四国霊場第八十六番札所の志度寺の伝説・歴史について(過去のブログ記事より) | 石川鏡介の旅ブログ

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 四国霊場第八十六番札所の志度寺は、開基が藤原不比等ということになっていますが、もっと古いようで、宮崎忍勝・原田是宏著『四国八十八所遍路 愛媛・香川編』(朱鷺書房)やNPO四国路おへんろ倶楽部発行「讃岐二十三ヵ寺 高野山参り」などを見ますと、推古天皇の三十三年に、この地に住んでいた凡園子(おうしのそのこ)という者が近くの浦に漂着した檜の霊木を引き上げ、観世音菩薩像を刻みたいと念じたところ、閻魔大王の化身である仏師が現れ、志度寺の本尊となる十一面観世音菩薩像を刻み姿を消したという。そのことによってお堂を建て、安置したのが始まりだということです。

 この伝説がどこまで真実(史実)に近いかどうかは分かりませんが、昔から瀬戸内海が大陸からの文化交流にとって極めて重要な航路だったことを考えると、仏教について信仰心の篤い人や優れた仏師がたくさんいたとしてもおかしくありません。

 では、なぜ、藤原不比等が志度寺の開基となったのか。それにはこのような伝説があります。藤原不比等の妹はたいへんな美女で、唐の高宗皇帝の寵妃になったが、或る時、父の鎌足の菩提の為にと、珍しい宝珠を日本へ送った。その宝珠を積んだ船が志度の浦近くまで来た時に嵐に遭い、龍神に宝珠を奪われた。唐皇帝の寵姫の兄でもある不比等は残念がり、宝珠を探しに志度の浦へ来た。不比等は一人の海女と出逢い、恋におち、結ばれた。不比等の妻となった海女は、不比等との間に房前という男子を授かった。不比等は房前を藤原家の跡継ぎにしてもよいと海女に言った。この房前こそが藤原北家の祖となる藤原房前であるという。

 海女は夫の為、息子の為にと、海に潜って宝珠を探し、見つけた。だが、竜神の怒りに触れ、命を落とした。不比等は海女の為に墓を建て、そこを志度道場と呼んだ。後に藤原房前は行基菩薩とともにこの地を訪れ、母の菩提を弔い、堂宇を建設したという。

 その後、藤原氏にゆかりのある寺として栄えた。保元の乱の後に流された崇徳院もしばらく志度寺に滞在したという。また、壇ノ浦の合戦で滅亡した平氏の落人が身を隠したという伝説もあるようです。

 鎌倉時代、南北朝時代、室町時代、戦国時代を経て、天正年間には土佐の長宗我部氏の兵に攻められ、江戸時代に高松藩初代藩主松平頼重(まつだいらよりしげ)により復興されたということです。

 

 

(2013年12月 7日の「石川鏡介のブログ」の記事を再編集)

 


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