日々のさまよい

昔や今のさまよいなどなど。


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神魂神社神域の入口となる二の鳥居。

このすぐ手前に駐車場があったため、何も考えずここから入ってしまいましたけれど、実は右手に続く参道のずっと先に一の鳥居があることを、帰る際に気付きました(泣)




文字通り、神妙な佇まい。

この石段を上がると、平らになった参道をそのまま真っ直ぐ進めば女坂、右に折れれば、急な石段を上がる男坂となります。




杉の切り株に、新しい杉が生えています。
200年後には、その立派なお姿を見上げることができるのでしょう。




男坂の石段の上に、拝殿が太陽を背にして待ち受けています。




拝殿と、その奥が本殿。

この本殿は、主祭神が女性ということで千木が内削ぎ、内部の構造も出雲大社と左右逆の造りになっているとのことです。


神魂神社神社について、はじめに/歴史的混沌-祭神の多重性~初夏出雲行(2)から再録します。
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神魂神社
Wikipedia/神魂神社

主祭神:伊弉冊大神(いざなみのおおかみ)

こちらは、そもそもの主祭神が不明とされています。
現在は伊弉冊大神(イザナミ)を主祭神とし、伊弉諾大神(イザナギ)を配祀するとしているが、これは中世末期ごろからのもので、それ以前の祭神は不明である

神魂神社は大庭大宮(おおばのおおみや)とも呼ばれ、かつてこの地に居住した出雲国造の私的な祭場、あるいは私邸内の社だったと考えられているそうです。
そのため、「出雲穀風土記」や「延喜式」にもその名はないとのこと。

ただし、出雲国造の祖神とされるアメノホヒ(天穂日命)がこの地へ降臨し、大庭大宮を創建したと伝えられるそうですから、主祭神はアメノホヒでいいんじゃないかと思いますけれど、不明っていうことは、どうしてなんでしょう?
少なくとも出雲国造にとって、ここは熊野大社に次いで重要な社である筈なんですが…
Wikipedia/アメノホヒ

ちなみに、造化三神の一柱であるカミムスビは、『出雲国風土記』では神魂命と表記されています。
同じ神魂という漢字ですが、全く関係ないのでしょうか?
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神魂神社案内板。

神魂神社案内

御祭神伊弉冊大神
・・・・伊弉諾大神

祈念祭四月十八日
十月十八日
新嘗祭十二月十三日

当社は出雲国造の大祖天穂日命がこの地に天降られ出雲の守護神として創建、以来天穂日命の子孫が出雲国造として二十五代まで奉仕され、大社移住後も「神火相続式」「古伝新嘗祭」奉仕のため参向されている。
本殿は室町時代初期、正平元年(一三四六年)建立の大社造で、その大きさは三間四方高さ四丈あり出雲大社本殿とは規模を異にするが、床が高く、木太く、特に宇豆柱が壁から著しく張り出していることは大社造の古式に則っているとされ、最古の大社造として昭和二十七年三月国宝に指定されている。
本殿内は狩野山楽土佐光起の筆と伝えられる壁画九面にて囲まれ、天井は九つの瑞雲が五色に彩られている。

ここで御祭神はイザナミとイザナギが並記されていますけれど、Wikipedia/神魂神社では上記の通り「伊弉諾大神(イザナギ)を配祀」とのことで、東出雲まちの駅女寅/出雲國意宇六社めぐりでは、合祀とされています。


また、この案内板で不思議なのは、出雲国造が赤字のルビで「いずものくにのみやつこ」とされていることです。
本来、国造を「こくそう」と読むのが古くより出雲独自の慣わしであり、出雲国造の私的な邸内社であったこの神魂神社において「くにのみやつこ」と読まれることは、ちょっとあり得ないことかと思われます。

もちろん千家尊統『出雲大社』でも、このように書かれていますから…
国造は「クニノミヤツコ」とよまれるのが一般であるが、いつごろからか音よみして「コクゾウ」となり、出雲ではこれを静音でコクソウと昔から読みならわしてきている。中世の文書記録にはしばしば「国曹」と書かれていることもめずらしくない。




本殿。
太陽の逆光が眩しく照らす15:00ごろ。




そして、よく見えるように撮りました。
内部は、出雲大社との比較で、このようなことだそうですが、



大社造の御神座の配置(神魂神社由緒書より)
『digital ひえたろう』 編集長の日記★雑記★備忘録/出雲その1】出雲大社と美保神社


いずれにせよ何故か階段は、どちらも正面に向かって右側です。

そのため左右逆とはいいながら、男造りの出雲大社では入ってから左折1回右折2回でようやく神座前に辿り着けますが、女造りの神魂神社では入ると左に1回曲がるだけで神座前に到着します。

また、女造りだと入ってすぐ左の部屋を通りませんから、そこに何かあるのでしょうか?
単に空き部屋だとしたら、とても無駄な気がしますし。

どうせ左右逆にするのなら、どうして階段も左右逆につけないのか、不明です。




さらに本殿。
バランス的には、かなり足長のイメージです。




本殿の向かって右側に横一列で並ぶ境内社。
本殿の方から手前に向かって、

杵築社[神素嗚嗚尊(かむすさのおのみこと)・葦原醜男命(あしはらしこおのみこと]
伊勢社[天照大神(あまてらすおおみかみ・月夜見神(つくよみのかみ)]
熊野社[速玉男命(はやたまおのみこと)・事解男命(こさかのおのみこと)・菊理姫命(くくりひめのみこと)]

そして右手後ろには、アメノホヒがアマテラスの神勅によって、オオクニヌシに国譲りを促すため高天原からこの大庭釜ヶ谷へ天降った際に乗っていた神釜を祀る御釜宮があります。
写真は撮っていませんけれど(泣)




本殿の向かって左側。

こちらにも、境内社が横一列に並びます。
本殿に近いものから、下記の通り。

貴布禰稲荷両神社[闇靇神(くらおかみ)/倉稲魂神(うかのみたまのかみ)]
外山社[鸕鷀草葺不合尊(うかやふきあえずのみこと)ほか1神]
大きな神籬(ひもろぎ)[※一般には説明がありません]
荒神社[奥津彦命(おきつひこのみこと)ほか2神]
蛭子社[蛭児命(ひるこのみこと)]
武勇社[経津主神(ふつぬしのかみ)ほか2神]


これら境内社の並びは、本殿を中心に左右へほぼ一直線で、横一列になっています。
また、各境内社のご祭神名は、こちらに紹介されていました。


ここで何より気になるのが、謎の大きな神籬です。
その上、その後ろには、何やら曰くありげな洞穴さえもが口を開けています。

ハッキリ申し上げますと、その神籬があまりにも恐ろしげで、本殿以外の写真を撮る気になりませんでした(苦笑)

そこで、↓こちらをご参照ください。



中々の迫力です。
説明書きも何もないので、何を祀っているのかが皆目分かりません。

また、一般的に神籬とは、祭事が終われば撤去されるという理解でしたけれど、こちらではどうも、ずっとこのままのようですし。

神籬(ひもろぎ)とは、神道において神社や神棚以外の場所において祭を行う場合、臨時に神を迎えるための依り代となるもの。


そこで、この大きな神籬を始めて目にした際、ギョッとせずにはおられませんでした。
背後の洞穴にも、何か異様な雰囲気が感じられます。

しかし、それでも何とか勇気を振り絞って神籬へ近づいてみますと、立木をそのまま利用したような独得の鳥居の柱へ、竹の一輪挿しみたいなものが据え付けられています。
そして、その一輪挿しには竹の棒が差し入れられており、上に木板がぶら下げられ、注意書きがありました。


GoogleMap/神魂神社/叶伊緒須



おぼろげな記憶を辿って思い出せば、その注意書きは、このようなことです。
「○○家の方以外は、触らないでください」

それを見て、とっさに思ったことは、これは○○家専用の神籬であり、神魂神社では何らかの縁故ある○○家のため、この神籬で祈祷をしているのであろう、ということです。
そして、もしそうならば、境内に建つ他の社殿とは別個に独立し設けられた神籬ですから、おそらくそこで祭られる神とは、○○家の祖先神に違いない、ということです。

となれば、背後にある洞穴も、地霊となった祖先を呼び寄せるためのものかも知れません。


…怖くなりました(苦笑)
ここは神社というよりも、もしかしたら特別な祈祷師の祭場ではないか、と思わずにはいられません。



他にも、この神魂神社では、何だか違和感を感じることが沢山あります。

もともと出雲国造の私的な邸内社であったということですし、社殿全てが横一列に整然と同方向を向いて並ぶ姿も、一般的な神社とは趣が異なります。

また、参道の男坂、石段を上がりきると目の前に拝殿が建ちますが、その石段と拝殿の間がとても狭いことも不可解です。
おそらく、石段の最上段と拝殿の敷石との距離は、3mもないのではないでしょうか。



これでは、多くの人が拝殿前に参集することはできません。
おそらく、かつての拝殿は今よりずっと小さかったのだろうとは思いますけれど。

さらに、社殿の背後に山がありますが、すぐ上でリンクしたGoogleMapで写真を回転させご参照頂ければ分かる通り、本殿は元々の地形を生かした平地に建っているのではなく、明らかに山を切り崩して建設地を造成しているように思えます。
斜面には雑草ばかりで、木も全く生えていません。

一般の神社では、おおよそ出来る限り自然の地形を生かし、社殿群は奥行きや上下のある複合的・立体的な配置になるかと思いますけれど、この神魂神社では、社殿の横一列という配置、拝殿前スペースの極端な狭さ、山を切り崩しての造成など、人工的な特徴が顕著なように思われます。

そして、その人工的な特徴とは、とても似たものに置き換えてみますと、まさに屋内における神棚のような造り、ということではないでしょうか?
私的な邸内社であったということから、このような設計になったのかも知れません。

また、そこから考えると、私的な祈祷を司るために、特別な神籬が常設されていることも、あり得ることかと思えます…



…と、つい最近までそう考えていました。


しかし、大きな神籬の真相が分からないままでは、そのように結論づけるにはどうにも腑に落ちません。
そこで、それを調べるためネットをウロウロしていたのですが、実は先日、その真相がようやく分かりました~。(^◇^;)

ご存知だった方々には、あまりにも当たり前のことで何を今さらでしょうけれど、何故だかあまり知られていません。
神魂神社の案内書にもありませんから、どうしても神秘的な憶測が先行してしまうようでした。

けれどもそれは、神籬の鳥居にぶら下がった木板の注意書きによって解決しました。


それがこれ↓です。




「祷家氏子の方以外 さわらないで下さい」



これを現地で見た私は、「祷さん家専用の神籬」と思ったということです。orz


けれどもようやく、祷さんのことをどのような氏族の方か知ろうとネットで検索してみましたら、何と「祷家神事(とうやしんじ)」というものがあることを知りました~~(苦々笑)


祷 家 神 事(とうやしんじ)
~神代から伝わる豊作の祈り~

■伝承
天照大神の御誕生をお喜びになって、御七夜の日に当たる1月4日に御祭神の伊弉冉(いざなみ)・伊弉諾(いざなぎ)の両大神は御産婆神様や204人の御客の神々様を御招待になって御七夜の祝宴をなさったという故事にちなむ。

■祷家(とうや)
選ばれた祷人は、1年間精進潔斎の下、庭に柴(榊の神木に御弊を付け、藁の蛇体を巻き付けたもの)に神様を迎えて、地域ぐるみで特別の田で米を作る。(現在は、神社の境内に神籬を建てお祀りしている)

■神魂(かもす)神社
現在の御本殿は1346年に造られたといわれ、大社造りの日本最古の建物として昭和27年国宝に指定されている。
本殿左側の貴布祢(きふね)稲荷両神杜は国の重要文化財指定。

1月上旬 トウ(祷・当・頭)渡し
・・・・1月吉日 柴建(しばたて)式
・・・・5月中旬 御田打、種蒔き、田植寄り、御田植神事(時期不定)
・・・・9月下旬 正神(しょうじん)小屋の儀、稲刈、こなし(時期不定)
ところ松江市大庭町神魂(かもす)神社及び同社氏子地域内


この神魂神社には、祷屋氏子たちによって受け継がれている「祷家神事(とうやしんじ)」が伝わっている。
これは新嘗祭に供える神饌や出雲国 造が常食される穀物の増産を祈願する神事であり、祷家氏子が一年をかけて御供田で田作りから収穫、神事に至るまでの行事を行うものである。
祷人として奉仕した人々の氏名は『神魂大社御祷家録』に代々記され、宝永6(1709)年以降の記録が残っている。
神事は1月4日の祷人を決める所から始まり、1月中には境内にお柴(神籬)が建てられる。
一年を通じて祷人達によってお柴は祈願され、御供田(神田)では農耕が行われる。
翌年の1月3日には役目を終えたお柴を解体し、神籬に宿った神をお返しする。
翌1月4日(現在は第2日曜日)には還幸神事として、御供田で収穫された米でオスシ(銀 鯛と酢飯の馴鮓)と炊いた米飯で神饌を作り、それを入れた桶2つを担ぎだして神社の参道から国府が置かれた頃からの幹線である古代山陰道推定地を通って、氏子の住む集落内を練り歩き、桶を取り付けた担ぎ棒の丸太を辻や 集落の入口で突き合わせる。
これは五穀豊穣や子孫繁栄などを祈願する意味があり、その後宮司によって弓矢を3回引く歩射の儀が行われ、その年の稲の作柄を占うものである。
祷家神事は氏子たちにとって最も身近で重要な神事であり、神社と伝統のある幹線、周辺の集落が一体となって良い風情を醸し出している。

あの大きな神籬は、「お柴」という愛称で呼ばれているようですね(笑)
思っていたイメージと全く違いますから、自分の無知と思い込みに愕然とするしかありません。


ここまで分かれば、あの洞穴も何かガックリ来るような真相がありそうなので調べてみましたら、「防空壕」だそうです。
 
いかにも曰くありげな横穴と、その前には神の依り代である神籠(ヒモロギ)。
横穴に入ってみると、深さは3mほど、
穴の奥は人が一人なんとか座って居られる程度の穴だ。
社務所で巫女さんに聞いてみると、「ただの防空壕です。」と一言。
そんなことは無いでしょう?と返しても、防空壕の一点張り。

けれど、松江が空襲にあったという話しもあまり聞きませんから、これも調べてみました。

浜田空襲(はまだくうしゅう)は、アメリカ軍によって太平洋戦争末期の1945年(昭和20年)7月28日に行われた島根県の浜田市と八束郡玉湯村(現在の松江市の一部)に対して行われた無差別爆撃。


建物疎開も必要
指導に頼らず各自が決行

松江市の防空検討

中国地区でまだ敵機の空襲を見ない地域は島根鳥取両県のみの郷土空襲はいよいよ必至となり県民はそれぞれ職場で敢闘また敵機来らば来たれで防空態勢を強化せねばならぬとき、
県下重要都市の一たる松江市における防空態勢は県下市町村の末尾にあると云ふ誠に芳しからぬ現状だ、
敵機来襲の場合これで完全に松江市を防護出来るか、遺憾ながらこの始末では市が焼土と化すことも覚悟せねばなるまい、
いまこそ松江六区市民は軍官民一致で防空強化を期すべき緊急事態に臨んでゐるが松江市防空本部指導元締たる山本松江署長にその防空態勢の実態とかくあるべき備へとについて説いて貰はう
問:松江市の防空施設は市の指導者や関係方面の人が甚だ不熱心の様に見えるが
答:県下で一番大きい都市であるため指導も届かない点があるが、まだ一回も大空襲を経験せない関係もあつてまだまだ十分とは云へぬ、また防空強化は他人事でなく各自が真剣にやらねばならぬ
問:現在市内の防空壕、待避所は万一の際完全に役割を果たすやうな設備が少い、完全な横穴壕を増強すべきではないか
答:目下各校下別に町常会を開いて一町内毎に一ヶ所を早急増強する考だ
ということで、戦時は松江市でもそれなりに防空対策が必要とされていたようですから、あの洞穴が「防空壕」であっても不思議ではありません。

ただ、本当に単なる「防空壕」であったなら、神域なんですし、さっさと閉じるなり埋め戻すなりすればイイとは思いますけれど。
というか、どうしてわざわざあそこに防空壕を掘ったのでしょう?


ともあれ、大きな神籬の謎は解けましたので、そんなことならもっと落ち着いて参拝したり、写真を撮ったりすれば良かったなと、今では少し後悔してしまいます。
できれば、もう少し案内板など充実して頂けたなら助かりますね。

けれど、それも次の機会の楽しみに、上でご紹介したブログ風と土の記録では、「神魂神社の裏山には、今でも磐座が残っているという」とのことですし、いつか探索してみたいと思います。
神魂神社の謎は、他にもまだまだあることですし。

何より主祭神が、なぜイザナミとされるのか、全く分かりませんから。
千家尊統『出雲大社』においても、それは比婆(ひば)山に関係し後世の思考のいたすところ」ということだけで、詳しい理由は述べられていません。

また同書で神魂神社は「熊野の神の遙拝のための神祠」として創建されたとのことですが、神魂神社の社殿は全て東を向き西を背にしていますから、神魂神社から南方にある熊野大社を遙拝してはいません。
神魂神社から西の出雲大社を遙拝しているとすれば、方向は合うのですけれど。


やはり、このように分からないことだらけです。
そこで取りあえず、『出雲大社』の「11 出雲の国造」から、神魂神社に関する部分を引用しておきますので、ご参照くださいませ。

出雲国造

出雲国造の本貫の地は意宇都である。
天平五年(七三三)二月三十日と勘造の日付をもつ『出雲国風土記』は各都ごとにその撰録の責任者の署名をもっているが、宇都の条には、

・・郡司主帳・・・・・・・・・・・・海 臣 
・・・・・・・・・・・・・・・・・・出雲臣
・・・・・・外従七位上勲十二等・・・出雲臣
・・・・・・外少初位上勲十二等・・・林 臣
・・//・・・・・・・・・・・・出雲臣

また『風土記』の巻末には監修責任者として、
  国造帯意宇郡大領外正六位上勲十二等 出雲臣広嶋
と国造広嶋の名が見える。

意宇郡は前にのべたように、出雲の闘の先進地帯として文化も進み、国街(こくが)もここに置かれ、神名樋山(かんなびやま)として姿も美しい茶臼山の東南、松江市大草町の六所神社の一帯が、国庁あとの地と推定されている。
出雲国造はこの地の豪族であったのである。
文武天皇の二年三月には、筑前の国宗形(むなかた)と出雲の意宇の郡司は、三等親以上の者でも郡司に連用することができるという特例が許されている。
当時にあってはきわめて例外的な措置であるが、こういう例外があえてなされるほど、出雲の国造は強力な勢力をもっていたということである。
そして、このような勢威は、熊野の神をいただき、遠い神代からその祭祀にあたってきた家であったればこそなのである。
「風土記」に大社とあるのは熊野と杵築のそれだけである。
しかし両大社を列挙するときには、熊野がつねに杵築の前に上位としてあり、逆になることはない。王朝時代に朝廷から授けられた神階も、熊野が杵築よりもいつも一階だけ上であった。
これというのも熊野の大社は、もともと出雲国造が奉斎していた社であったからなのである。


出雲国造の居住地

それでは出雲国造は意宇のどこに居をしめていたのか。
意宇(おう)川が熊野の山地から意宇の平野部に出てきた、その渓口にあたるところが大庭(おおば)である。
ここに「大庭の大宮」とよばれる神魂(かもす)神社がある.
ここの旧屋敷地に国造の別館があって、明治維新になるまで毎年の新嘗祭のときと、国造の代替りの火継式のときには、出雲国造は杵築の地からここにきて潔斎(けっさい)をかさね、神事はこの別館の上手の丘の神魂(かもす)神社でとり行われてきたのであった(現在は出雲大社の拝殿で行う)。

この社は「風土記」の神社帳にも、あるいはまた『延喜式』の神名帳にも、まったく記載されていないことは不思議だが、それというのも、本来がこの社は国造の館の、いわば邸内社としてはじめられたものであり、陰暦の十一月も末に行われる新嘗祭には、熊野の谷あいは雪に埋もれて、往き来も困難であるところから、熊野の神の遙拝のための神祠という意味をもって、ここに創建されたものであろう。

現在の社殿は火災にあって、天正十一年(一五八三)に再建された典型的な大社造であり、イザナミノミコトを祀る。
もちろんこれは後世の思考のいたすところ、イザナミノミコトを葬ったという伯誉(ほうき)と出雲との境である比婆(ひば)山を、飯梨(いいなし)・母理(もり)の山地に設定したことに関係するものでなければならない。
この神魂神社が鎮座し、かつては国造の別館があったというこの大庭の地をおいて、ほかに出雲国造本貫の地をもとめることは困難である。
そしてこの大庭から東北のかた中海にかけては、開濶地がカラリと聞け、条里制の行きとどいた水田と、はるか紺碧の中海ごしに、絵のような島根半島が一望のもと視野に入り、豪族の占拠地としてはまことにふさわしい景観をもっている。

意宇川・飯梨川沿岸流域に見るおびただしい古墳は、かつてのこの地域の豪族、とりわけ出雲国造とは深い関係にあるものにちがいない。
長い年月を経て今は出雲国造家には、それをたしかめる伝承も失せはてている。
これまでたびたび研究者に問われてきたことではあるが、古い伝承は歴史のなかに完全に埋没してしまっている。
わずかに大庭の神魂神社の近くに、長い年月の風雨にたえてきた、鎌倉期のものと思われる数基の五輪塔が見られるだけであるが、これとてもかつての歴史をほのかに彷彿とさせ、国造家に関係あるかもしれないと、わずかに推測されるだけである。
・・出雲大社』千家尊統(学生社/2012年)




大きな神籬の真相を知らなかったので、何となく社殿を撮る気になれなかったため、武勇社の上空、杜の向こうから輝いていた太陽を望みます。

この時、その武勇社のご祭神も知らないままでした。




参道を下ります。
珍しく、ちょっと腑に落ちない気持ちのままだったことは残念でした。


ここから次は、できれば真名井神社に寄るつもりでしたけれど、その真名井神社の長い石段を見上げて時刻を確認すると、そのまま素通りし揖夜神社へと向かいました。

この日は何としても、陽の暮れないうちに美保関へ入りたいと思っていましたので。



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