です
前編では琵琶湖側からでしたが、今作では旧市街への玄関口、伊吹山口(駅の東側)から歩きます
駅前通りから、↑伊吹山がうっすらと見えます
↑は、駅から伊吹山の方向へ延びる駅前通りです
前作で書きました通り、僕はウン十年前、ここ長浜に住んだ事があります。その頃の駅前通りはもっと狭く、やや雑然としてましたが、久々に訪ねてみたら、区画整理がすすんでいて広々と様変わりしていました
でも、住んでた当時と変わらない建物もそこそこ残っていました。
↑の、てっぺんに『長浜タワー』なる塔を頂く古いビルもその一つ。
ここの1階には食堂があるんですが・
その食堂前にある↑看板、これも在住当時からあり、久々に見て凄く懐しかったんですが、ここに書かれている文言は、この長浜を語る(歩く)に欠かせない必須キーワードです
↑のうち『盆梅展』については前作で紹介しましたが、あとの・・
『曳山の街・長浜』
『北国街道』
『黒壁』
↑これらキーワードを頭に留めて頂きながら、これからの”長浜旧市街ブラ^をご覧になって下さい
先程の長浜タワーがあるビルの横から北へつづく↑旧道が、中山道の米原付近から北へ分岐し、ここ長浜を経て北陸へと続く、北国街道です。
戦国期~江戸期の長浜は、この北国街道&琵琶湖の港を中心に、近江北部の要衝として栄えました
戦災を免れた長浜は古い民家が多く残っており、↑公開されている民家もあります
お寺も市街全体に多く見受けられます。
(※後程、長浜で一番大きなお寺を訪ねます)
街道沿いには観光客目当ての土産物店も沢山あり、平日でも京阪神等から沢山の人が訪れます
駅前通りから北国街道を北に入ると、最初の辻にあるのが↑の洋館。この洋館が通称『黒壁』です
1899(明治32)年築、元々は銀行だった建物ですが、老朽化で取壊し寸前だったものを、市と地元企業が出資して3セク”黒壁”を設立してリニューアル、内部をガラス装飾品のショップとしてオープンさせ、以降ここが”長浜街おこしのシンボル”的存在となりました
内部を覗いてみましょう^
平日の午前中から沢山の人です
内部は2階建てで、1Fはガラス食器等の、わりと手の届きそうな価格帯の商品、2Fはちょっと高級な、装飾品的なものを主に置いています。↑写真は2Fですが、1Fは人が多すぎて撮影出来ず
なお、銀行だった頃の痕跡は、残念ながら内部にはほとんど残っていません。
黒壁の裏手にある↑ガラススタジオでは、実際にここでガラス製品をつくっていて、工房体験も出来ます
黒壁本店で売られているガラスは主に海外からの輸入品が多いんですが、このスタジオで売られてるのはここで造られたオリジナルです。
淡い色がつけられ、ガラスがちょっと厚めなのが特徴です^
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北国街道はさらに北へつづいていますが、↑この辺りは『武者隠れ道』といわれます。家並が少し凹凸をつけてやや不規則に並んでいて、敵方が不意に現れた時、スッと物陰に隠れやすいようにしたんだそうです
↑写真でわかりますでしょうか、よく見るとたしかに、各家々が微妙にずれて建てられています。
更には、2015年に中濃ツーリングで訪ねた美濃市と同じく、”うだつ”のある家屋も見られます
うだつの上がらない男が撮った、長浜のうだつです(笑)
黒壁周辺には飲食店も多数、滋賀名物の近江牛や鮒ずしも気軽に食べられます
黒壁直営の土産物店等もあり、黒壁はまさに長浜の街おこしをリードしている存在です
しかしなぜ、人口10万にも満たない小都市・長浜の街おこしが、これだけ成功しているのか?
”京阪神から沢山の観光客が来る”と前述しましたが、大阪~長浜間は100km以上離れています。決して”近場”じゃありません
そんな長浜が観光都市として発展するきっかけとなった出来事が、1991(平成3)年にありました。
それとは・・
その出来事こそ、前作の長浜鉄道スクエアのところで書いた、
『北陸本線・長浜直流化』だったんです
・前作の通り、長浜駅を走る北陸線は、日本初・当時最先端の技術だった交流で電化されました
しかし米原~大阪間の東海道本線は直流電化だったため、米原駅で乗換が必要で、時間もかかりました。
特急電車には交流と直流区間の両方を走れる『交直流電車』が造られましたが、高価なため普通電車にはなかなか採用されず、国鉄当時の北陸線普通列車は、主に機関車が引っ張る客車が使われていました
国鉄末期には湖西線が開通したため北陸線特急”雷鳥”が米原駅を経由しなくなり、優等列車の停車も激減。ますます疎外感が高まってしまった長浜市は、滋賀県とともに『京阪神からの快速電車直通化』、つまり”直流化運動”を起します。
しかし既に交流で電化されていた北陸線、当時全国にはまだまだ非電化の区間も多く、国鉄は「優先順位が違う」と、なかなか首を縦に振りません。
長年の運動の末、滋賀県も資金を拠出してようやく、JR発足後になって米原~長浜間直流化が実現しました。
京阪神には国鉄時代から『新快速』という駿速な快速電車が走っています
新快速が長浜駅まで延長されるやいなや、長浜への観光客はドッと激増しました。直流化の企ては大成功を収めたんです
(※現在さらに敦賀まで直流化され、今や日本海にまで新快速が走っています)
古い街並が残るコンパクトな長浜は『街おこしのモデル』として、直流化当初は全国の自治体から視察が絶えないほど注目され、長浜の成功に触発されて滋賀県内の他都市、彦根や近江八幡等も街並の整備に力を入れ始めたりしました。長浜の活性化は、滋賀県全体の活性化に繋がっていったんです
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・さらに街中へ入ります。北国街道の黒壁の角でクロスしている通りが↑、長浜大手門通りです。一部アーケードに覆われています
いろんなお店があるんですが、まず紹介しておきたいのが、↑黒壁から入ってすぐ”のっぺいうどん”の店。あんかけうどんの一種で、ダシの効いたあんがドロッと載ってて大変美味しいです。住んでた頃はよく友人を連れて行きましたが、1人では入りにくい店なので今回は残念ながら行けませんでした
ここも久々に歩いたんですが、いい意味でもわるい意味でも、観光化されつつあるのを実感しました。
↑の”長浜ラーメン”、本家福岡・博多の長浜ラーメンと紛らわしい感じもしましたがw、味も福岡と同じく”とんこつ味”だとの事、でも地名が全く同じなので”パクリ”とも言えず、まぁある意味オモロいところに着目したなぁとは思います(笑)
僕がいた頃には無かった店もいろいろ出来てました。
↑は長浜に本社を置くお灸の会社がつくったアンテナショップ、関西ではTVCMも流れる有名なメーカーです。伊吹山の山麓ではもぐさが採れます
↑のお店、現在は観光客向けのお箸屋さんですが、僕が住んでた時は婦人服店で、店の壁には『女装の店』と書かれていたのが一部の人に大変ウケてましたw
通りにはいろんな民間の展示施設も出来てて、まさに観光地の様相を呈していました。僕の在住時とはかなり様変わりしていました
そんな大手門通り商店街の中程から、路地に入ったところにあるのが↑、市立曳山博物館です。前述の『長浜曳山祭』について展示しています
見学します
まずはパネル展示から
↑”子供が主役”と書かれている通り、曳山祭りの主役は子供です。
街中を曳山が練り歩いた後、御旅所に据えられた曳山の上で、市内各地域から選ばれた小学生の男の子が歌舞伎を披露します。
僕も住んでた頃見に行った事がありますが、子供歌舞伎と侮るなかれ、凄く本格的なもので、夕闇の中行われる迫真の演技に、演者・観客一体となって大盛上がりします
曜日関係なく毎年4/15に行われ、選抜された児童は期間中、学校を休んで準備と稽古に集中します。京都の祇園祭でも、稚児に選抜された児童は期間中休学するのと同様です(※代りに、GW期間中に補習があるとの事)
その4/15を本日(※ほんび)として、その前後にも街中と、主催神社である長浜八幡宮(※後程行きます)で繰り広げられる各種神事・行事で、春先の長浜は祭一色になります。囃子(※長浜では「しゃぎり」と読む)の声が街中に響きます
曳山や山車が街中を曳行される祭は、京都の祇園祭や岐阜の高山祭が全国的に知名度高いですが、長浜の曳山祭りも前記2つとともに”日本三大曳山祭”とされています(※但し関東では京都・岐阜に加えて秩父夜祭が3大とされます)
そして、その曳山の実物を同館で見ることが出来ます^
長浜の曳山は計13基あり、毎年そのうち4基が『出番山』として登場します。
曳山博物館ではその年の出番となる4基を収納し、そのうち2基を交代で展示しています。↑は『高砂山』です。ガラス越しなので写りわるいですが、子供が歌舞伎を演じる↑舞台があるのがおわかりでしょうか・
(※その年出番でない山車は、各町内にある収蔵庫で保管)
また、各山の背面には贅を尽くしたタペストリーを垂らしているのも特徴で、各町内に数百年伝わるものもあり、値段がつけられない程貴重なものだそうです。本来なら文化財として申請すべき位だそうですが(※国重文級もあるとの事)、重文などの指定をうけると祭りに街中で使用しにくくなるため、あえて申請してないという話もあります
長浜は、ご存じ・豊臣秀吉が治めた城下町です。
曳山祭りも秀吉の時代に始まったといいます。
奇跡ともいえる武勇伝を重ね、類稀なる能力で戦国の世を戦い、全国を平定していった秀吉ですが、彼は近江に特段の縁があり、姉川や小谷城での戦いで功績を上げた秀吉は滋賀県北部を拝領、長浜城を築城しました。
長浜の街おこしが成功している理由は、前述の直流化も大きいですが、何よりベースとなる街の歴史の厚みや魅力に富んでいるから、というのがあります
次に、曳山祭を主催する八幡宮へ行ってみます
八幡宮は、大手門通り商店街の東端からさらに東(※伊吹山側)へ少し歩いたところにあります。
鳥居のむこうには・・
↑広い境内が現れます
本殿は↑の塀の中、平安時代創建との事で、約1000年の歴史を持ちます。
八幡宮の周囲にも古民家が散見されます
神社の次は”お寺”へ
長浜旧市街で一番大きな寺院、大通寺(だいつうじ)を訪ねます。
八幡宮へ行く道の途中から分岐する、↑”ながはま御坊・表参道”を歩きます
この表参道の街並も、いろんな店があって楽しい道です
↑この通りのドン突きに、お寺の門があります。
途中にある川は、↑長浜市街地を流れる米川(※よねがわ)
ちょうど桜の時期でした^
着きました、↑大通寺(※真宗大谷派)の山門です
同派の別院として格が高いお寺ですが、地元では『ごぼさん』(※長浜御坊)と呼ばれて親しまれています
中へ入ると~
広々とした敷地の中に、本堂です。
黒壁から歩いても数分なんですが、なぜかここまで来る観光客は少なく、地元の子供たちの遊び場となってます
本堂は、↑自由に上がって参詣できます。
本尊は阿弥陀如来です。ストーブが沢山置かれているのが、冬の寒さ厳しい長浜らしいです。でもそろそろしまう時期ですがw
僕が住んでた頃は、↑本堂の脇に猫が沢山いたんですが、残念ながらいませんでしたw
・なお、本堂のさらに奥は有料区域となり、国名勝に指定されている庭園や宝物等を見学できます。なお、この本堂も国重文です
そろそろ駅に戻るんですが、先程の大手門通り商店街の一筋北にある、↑『ゆう一番街』を歩いてみます
賑やかな大手門通りや黒壁がすぐそこなのに、歩いている人はほとんどなく、地方都市にありがちな”シャッター通り”の様相も呈するゆう一番街
これまで長浜をいいことづくめで書いてきましたが、勿論弱点もあります。人影まばらな八幡宮や大通寺をご覧頂きましたが、長浜の場合観光客が徒歩で動く範囲が狭く、駅から黒壁までのごく小さい範囲に集中する傾向があります。もう少し範囲を広げて歩いてもらう工夫も必要なのかなぁあ~とも思います
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・ではラストに場面かわって、↑を見て今作締めます^
前編でチラッと出ましたが、琵琶湖べりにある公園、豊公園(※ほうこうえん)です。
豊公園内に、↑長浜城が復元されています。
曳山博物館で前述の通り、秀吉が築いた城ですが、江戸初期には早くも廃城になりました。現在復元された城の中は、歴史博物館となっています
公園内あちこちに城の遺構が残り、公園そのものが史跡となっています
そして、公園の西側は琵琶湖の岸辺です^
街ブラさいごは、琵琶湖を眺めてしばしマッタリします^^
日本一の湖・琵琶湖、太古から”淡海”とも呼ばれ、まさに”海”です。
(※淡海=おうみ、近江の語源)
少し駆け足気味となってしまった長浜旧市街ブラでしたが、この街の魅力が今作ご覧のかたに少しでも伝わったら幸いです。
JR直流化によって”奇跡の活性化”を果たした長浜の街、これによって彦根や近江八幡等も街の観光化に力を入れ始めた、と前述しましたが、もう少し補足します。
直流化による『新快速の威力』&『長浜市の旧市街整備の努力』が見事な相乗効果を発揮し、滋賀県最北の街・長浜に京阪神から人を引き寄せる事に成功しました。そしてこの成功が滋賀県各都市にも波及し、「長浜の後に彦根も行こうか」とか「今回は近江八幡にも降りてみようか」「石山寺にも寄って帰ろうか」といった『シャンパンタワー効果』をももたらしました。改めて、”日本最強快速列車”新快速のパワーを感じます
今回は長浜を取り上げた滋賀県シリーズ、前後2編おわります。是非実際に出かけてみて下さい^^
(※2023.4 文一部修正)