安土城は誰が落城させたか? | マルフジノート

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SALVE!(ようこそ)

 滋賀県の甲賀の役所に書類を持って打合せにいくがあっさりと終わっていまう。

せっかく滋賀まで来たのでどこか遠足に行こうと考えて、安土城が意外に近いのにきがついた。

 

 安土桃山時代安土に行ったことがない、というか桃山(伏見城)も行ってないけど・・・

これは行ってみようと思ったのが間違いだった。

 

(ブラック侍 弥助)

 超炎天下の真っ昼間に安土城に到着、駐車場の前の売店で「ブラック侍、弥助」の文字がそういえば最近フランスのゲームでブラック侍がどうちゃらこうちゃらと騒がれていたことを思い出した。

 

(滋賀県名物とび太君も侍バージョン)

 

 入場料払う小屋の前で「天守閣跡まで片道30分往復60分かかります」と書いてある。

何でかいてあるかといううと上登るのしんどいのを覚悟させるためだと思う。チケット買ってチケットの人に「ほんまに上まで30分そんなかかるんですか?」と聞いたら「早い人で往復45分くらいですかね~」と言われてしんどいことを覚悟する。

 

 

チケット買って眼前の大手道を見上げるとえげつない階段に上がる前から頭がくら〜っとしてしまう。

 

(日陰のない大手道)

 

とにかく登ってみる。右手に前田利家邸跡、左手に羽柴秀吉邸跡また右手に徳川家康邸跡と書いてあるが階段がキツくて戦国の余韻に浸る余裕はない(笑)!

 

この大手道のストレート一切日陰がない・・・やっと大手道のストレートを上り切ってジグザグになるところで木立があり日陰になる。

 

(敷石に使われた石仏多数あり)

 

この辺りに階段の段や敷石に石仏が敷かれているところを散見する。

なんでも近くの町屋村からかき集められて石段(敷石)としてかき集められたらしいが、

普通仏さんを足踏むところに敷く??普通はバチ当たるから敷かないと思った。

流石比叡山を焼き払う信長らしい仏もただの石(物)扱いに納得する。

因みに仏足石もあった、今は目立つ場所に置かれているけどこちらも石段がわりだったらしい。

 

(仏足、私は短足)

 

汗びっしょりでやっと本丸のとこから天守閣跡まで到着する。

ハッキリ言ってこれ低登山やん!

安土城跡でなく安土山と書いてもらわないと騙された感がある(笑

 

(本丸跡)

(天守閣跡の礎石)

 

しかしここで思ったけど麓から天守閣下まで30分かかって登ってきたけど天守閣はまだここから33mもあったらしい。こんなん足腰良い人間しか住めないと思う。織田家臣の人たちもこれは辛いと思う。それとも馬で上がれるのだろうか?しかもこんな山の上で水はどう調達したのやろう?(山登る都度に観察してたけど湧水らしきもの無し、井戸跡も見かけなかった)

 

(三重塔前は見晴らしが良い)

 

 安土城は1579(天正7年)5月創建であるが僅か3年後の本能寺の変1582(天正10年)の13日後の6月15日に天守など焼失して落城した。その原因は織田信雄が誤って焼き払った明智軍が放火した説などあるが私が新説を意見する。

それは毎日この山に登りたくない織田家臣が焼き払った説(笑)

この説が最有力であると思う。

 

(三重塔、重要文化財、室町時代)

(二王門、重要文化財、室町時代)

(金剛力士像、重要文化財、室町時代)

金剛力士って今のマッチョブームの先駆けか?

あ~しんどかった!真夏に行くところじゃなかった。

(温泉の後はガリガリ君梨味やっと食べれた。)

汗かいたので温泉によって整って家路に着く。