まるおの雑記帳  - 加藤薫(日本語・日本文化論)のブログ - -25ページ目

“おやじさん”に聞きたい!(その3 「全員巻き込み体制」は、やはり、正当化できませんよ)

次に、おやじさんの090614と090615の発言を取り上げさせてもらう。
私の疑問に答えてくださったという側面もあると思うので。

***
それには、しっかりと目的意識を持った“器=組織”が必要なのかなって思います。
今は、その目的も目的意識も・・・無からは・・・
ボランティアは、意思があってこそ成り立つものであり・・・
目的も目的意識もない所から・・・
すなわち“意思”のない所からいきなり生まれてくるものではないと思います。

だからこそ・・・
組織として・・・その活動を支える器としての目的や目的意識というものは大切であり・・・
それが必要不可欠なのかなって思います。・・
そして、その為には何が必要なのか?何をするべきなのか?・・・・を考える誰かが必要!!
その人たちは、・・・・
現状からすれば、ボランティアではなく・・・
役割をもって、その役割を全うしようという責任から・・・
そう・・・その役割への責任と自覚からなんだと思います。
***

PTAが存在し、有志の人が活動し、参加の呼びかけを熱心に行う。
そのようなことを“いかん”とは一言も言っていません。
いろいろな考え方や事情がある人がいるのに、「全員を巻き込む」のは、おかしいでしょ!と言っているのです。
(「一社会教育団体がなぜ保護者を「総動員」できるのか? ∞連帯は「法と人権」を守ってこそ∞」(3/27)でも同じことを述べさせていただいています。)

仕事のノルマ化が一切ないのなら別ですが、おやじさんの学校もノルマ、ありますよね。
新入生の保護者が競うように役員をやりたがるとのことですが、このパターンは、私の知る限り、上級生になった時に責任の重い仕事をさせられるのを恐れての行動と思われます。
(誤解しているところがあればご指摘ください。)


***
私は、思いや意見を述べるのであれば・・・
その人たち自らが行動して、自らがその責任を負うという形での行動が大切なのかなって思います。
活動をしている人たちに異を唱えるのは、実は筋違いなのかなって・・
***

代案は示しています。カワバタさんが紹介してくれている西東京市の実践もすでにあります。
親は、学校と連携したり、学校に協力したりしなくてもいいと思っているわけでは全然ないので、誤解なきように。
拙エントリの「『学級PTA』論への疑問(3)」のまとめ部分や、サトヤマ氏の「PTA問題のまとめ」http://tanuko418.exblog.jp/11186334/をご参照いただければ幸いです。


”おやじ”さんに聞きたい!(その2 「人それぞれ」の尊重はどうなっているのですか!?)

前回のエントリ(“おやじ”さんに聞きたい!(6/11))に対して、“おやじ”さんのブログでお返事をいただいた(090613)。

依然として「?」なことが多々あるので、以下、率直に私見を述べてみたい。


少し、話を整理させてもらうと、「会の性格の説明は必要だ」という、PTAのあり方とは…さんからの批判を受けて、おやじさんから次のような発言(反論)があった。

>きちんと説明・・・入退会は任意ですよっていう事実が伝わっていれば…
まずは、最初のハードルはクリアー?なのかなって(090609)

それに対して、おやじさんの関わる学校では、どのようにして「最初のハードルをクリア」しているのか、これまでのおやじさんの発言からは非常に見えにくかったので、前のエントリでお尋ねしたわけである。しかしながら残念なことに、お返事のどこを見ても、「きちんとした説明」がなされている形跡がないのですが…^_^;
誤解してますか?

「インフォームドコンセント」という言葉があるように、相手の同意が「きちんと」(←ここ大切!)得られてこその「説明」である。
おやじさんの090613の説明を読ませていただく限り、同意するか・しないかを 考える、時間も余裕も保護者には与えられていないように思うのだ。(前にも指摘させていただいたが、これは「拉致軟禁方式」と言うべきかと。http://ameblo.jp/maruo-jp/entry-10231471844.html)


おやじさんもそのあたりのことは自覚されているらしく、次のように正当化されようとしている。

>何度も言っていますが・・・
そこに通う子どもたちは・・・・
自身の意志や都合で学校に入学しないするを決めるわけではなく・・・通学・・・
私たち見守るべき立場の人間は、しっかりと見守るべきだと思います。
そんな時にどうすれば!?っていう“器”?や“受け皿”?・・・
そんな役割をPTAが担う事が出来ればいいのかなって思います。

しかし、
これは、こちらも何度も言っていますが(「妙な趣味の押し付けは勘弁してほしい」(3/20))(笑)、「子どもが学校に通う」ことに関しては、法の網がかぶされています。法によって、「制御」されているのです(憲法第26条・教育基本法第4条)。
一方、「親がPTAに参加する」ということに関しては、法の網はかぶされていません。

この重大な違いを無視した言動は、法治主義を蔑ろにするものであり、おやじさんが現在、特例市の教育委員という大変に責任の重い公職に就いていられることを考えるにつけても、これは、非常に問題があると言わざるを得ません。


>いろんなPTAがあって・・・
いろんな活動もあって・・・
いりんなやり方もあって・・・
正解もないっていつも言っていますが・・(笑)

おっしゃるとおりだと思います。
しかし、非常に大切なものを忘れていませんか?

それは、
 ∞ いろいろな人がいる ∞
ということです。

繰り返しになりますが、前のエントリに引用させていただいたカワバタさんの発言、

自分の価値観を普遍化して、他人の行動を制御することに、なぜ、そこまで無頓着でいられるのか。

これ、どう思われます?

自分は、このようなケースには該当していない、と思っておられるのですか?
それとも、
このようなケースに該当はするとは思うが、「それでいいのだ!」、と思っておられるのですか?

そのあたりの心理がどうなっているのか? 私もカワバタさん同様に、本当に分からないというか、不思議です。

“おやじ”さんに聞きたい!

oyajiさん、ご無沙汰しております。
学級PTAへのスタンス(否定的立場)は、私と非常に近いものを感じています。
また、学校に意見があるときは、基本的にはひとりで言おうというのも、同感であります。
oyajiさんとは立場的に相容れないのではと感じていましたが、そうでもないのですね^_^;


>きちんと説明・・・入退会は任意ですよっていう事実が伝わっていれば…
まずは、最初のハードルはクリアー?なのかなって(090609)

これも、大賛成であります。入退会が任意であることが、実質としてひとりひとりの保護者に伝わっていることが大切ですよね。我が意を得たりです。

そこで、お伺いしたいのですが、任意加入である事実をoyajiさんの関わる学校では、どのように一人ひとりの保護者に伝えているのでしょうか?


(この辺りから、疑問モードに入りますが、お許しください。)

>入学説明の時点で、あるいは入会式の時点で説明ができればよいと私は思います。(090610)

とありますが、「入会式の時点」で加入の任意性を伝えるというのは、どういうことなのでしょう(笑)。ちょっと、のみ込めないでいます。←ここ、疑問が渦巻いているところです!
入会式に参加しているということは、その参加者はふつう新入会員ですよね?

また、「入学説明の時点」というのも、入会を前提にその直後に役職選びとかが始まるのなら、実質としての「選択の自由」は与えられていないように思います。
「入学説明の時点」というのが、入学式にかなり先立つ新入生保護者説明会のことで、後日(入学式の日)に入会届けを提出してもらう、というような形なら、納得なのですが。



カワバタさんのブログの「PTA脳の恐怖!」(5/25)に、
***
その人なりの重要な理由があって、「任意加入にすべきではない」「しない方がいい」「周知しないほうがいい」というようなトーンの議論成分が入ってくるわけだけれど、その際に、ぼくがいつも分からないのは、

自分の価値観を普遍化して、他人の行動を制御することに、なぜ、そこまで無頓着でいられるのか。

ということ。
PTAの意義について、高く評価するのはもちろん、その人の考え。
しかし、「わたしはPTAはすばらしいと思う」「自分は強制でも入って、結果的によかった」「わたしもやったのだから、あなたも」といった理由から、違う考えや事情や感覚を持っているかもしれない人に「網をかける」ことがなぜ正当化されるのか、本当にぼくには分からない。
***

という私などにとっては感涙ものの発言が出ていますが、
このような考えに対して、oyajiさんはどう思われますか?


追伸
教育委員としてのお立場を考えてほしいとの、PTAのあり方とは…さんの意見に対して、自分は独裁者ではないので「心配はご無用」との返事をされていましたが、これは、ちょっと?です。
独裁者でなかっとしても、大臣であれ、県知事であれ、市長であれ、社長であれ、役職に伴う責任は追及されるものではないですか?

「学級PTA」論への疑問 (その3 「学級PTA」は中間集団全体主義の場にならないか)

>(承前)
学級保護者会(さらには学年、全体保護者会)がまともに機能するだけでは、何が足りないと言うのだろうか?

『PTA再活用論』では、学年・学級委員会は、PTAの「根幹」であり、「必要欠くべからざる要素」であると述べられている(一章-2)。学級PTAを不可欠的なものとして提示するなら、学級保護者会では得られないものを明確に示してほしい気がする。
川端さんのこれまで書かれてきたものや、ネットでの様々な人の体験談や意見を見てきた限り、私には、学級保護者会では得られない、「クラスを中心とした集まり」などというものの必要性は見つからないのである。

両者の違いにこだわる必要はないという考えもあるかもしれない。
しかしながら、両者には、実は、見過ごせない違いがあると思うのだ。
学校主催の保護者会なら、ひとりひとりの保護者はひとりひとりの保護者として扱われる。法令で決められているような給食費の支払い等を除けば、何か要請があるときは、いちいちひとりひとりの保護者に問い合わせや要請があり、イエス・ノーの選択の自由が保護者には保障されている。(たとえば、運動会のお手伝いボランティアの募集など。)
他の保護者から何かの仕事を強要されるなどということも、もちろんありえない。

ところが、保護者主導の集まりができるとどうなるかは、PTA問題に悩まれた方ならお分かりですね。
そう。保護者ということで、「みんなで決めたこと」には有無を言わさず付き合わされることになるのである。ベルマーク運動にしろ、運動会の不法駐車の監視にしろなんにしろ、“民主的な話し合い”のもと決まったことは、たとえ自分として不必要だと思われることでも参加せざるを得なくなるのである。
また、学校や行政からも仕事をとても押し付けられやすくなるのは、柳下さんのブログでのエピソードの通りである(「なぜ断われないのか」http://ameblo.jp/wasabiabo/entry-10248679954.html)。

学校主催の保護者会ではその個を尊重されるひとりひとりの保護者が、皮肉にも 保護者主導の集団 では有無を言わせてもらえず十把一絡げの扱いを受けることになってしまうのだ!(これ、なんか逆説的だけれど、そうですよね(?))
※つまり、里山さんの言う「おもち」状態(http://tanuko418.exblog.jp/i2/)。

ここに見たような「わたくし」に対する不当なる制限は、いじめ学者の内藤朝雄氏の言う「中間集団全体主義」ではないだろうか。
公立学校のクラスのような、思想信条も生活条件も千差万別な人々の集まりにおいて、「閉じられた空間」をつくると、そういう息苦しいことになるのだと思う。
それは、内藤氏が指摘する「べたべたした関係を強要される学級」に通底してはいないだろうか。


まとめ
保護者と教員、保護者同士の一定の連携・親睦が大切なのは確かであるが、それは学校(担任)主催の保護者会で十分に実現できることである。
学校主催の保護者会を充実させることで全ての保護者とって不可欠なもの(=ミニマム)は確保した上で、PTAは、「更なる活動」を志す、額面どおりの有志による「社会教育関係団体」にすべきだと思う。
そして、有志がいない学校は、PTAを廃止ないし、休会すればいい。
PTAとは「学校とは別組織の一社会教育関連団体」なのだから、これは当たり前のことのはずである。
保護者による学校支援は? これは、川端さんも紹介し、賛成されているように、必要なことは学校から保護者に協力を要請すればいい(西東京市の学校ではそのやり方でうまく回っているとのことである。)。

やはり、思うのである。
総動員型のPTAは成仏し、真の有志によるPTAに生まれ変わるべきだと。
(ていうか、もともとPTAってそういうもののはずなんですよね…。)

ひとりひとりの保護者や教員にPTAへの入会・非入会の選択の自由を、建前ではなく実質として保障することが肝要だと思う。
そこを避けては、PTAをめぐるごたごた、「保護者を追い詰める負担の構図」は解消しないのではないだろうか。


なお、当該記事に対する川端さん自身のブログでの紹介は、http://ttchopper.blog.ocn.ne.jp/leviathan/2009/04/post_ad51.html。
学級PTAの重要性について説かれているのは、『PTA再活用論』の一章-2と、ブログ版では、「第5回 学級PTAの潜在力を思い出そう」http://minnanopta.seesaa.net/article/62614827.html。


「学級PTA」論への疑問 (その2 保護者の負担と軋轢は解消するのだろうか?)

>(承前)
もっとも、保護者の負担や軋轢が解消されるのなら、参加が不可避になろうと、現実的な解決策として「あり」なのではという考え方もあるだろう。しかしながら、「全員参加のPTA」という大枠を維持したままで、はたして保護者の負担が解消の方向に向うのだろうかという疑念は抑え難いのだ。

「そんなに大変なのにどうしてPTA活動に励むのか?」と聞かれて、「そこにPTAがあるからだ!」と答えた現役会長さんがいる。半分冗談なのかもしれないが、一面の真理をついていると思うのだ。
何かがあれば、その中で頑張ろう、自己実現しようという人は必ず出てくる。ましてや、PTAとは、子どもの笑顔にも触れられる魅力ある活動でもある。
その時、そのPTAが真の意味での有志による活動であれば、問題はない。
ところが、それが「総動員型」のものであると、事態は非常に悩ましいものになってくる。つまり、簡単に言ってしまえば、熱心な人にその他大勢が引っ張られることになるのである。「他ならぬ自分達の子どものための活動なのであり、かつ、みんなで参加するものなのだから、みんなで負担しよう!」というのは、ある意味、説得力のある理屈である(「平等の権利と義務」論)。

それに対して、「だからこそ、学級委員以外は、ボランティアだと言っているのだ。」という反論があるかもしれないが、学級委員以外の役職をボランティアにするということは、学級委員の「仕事」が、質・量ともに肥大化する可能性を孕むはずである。
学級委員しかいなくなったら、今度は学級委員が広報委員や教養委員や選出委員的な仕事を兼ねさせられることは大いに考えられる。

「日本教育新聞」の記事における川端氏の議論に出てこないのは、本部役員の選出だ。
本部役員はどうするのだろう?
氏は、『PTA再活用論』で、本部役員は場合により選ばなくてもいいと述べている(p.47)が、もし本部役員を置かない場合、学級委員は、結果として本部役員の役割もこなさなくてはならなくなるはずだ。他には、委員はいないのだから。
組織の大枠の設定、次期の委員の選出方法の決定や選出実務その他の「大役」が学級委員の肩にのしかかってくることになるだろう。

「いや、そんな大上段に構える必要はないのだ。」と氏は言うかもしれない。それに対しては、「なら、学級保護者会にそれぞれが積極的に参加するのではなぜいけないのですか?」と聞いてみたい。
私は、学校主催の(←ここ、大切)保護者会のお茶だし当番なら喜んで引き受けるが、どこまで仕事が拡大していくか見当のつかない「学級委員」にはなりたくない。


「学級PTA」論への疑問 (その1 学校(担任)主催の保護者会ではなぜいけないのか)

>「たぬ子の哲学ノート」(http://tanuko418.exblog.jp/10683493/)でも取り上げられている川端裕人さんの「学級PTA」をめぐる発言について考えてみたい。
川端さんのPTA論には共感するところ、教えられるところ多大であるが、すべてに共感できるわけではない。
今回は、その合点の行かないところを率直に述べてみたい。
現状のPTAが病めるものであることは、今や誰の目にも明らかになってきたと思う。
問題は、「では、こんなPTAをどうすればいいのか?」だ。
川端PTA論に対する率直な疑問の提示が問題解決の「足し」にわずかでもなればと思っている。

川端さんは、「日本教育新聞」(4/6)のインタビュー記事において、PTA問題に対する現実的な処方箋として次のような提案をしている。
*****
(「保護者を追い詰めて子どもにまでしわ寄せがいくような活動は、限界に来ています。」と、現状のPTAの危機的状況を指摘した上で)
もっとも今、声高に任意加入であることを徹底すべきと述べることが、問題解決への最短距離かどうかは分かりません。「PTAが崩壊してしまう」と怖がる人もPTAの中枢には多いのです。
 そこで、もう少し手を付けやすい第一歩として、提案があります。各学級、学年で活動する学年・学級委員会のようなものはしっかり維持し、他の委員会・専門部は、クラスごとに〇人と義務的に選ぶことをやめるのです。
 学級PTAは、保護者同士が学び合い、育つ場です。クラス単位の懇談会、懇親会は、保護者が多様性に触れる機会ですし、どんな話題が出るにしても何かを得て家庭に持ち帰ることでしょう。クラスの問題を共に解決しようとする中で保護者同士、また、教師との信頼関係を深めるPTAの本質的な部分を担っています。
 一方、多くのPTAには、広報紙を発行する委員会、講演会を開催する委員会などがあります。それぞれ重要な業務ですが、「やりたい人がいないなら今年はお休み」くらいの覚悟をすること。広報紙や講演会がなくても、子どもたちは不幸になりませんし、義務でなければ、逆に「じゃあ、わたしが」と言ってくれる人もいるものです。「ボランティア制度」として、委員会や専門部をボランティアに切り替えるPTAの事例もあります。義務としてではなく、自発意思での活動を増やすことが、保護者の成熟とPTAの問題の解決につながると期待します。
(以下、略)
*****

今回の記事での川端さんのロジックは、全員参加の部分は大きくは触らずに、PTA活動をだれにとっても必要なものに絞り込むことによってPTA問題を解決しようとするものとわたしは理解した。
理想を振りかざしても悩ましい現実は動かない。少しでも「PTAが保護者を追い詰める負担の構図」の解消を図りたい。このような氏の問題意識はわたしなりに理解し、共有もしているつもりなのだが、PTAの「本質的な部分を担う」ものとして、「学級PTA」を前面に押し出す点に関しては理解しがたいところがある。

そもそも、「学級PTA」とは、学校主催の保護者会とどこで線引きされるのだろうか?
学校主催の保護者会があれば、それで十分ではないか。それでは何が足りないというのだろう? そのような素朴な疑問を禁じえないのだ。

自身の体験に照らし、各学期の節目の学級保護者会は参加する必要性も、意義も強く感じられるものだった。先生がクラスの運営方針や子ども達の様子を話し、そのあと、先生の司会進行で、各保護者が簡単な自己紹介と家庭での子どもの様子を語る。保護者が家での子どもの様子を語るとき、先生から学校での様子を踏まえた適切な助言がなされたりもした。とても有意義かつ楽しいものだった。
子どもの担任の先生や同級生の親御さんと顔の見える関係になっておくことは、なにかトラブったときのためにも必要なことだ。

「学級PTA」を基本に据えることは必ずしも全員加入を意味しないと、川端さんは言うのかもしれない。しかし、わたしにはそのロジックはどうにも理解しがたいのだ。保護者と担任、保護者と保護者が話し合い、連携をする大切な場所を、「学級PTA」という形でPTAが押さえてしまったら、教師も保護者もPTAに参加しないという選択は事実上取れなくなってしまうではないか。

「いや、学級PTAと担任(学校)主導の学級保護者会とは違うのだ」と川端さんは言うかもしれないが、いったい両者はどこで線引きされると言うのだろうか? わたしには見当がつかないし、川端さんのこれまでの主張を読んでもはっきりしない。
というよりも、川端さんが「学級PTA」でやるべきこととしてあげていること(保護者と担任の話し合い、連携)は、本来「学級保護者会」でなされるべきことではないのか。
注:「学級PTA」についての氏による定義的な説明を紹介しておく。
*****
クラス単位で保護者と教師が話し合い、クラスの問題、家庭教育上の問題など、意見を出し合えるような場があれば、クラスは「強く」なる。
話し合いを通じて互いに理解し、信頼し合う大人たちの存在が、子どもたちに良い影響を与えないはずがない。(「PTA進化論⑤」)
*****

実は、氏は、その著書や雑誌連載の中で、「学級保護者会」と「学級PTA」はしっかり線引きすべきだとも言うのだが(『PTA再活用論』一章-2「基本は学級PTA」)、では、両者の活動はどこで線引きされるのかははっきりと述べられていない。わたしの認識不足かもしれないが、氏自身の中でも、両者の区別は明瞭につけられていないのではないだろうか。

「学級保護者会」と「学級PTA」(「保護者会」と「PTA」)の線引きのあいまいさこそ、PTA問題の「諸悪の根源」ではないかと、私は思っている。
「保護者会」との線引きの曖昧なままでの「学級PTA」の充実は、この問題の構造をより強固なものにしてしまいかねないと危惧されるのである。


川端さんは、一方で、常々PTAの任意性を強く主張されている。そして、その一方で「学級PTA」の充実を説く。現実は一筋縄ではいかないものだとしても、これは、非常に分かりにくい議論だと思う。
川端さんのロジックでは、「任意」と言っても、真の任意ではなく、「変わり者は深追いしない」という限りでの、いわば「似非任意」になってしまうのではないだろうか。
そう。現状のPTAと同様に。
(現状のPTAとて、明確な意思表示をすれば入会しないことも退会することもできるはずだから、任意と言えば任意だ。)

全員参加型のPTAがある限り、「余計」な仕事はなくならない

>余計な仕事が無くなれば、PTAも活性化されると信じます。
http://batayan531.exblog.jp/10249630/
ばたやんさんのブログでのご本人によるコメント(5/16)である。

このような考え方は、特殊なものではなく、PTAを何とかしようとしている人の多くが共通して持つ考えと言ってもいいような気がする。
気持ちは分る。しかし、「余計」な仕事はなくせるものなのだろうか?

柳下さんのブログで取り上げられているベルマークをめぐる一連のやりとりを見ていても、
(http://search.ameba.jp/search.html?q=%E3%83%99%E3%83%AB%E3%83%9E%E3%83%BC%E3%82%AF&aid=wasabiabo)
なにが必要なもので、なにが余計なものかは人により答えは分かれ、しかもそれぞれの答えにはそれなりの合理性があり、簡単に答えなど出せるものではないことをしみじみと感じた。

いろいろな考え方や生活条件をもった保護者がたまたま子どもが同じクラス、同じ学校に通うというだけで一つの集団に所属させられたとして、ある活動・行事等の「必要・不必要」の判断が一致するはずもないではないか。
それを無理に一致させようとするところにそもそもの無理があると思うのだ。
現に、今のPTAの混乱はそのことを実証していると言えるだろう。

ある企画を必要だと思う人が集まり活動する。そのような真の意味でのボランティア活動にしない限り、「余計」な仕事は絶対になくならないと思う。
「いやそんなことはない」と言う人は、ならば余計な仕事がなくなる筋道をぜひ示してほしいと思う。
私は説得力のあるその手の議論にはお目にかかれていない気がする。(見落としていたり、理解し損ねている可能性もあるが…。)

現在のような全員参加を大前提にしたシステムをとる限り、「余計」な仕事は不可避的になくならない。
例えば、ばたやんさんにとっての余計な仕事がなくなったとして、別の人にとっては余計な仕事だらけということが十分にありうる。
これは、構造の問題であって、人々の努力や成長や話し合いによって解決するものではないと思うのだ。

だからこそ言う。
全員参加型のPTAよ、早く成仏しておくれ!

一社会教育団体がなぜ保護者を「総動員」できるのか? ∞連帯は「法と人権」を守ってこそ∞

当方の問いかけに答えていただいたoyajiさんの記事(090324「PTAの強制加入!?と役員ノルマ・・・私の関わりは・・・」http://blog.goo.ne.jp/pta-oyaji-blog/e/4b0da0eef0a947f44f4426f75582d57e)に対する率直な疑問、批判を述べてみたい。oyajiさんは教育委員会委員でもあり影響力も大きく、またoyajiさんの関わるPTAには、全国の多くのPTAに共通する問題点があるように思うから。

oyajiさんの関わるPTAでは、入学式のあと「PTAの入会式」を行うとのこと。
***
入会の場面です。・・・今日から皆さん・・・PTA会員なんですよという説明はしますが
***
そして、PTA加入率は100パーセント。そこに、PTA入会に関するインフォームドコンセント(十分な説明と納得の上での同意)は成立していない(この理解でいいですよね? 私は、その方式を導入した時の校長の「大丈夫ですか?」との反応は極めてまっとうだと思う。)

oyajiさんは、次のように言う。
***
この(通学路の危険地点での)旗振り活動がわが校ではPTA活動の一環だった・・・なのでPTAには全員加入
その大原則が必要不可欠だったのかなって思います。

それと、私たちの地区は池田小の事件以来、毎日、日に2回安全パトロールを実施中です。
(中略)
こういった部分が、全員が一度は役員で関わりましょうという意思の原点なのかなって
***

「PTAは防犯と交通安全という欠かせない活動を行う団体だから、全員参加は当然」というロジックのようだ。
しかし、待ってもらいたい。
問題の第一は、防犯も交通安全も確かに大切なことだが、具体的に何をすればいいか? その程度は? ということになると保護者の間にもいろいろな考えがあるはずだ、という点だ。
(「PTAが防犯活動に取り組むことに対する問題提起としては、社会学者の芹沢一也氏との議論を踏まえたカワバタさんの考察がある。
川端裕人『PTA再活用論 悩ましき現実を超えて』「コラム3 防犯PTAはこのままでいいの?」(中公新書ラクレ)。
なお、ブログ版は、http://minnanopta.seesaa.net/article/71134194.html
ブログ版より、芹沢氏の発言を引用しておく。
「戦後というスパンで見ても、子どもの命が見知らぬ人に奪われる可能性は、おそらく、今が一番低い状況です。」
「先進国でも一、二を争う安全な国ですし、時間軸で見ても今は安全な時代です。どの角度からも安全な状況(以下略)」)

そして、問題の第二は、そのようにして保護者を「総動員」しておいて、役職が決まらないときはくじ等により決めると言う。これは事情のある保護者には多大な負担になるし、またたとえ免除されるとしてもプライバシーの開示は不可避のはずだ。
健康上の問題や深刻な家庭事情等をどうして「赤の他人」に言わせられなくてはならないのだろうか。そんなことを言わせる権利がなぜPTAにはあるのか(怒)!

***
なぜ?全員にノルマ的に課していたのか?・・・
一つの理由に・・会則の中の会員資格に会員はすべて平等な権利と義務を有する・・かな?
***
「平等な権利と義務を有する」と会則にあるといっても、その「権利と義務」が具体的に何を意味するのかは人により解釈の分かれるところ。
百歩譲ってそのような解釈を前提にPTAを運営するのならば、入会してもらうに際して、その自らの解釈を新入生の保護者にきちんと示し、その解釈に賛同してくれた人に入ってもらうべきだと思う。
上の引用部分に続けて次のようにも言われているが、意味不明である。
***
ただそういう論理ではなく・・・子どもが通う学校のPTAだから全員参加という意識!?
***

oyajiさん流のPTA運営(多くのPTAの流儀といえる)は、自己選択権(思想・信条の自由)とプライバシー権を蔑ろにしていると言わざるを得ないのだ。

子どもの安全が大切であることに異論のある保護者はいないだろう。しかし、ではその安全確保のために何をすればいいのかは、保護者により見解が分かれるところだろう。
それを「勝手」に決めてしまい、その実行のために保護者を「総動員」する権利が、なぜ一社会教育団体にあるのだろうか?
ぜひその根拠をお答えいただきたいものだ。

「総会で承認されている」とお答えになるのかもしれないが(?)、「総会」の決定の影響下にあるのは「現」会員であって、新入生の保護者は対象外だ。
会員でもなんでもない、新入生の保護者の六年間の学校とのかかわりのかなりの部分を、「学校とは別団体の一社会教育団体」(←しつこい。でも、これは教育当局による位置づけ)が、なぜ決められるのか??
これは、明らかに越権だろう。そして、「法と人権」を蔑ろにする行為だ。


oyajiさんは、記事の末尾で次のように述べている。
***
でも大切なのは関わりであり・・・共有・・・
それにはまず参加?やってみなければ分からない的な部分も・・・・
今日の言葉・・・“考えてばかりいると日がくれちゃうよ”・・・なのかな・・・・
まずは関わりから・・・それが最初の一歩何でしょうかねぇ・・・
***

人と人との真のかかわり、真の連帯は、まずもって「法と人権」を尊重する中からこそ成立するものではないのか。

右も左も分らぬ新入生の保護者をいきなり「入会式」に巻き込み有無を言わせず会員にする(いわば拉致軟禁!)。そうしておいて「ぼくたちと仲良くしようね。いっしょにやっていこうね。」と言ったって、それで本当に相手は心を開いてくれるのだろうか。
そんなことをして成り立つ「つながり」は、本当の意味での連帯に発展しうるのだろうか。
大いに疑問である。

なお、わたしは、PTA活動そのものを否定しいるのではなく、その「総動員」的運営(「全員巻き込み方式」)を批判しているので、誤解のなきようお願いいたします。

妙な「趣味」の押し付けは勘弁してほしい

(某ブログを読んでの反応です(笑)。熱くなっていますが、ご容赦の程を。)

世の中には必要な「拘束」もある。
例えば、手術の時の拘束は、時に必要である。
それがなければ、命が危険に晒されるわけだから。
また、人を殺してはならない等の法的な拘束も、必要な拘束である。
法的な拘束があればこそ、我々は安心して社会生活を送ることができる。
しかし、そのような必要性がない限り、ふつう「拘束」されるのを嫌がるものだ。

ところが、中には必要もないのに「拘束」されたがる人がいる。本人がどのような「趣味」を持つのかは、ご本人の趣味の問題だからとやかく言うつもりはないが、その妙な価値観を他人に押し付けるのは、勘弁してほしい。

PTAの役職を受けるのは、子どもがクラスの中で係りを引き受けるのと同じように、一種の義務と考えるべきだと言う人がいる。
しかし、子ども達が教員の指導の下で、様々な係りをするのは、「学習指導要領」(法令に準ずるもの)に基づいた立派な「学習」(「特別活動」の中の「学級活動」)なのだ。それは、法的な裏打ち(「学校教育法」)の下、有資格者(先生)のコントロールによって行われている「義務教育」なのであり、つまり「必要な拘束」と言える。
そのようなものと、法的な裏付けの皆無のPTA活動とをいっしょくたにされては困るのだ。
PTAは、意義を感じた人が任意で参加する、一社会教育団体に過ぎない。
だからこそ、教育委員会は基本的にはPTAの振る舞いに責任を負わないのだ。
(もしも、PTA活動が義務教育に準ずるものだと言うなら、教育委員会にはしっかりと指導・監督の責任を負ってもらわなくてはならなくなる。その節は、個人情報の扱いや入会に際しての説明責任等、びしびし追及させてもらいますね(笑)。)

私は、不要な「拘束」などご免蒙る。
PTAへの参加は、あくまでも自由意志によりなされるべきである。
PTAを「義務教育」と同列に論じるなど、論理の飛躍もはなはだしいと言わざるをえない…。

なお、『学習指導要領』「特別活動」については、↓を参照。
http://www.mext.go.jp/b_menu/shuppan/sonota/990301b/990301k.htm

「事実上の強制」を認めた画期的な判決 その2(自治会裁判とPTA(4))

<逆転判決のポイント>
一審では認められなかった一部住民の主張がなぜ認められるようになったのか?
ここにも法技術的な難しい理屈はないように思う。
あるのは、極めてシンプルな価値判断の転換のように思われる。
それは、一言で言えば、
「『みんな』の論理」が制限され、個人の自由が尊重されるようになった
ということだ。

一審と二審の判断を分かつのは、要するに、思想信条の自由の侵害を認めるか否かであった。
一審では、「自治会の決定は思想信条の自由を侵害している」との原告の主張は「理由がない」として捨てられ、自治会の決定は「必要性と合理性がある」ものとして認められたのだった。
では、二審ではなぜ思想信条の自由の侵害が認定されたのか?
そこには、二つのポイントがあると思う。
一つは、「『みんな』のため」という錦の御旗の論理に一定の制限が加えられた点。
以下の判決文に注目されたい。
*****
募金及び寄付金に応じるか否か、どのような団体等又は使途について応じるかは、各人の属性、社会的・経済的状況等を踏まえた思想、信条に大きく左右されるものであり、仮にこれを受ける団体が公共的なものであっても、これに応じない会員がいることは当然考えられるから、会員の募金及び寄付金に対する態度、決定は十分に尊重されなければならない。(P.7~8)
*****
また、「班長や組長の集金の負担の解消」は、上乗せ徴収を正当化するものにはならないとも明言されている。(P.7)
一審では認められた「『みんな』の論理」が通らなくなっているわけである。

そして、もう一つのポイントは、「退会の自由の制限」が建前ではなく「事実のレベル」で認定された点だ。(前回紹介した「判決の論拠2」参照。)
「会の決定に不服なら退会すればいいだけ」という言い分に対しては、住民にとっての自治会の存在(「日常生活を送る上において欠かせない存在」)に配慮することで、退会の自由が実質的に制限されていることが認定されているのだ。
これが認定されたおかげで、「嫌なら退会すればいいだけ」という反論が通らなくなった。
そしてこの点が認められたおかげで、「事実上の強制」が認定され、逆転判決に至った。
一審では省みられなかった個人の自由が大幅に認められたわけである。


<PTA問題を考える上での判決の意義>
Ⅰ 「みんな」の論理の制限
この判決は、
①たとえ一定の公益性が認められたとしても、
②たとえ一定の必要性(役員の負担軽減)があったとしても、
③たとえみんなで話し合って総会等で決めたことであっても、
個人の意思決定の権利(思想信条の自由)を侵すことは許されないことを示したという意味で画期的なものだと思うのだ。

①学校のため・子どものため・地域のためなのだ
②選出役員等の大きな負担を軽減するためなのだ
③総会なり委員会でみんなで話し合って決まったことなのだ
これらの三つの言い分は、PTAでの役職の無理強いをいわば正当化する上で、たびたび使われているロジックと言っていいだろう。しかし、それらのロジックは、個人の自己決定権を侵すことを決して正当化できるものではないことが、今回の判決で明らかにされたといっていいだろう。

Ⅱ 人権の尊重
先に見たように、判決では、その地域の大部分の人が会員であることや、退会するとゴミだしや市の配布物の受け取りに不便が生じかねないこと等から、「退会の自由が事実上制限されている」と認定した。
考え方によれば、「ゴミは自分でゴミ処理場に持っていけばいいし、市の広報とて自分でとりに行けばいいだけ」という言い分が成り立つ。事実、このような主張は、自治会に入って当然と言う立場の人がよく言うことである。

以前現役のヒラ役員のとき、運営委員会で、役職の無理強いやそれに伴うプライバシーの開示強制を問題にしたところ、「無理強いと言っても網走に強制送還されるわけでもなし、プライバシーの開示強制と言うがみんなの前で素っ裸にされるわけでもない」という驚くべき反論が会長から帰ってきたことがある。(まあ口が滑ってしまったのだとは思うが、それにしても…。)
また、2ちゃんねるの違法スレで、役の無理強いは人権侵害だと主張したところ、「監禁したり、暴力に訴えて強制すれば違法であろうが、くじ等で押し付けるくらいでは違法とはならない」と、やけに法律に詳しい人から言われたこともある。確か、断わろうと思えば断われるのだから、「強制」にはならないという言い分だったと思う。

しかし、それを言うなら、今回の自治会のケースとて、自治会をやめればそれで意に染まぬ寄付をすることから逃れられるわけだ。ゴミだしの問題も、役所からの文書の配布も何とかしようとすれば何とかすることは可能である。命をとられるわけでも、体を傷つけられるわけでもない。しかし、裁判所は、住民の快適に暮らす権利に十分な配慮を示したのだ。

判断の水準が、「素っ裸にされるわけでも体を傷つけられるわけでも,ましてや命をとられるわけでもないのだから」といった水準ではなく、人間らしく安心して暮らせる事に十分に配慮したものであることがすばらしいと思う。

(おわり)