華厳経入門を読んで | マルフジノート

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SALVE!(ようこそ)

  先日書いた「量子もつれ」の番組や「量子の新時代」、はたまたニュートン「量子力学100年」を観たり読んで、やっぱり頭に虫が湧いてきた。これって華厳経の世界観では?・・・(こいつまた変な事言ううとるな~ぐらいで優しい目で眺めてくださ~い(笑)!)

 

 

しかもタイムリーにも昨年末「華厳経入門」(木村清孝著/角川ソフィア文庫)なる本を買っていたので今回ひっぱり出して読んでみた。(こういうきっかけが無いと難しいから読まない・・・)

 

 

例えばニュートン「量子力学100年」のサブタイトルが「すべては粒であり波だった」と言う文言、これを自分なりにに解釈すると「すべては1つ(粒)であり多(波)だった」となるのでは?

 

 

著者が華厳経の特徴として、あげている一つが『「一」と「多」の一致思想』である。

 

華厳経第十三章「発心の功徳の章」にこんな文がある。

 

・・・・微小な世界が広大な世界であり、広大な世界が微小な世界であることを知ろうとし、・・・1つの世界が無数の世界であり無数の世界が1つの世界であり、無数の世界が1つの世界に入り、1つの世界が無数の世界に入り、・・・・・・無量の劫(カルパ)が一瞬間であり、一瞬間が無量の劫、・・・ことごとく過去、未来、および現在の一切の世界の劫数の増大と減少の様相・・・」(華厳経入門 P 19)

 

この本で初めて劫(劫波/kalpa/カルパ/宇宙的なスケールで進む「極めて長い時間」の意味)って言葉を知ったけど、これも時間の言葉に「波」という字が使われているのも量子の波と類似しているように思えてきた。

 

著者の木村清孝氏が上記の考え方についての解説がわかりやすいので下記に記す。

 

「華厳経」においては、具体的な事物や事象に関しても、時間に関しても、個々のものを決して孤立した実体的な存在とは捉えず、あらゆる存在が他のすべて、ないし全体と限りなくかかわりあい、通じあい、はたらきあい、含みあっているとされています。(華厳経入門 P 20) 

 

しかし『「一」と「多」の一致思想』は華厳経にかぎった思想ではなくもっと古いインド思想に起源はあると書かれており少し梯子を外された気持ちになる・・・(泣)

 

 だが心配無用である!ここで登場するのが華厳経の特徴のもう一つで「存在するものは、すべて心の表れである」という思想!

「他のすべての人々、あらゆる事物、事象も仏たちさえも、私たち一人ひとりが描き出す画像にほかならない」この思想を一般的に「唯識思想」というらしい。

 

前回読んだ「量子の新時代」で、

「物事は私が見ていようがいまいが、ずっと続いている」という考え方でなく量子の世界では、

「物事は私が見る度に1つの状態として現れる。私にとって物事は見る瞬間ごとに飛び飛びに現れると言う考え方も、それなら「唯識思想」と言うことになる。

 

 

この量子や華厳経の考え方は良いかも知れない!

だって私が死のうが死なまいが世間が進んでいくのなら少し寂しい。

「存在するものは、すべて心の表れである」こう言う考え方があるのがわかっただけでも華厳経に少し興味が湧いた。

 

 また7世紀後半の新羅の僧、義相華厳一乗法界図も非常に魅力的なダイヤグラムである。

この図どっかで見たことあるっなって思ったら昨年亡くなった松岡正剛氏もこの図に興味を持っていた事を思い出した。

 

 

(出典:華厳経入門より、七言ごとわかりやすく色つけてみた!)

 

 

七言で一句をなすらしく中央の「法」から始まり「仏」で終わる詩で独特の図だけでも印象的である。

しかし中身の詩の意味がわからな~い(泣)この意味まで教えて欲しかった~!