四国霊場第三十番札所・善楽寺(過去のブログ記事より) | 石川鏡介の旅ブログ

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四国霊場会公認先達(権中先達)&秩父観音札所連合会公認先達です。四国霊場を中心に、古寺名刹、神社、城跡、名所旧跡。さまざまな旅の思い出を綴ります。

 

 

 四国八十八ヶ所の第三十番札所は善楽寺(ぜんらくじ)です。正式には百々山(どどざん)東明院(とうみょういん)善楽寺といいます。宗派は真言宗豊山派で、本尊は阿弥陀如来、開基は弘法大師、所在地は高知県高知市一宮ニ五〇一番地です。

 歴史的には、土佐の国の一宮の別当寺として建てられました。その別当寺が善楽寺です。

 昔は神仏習合思想で、大きな神社の境内にお寺が建っていました。大きな神社に付属して建てられた寺を「神宮寺」といいますが、土佐の一宮の場合も神宮寺がありました。

 五来重氏の『四国遍路の寺』下巻(角川ソフィア文庫)に土佐一宮の神のことが詳しく書かれていますが、それによると、土佐一宮の神は高鴨大明神といって、もともとは近畿の葛城の神だったが土佐に流されてきたそうです。高鴨大明神の本地仏が阿弥陀如来だとされたため、神宮寺の本尊が阿弥陀如来となったそうです。

 明治以前の遍路は阿波に行けば阿波の一宮にお参りし、土佐に行けば土佐の一宮にお参りしました。そういう記録や証拠はたくさん残っているようです。

 しかし、明治になり、神仏分離令で廃仏毀釈の運動が起こり、土佐一宮の神宮寺は廃寺になってしまいました。札所の本尊は高知市内の安楽寺というお寺に移され、大師像は国分寺に移されたそうです。

 霊場として古くから日本人が大切にしてきた札所が札所でなくなり、本尊や大師像、寺宝などがバラバラになるのですから、廃仏毀釈がいかに馬鹿げた運動だったか、どいうことが分かります。

 昭和四年に「三十番札所善楽寺」が復興され、大師像や寺宝が戻りました。それまでは遍路が行く先に困り、阿弥陀如来の像が移された安楽寺へ行ってお参りしていたのです。

 これですべて解決したかに見えたはずですが、三十番札所の名と大師像は善楽寺、本尊は安楽寺、という並立状態が続いてしまいました。

 昭和十七年、合併して丸く収めるという約束ができ、四月十七日に覚書がつくられたそうです。それによると、三年以内に合併し、以降は安楽寺が善楽寺の奥ノ院となるはずでした。ところが、昭和十七年の三年後といえば終戦の年ですから、日本中が混乱した状況で、結局、うやむやなまま年月が経過してしまいました。

 こうして、遍路が善楽寺と安楽寺両方を三十番札所としてお参りすることが長く続きました。

 完全にこの問題が解決したのは平成五年十月一日だそうです。かつての約束通り、善楽寺が三十番札所で安楽寺が三十番の奥ノ院ということで決着したのです。

 このような経緯があるので、三十番札所の善楽寺は一宮神社の東隣りにあり、境内は神社の方が大きく、建物は神社の社殿が古くてお寺の方が新しいのです。



 

 

 

 

(2013年1月21日の「石川鏡介のブログ」の記事を再編集)

 

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