しばらくのごぶさたでした、「た」ですw
回を重ねて第7の巻、今作歩く街はある意味、「た」似合いの街(?)でもあります。
その街とは・
全国有数の規模で労務者が集まる街、大阪市西成区にある、通称"あいりん地区"です。釜ヶ崎とも呼ばれています。
今作ではこの周辺を、新世界も含めて「た」流ブラに付き合ってきました。ではスタートです
この駅が、あいりん地区への最寄り駅となります
同駅から歩いてすぐ、早速目の前に広がる、独特の雰囲気を醸している街並。
道路沿いに、作業服を売る店が並んでいます
作業服も激安でしたが、このあいりん地区はいろんな品物が"あいりん価格"になっています。↑自販機の飲料も、同地区内なら大体50~60円位の機械が少し歩けば見つかります(※2010年当時)
道路沿いには、食べ物屋さんが並ぶ
なぜか"おから"に興味を示す「た」
コインランドリーも多く見かけました。
↑カップラーメンの自販機、今では貴重品です
阪堺電車の高架下をくぐり、↑さらに奥へ歩く。こういう風景がなぜか似合う「た」
労務者の福利厚生を行う市立の施設、愛隣会館を覗き込む「た」
(※この近くに、報道でよく取り上げられる"あいりん職安"がありますが、撮影出来る環境ではないため割愛します)
そして愛隣地区で一番よく目立つ建物といえば、↑『簡易宿泊所』。
1000円前後から泊まれる部屋もありますが、それさえ支払えず野宿する労務者も多いとの事です。バブル崩壊以降はさらに厳しい状態が続いているあいりん地区です。
近年では、外国人バックパッカーが安宿として利用している例が多く、宿側でも外国人向けに改造する所も出てきているとの事です
そして、↑あいりん地区中心にある通称"三角公園"に出た「た」。
周囲にテントが並び、一角では焚き火を囲む沢山の労務者がみえます。
雰囲気からして、もはや一般的な意味での"公園"の体をなしていません。
ただならぬ空気感、撮影するにもはばかられる殺伐とした空気で、なんとか撮ったのは↑の1枚だけです。
同公園近辺では、ここには書けないような行為をしている現場も目の当たりにしましたが、とても撮影は出来ないし、具体的な様子は控えたいと思います。
日本を底辺から支えている場所・支えている人々がいるのが、ここあいりん地区です。そんな街だからこそ、他の街では決して見られない人間模様がオブラート無しでこの地に投げ出されている、という印象でした。
「た」は、以前からここを何度か訪ねているらしいんですが、なにか心動かされるものがあるんだと思います。
小腹が減ってきたので、地区内にある↑ホルモン屋さんで、Woと2人で一杯やる事にしました
この街と、ワンカップがなぜか似合う(?)「た」
このお店も、激安あいりん価格でした
あいりん地区に、夕陽が傾いてゆきます
いつもの街ブラとは少し違う、ちょっとディープな「た」流あいりん地区探索でした
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あいりん地区をあとに、次は~
↑駅東側の環状線高架下をくぐって、北側へ移動します
(※あいりん地区は環状線の南側)
露店が床にいろんな物を並べ、店開きをしています
このガードをくぐると、大阪有数の繁華街・新世界です
ガードのむこうは、新世界・ジャンジャン横丁へ直結しています
串カツ屋さんや将棋センターが並ぶ、大阪らしさ満点のジャン横です
「た」おすすめの、↑うどん屋さんへ入ります
ダシがよく利いてて美味しい、関西味のうどん
大阪のうどん麺は、ちょっと柔らかめなのが特徴です。寒い中を歩いた後なので、ホッとして上機嫌の「た」
そして、夜の新世界へ
夕闇に輝く新世界のシンボル、↑通天閣
ちなみに通天閣の広告ネオン、かなり昔から日立が独占しています。これには理由があり、関西系家電メーカーが全国で強かった昭和期、関西での知名度を高めようと、あえて関東系の日立が広告を出し続けているとの事です
久々に、「た」と通天閣に登ってみます
エレベーターで2Fに昇ると入場口があります。
↑"通天閣"の書(※電光板の上)は、大阪では有名な作家、藤本義一氏の手になるものです
時計に注目 ↑文字盤が"通・天・閣"^
↑EVで展望階へ昇ってきました
展望層からは、↑素晴らしいなにわの夕景
高さは東京タワーの半分もありませんが、展望の素晴らしさは負けていません
"東京タワー"の名が出たところで、通天閣について少し纏めます。
なにわのシンボルタワー・通天閣、現在の塔は戦後建てられた2代目で、初代は1912(明治45)年に完成しました。当時新世界にあった遊園地"ルナパーク"の中に造られ、初代の塔はパリ・エッフェル塔を模したユニークなデザインだったそうです。
しかし1943年、火災により閉鎖。折しも戦時中だったため、塔は金属供出に出すべく解体されてしまいました
戦後、再建の機運が高まり、1956(昭和31)年、2代目・現在の塔が完成しました。東京タワーより2年早かったんです
なお、現在の通天閣を設計した内藤多仲は東京タワーも設計しており、通天閣の入場券にも"東京タワーは弟"と記されていました^
ビリケンさんは通天閣のキャラクターでもあります。
↑は、戦前当地にあった遊園地"ルナパーク"に置かれていたビリケンさんを模してつくられたとされており、初代通天閣とルナパークはロープウェイで結ばれていた(!)そうです。
今では庶民の飲み屋街・新世界ですが、今では想像もつかないような、知られざる過去を秘めています
通天閣の展望室は2層にわかれており、↑下の階はブルーの照明
なにわの展望を堪能し、降りてきました
すっかり夜になった新世界
づぼらやのふぐも、↑夜空を泳いでいますw
ここで、新世界の沿革について纏めておきます
難波にも距離的に近い、ここ新世界ですが、明治初期まではネギ畑が広がる、郊外の一寒村でした
当地が繁華街となるきっかけは、1889(明治22)年に出来た"今宮偕楽園商業倶楽部"。今でいう、遊園地と新製品展示場を兼ねたような施設が造られ、大阪中から多くの人が訪れる地になったとの事。
この開発がベースになって、1903(明治36)年に開催された『内国勧業博覧会』の会場に選ばれました。政府主催なので"内国"と言いながら諸外国からの出展も多かったとの事で、いわば"万博会場"になったという訳です
これにより新世界はさらに発展、その流れで1912(明治45)年には前述の遊園地・ルナパークが開園、初代通天閣が建ちます
ルナパークのキャッチコピーは"5銭出せば夢の国"だったそうです
しかし大正期に入ると、明治期のいわば"大型開発"の時期は終り、近隣には飛田遊郭や天王寺公園等が形成され、ルナパーク周辺に出来た劇場や映画館等への遊興も兼ね、庶民がフラッと遊びに来る繁華街へと変化を始めました。
戦時下一時衰退するも、戦後再び通天閣が再建される等、復興もしてきた新世界でしたが、今作ご覧頂いた隣のあいりん地区が、高度成長に伴い肥大化する中での暴動等も多発。その報道の度に通天閣がTVに映し出されると、"新世界は治安が心配"という風評が広がってしまい、来街者は減り始めました。
次第に、大阪の繁華街といえば、梅田/なんば/天王寺(あべの)の"3強体制"に固定化されていきました
しかし、大阪環状線の全通に伴い、最寄の新今宮駅が南海電車との乗換駅として主要駅化。その後も大和路/関空快速の停車駅となる等、意外と利便性の高いエリアとして見直され始め、スパワールドのオープン等や、昭和レトロを残す飲み屋街が再注目を集め、平成以降は来客が戻り始めました。今では、梅田やなんばでは味わえない"ディープな大阪"が体感できる街として、国内外から観光客を集めています
これからが、↑夜型人間「た」が元気になる時間w
この後彼は、どこか飲み屋へ行くと言い残し、新世界の巷へ消えてゆきましたw
次回の「た」はどこへ現れるのか?お楽しみに^
(※2022.3 2024.2 文一部修正)