大賀弥四郎事件


『伝馬町旧記録』によれば、天正2年(1574年)頃までに弥四郎や松平新右衛門らは一揆契約を交わし、武田勝頼に内通してその侵攻を幇助しようとしていたという。その与党には信康家老の石川春重、同じく家老鳥居九兵衛の陪臣・小谷甚左衛門[注釈 3]、倉地平左衛門らがいた。

『三河物語』はその計画について以下のように記している。弥四郎は家康が到来したと偽って岡崎城に呼びかけて開門させる。その隙に武田軍は東三河から岡崎へ侵攻して城を占領し、城主の信康を自害せしめる。また岡崎在留の諸士の妻子を人質に取って徳川家臣団を服属させ、進退窮まった家康やその家臣らは所領を落ち延びるだろうから、これを待ち伏せて討ち取る。以上の内容の書状を勝頼に送り、その同意を取り付けたとしている。

一方で『岡崎東泉記』『石川正西聞見集』は一部岡崎の家臣団のみではなく、家康正室にして信康生母の築山殿も加担したものであったとしている。『岡崎東泉記』によれば、武田勝頼は岡崎領で流行していた甲斐国出身の口寄せ巫女を通じて築山殿に取り入らせ、信康室の徳姫を武田方に通じさせれば築山殿を勝頼の妻に、信康を勝頼の嫡男にして天下を譲り渡すという神託を信じさせた。また築山殿の屋敷に出入りしていた西慶という唐人医に岡崎の家臣団を懐柔させ、弥四郎らを大将分として勝頼から所領を与える判物が出されたという。

山田重英は岡崎家老鳥居氏の陪臣だったが、同輩の小谷氏に誘われて弥四郎の一党に加わっていた。しかし重英は後に翻意して謀反の事実を岡崎城の信康に通報した。信康は当初信用しなかったが、重英の提案で家来に密談を間諜させたため事は露見した。また『伝馬町旧記録』によれば家康は事前に一揆の風聞を掴んでおり、信濃国へ出入りする塩商人に申し付けて事情を探らせていたのだという。なお『徳川実紀』は別に以下の話を載せる。家康・信康父子から異例の寵愛を受けていた弥四郎は、岡崎城家老たちすら異見できないほどの権威を着ていた。ある時近藤壱岐という譜代の武士が加増となった際、弥四郎は自分が執り成しをしたためであると発言したため、近藤は怒って加増を辞退することを申し出た。この騒動を知った家康は近藤から弥四郎の専横を知り、弥四郎の罪を問うて家財を没収した。その中に武田勝頼に内通する書状が発見されたのだという。

弥四郎と妻子は前述のように処刑された。家老の石川春重および同輩の松平新右衛門は大樹寺において自害し、小谷甚左衛門は討ち取られ、倉地平左衛門は甲斐国へと逃れた。また通説では信康付属の松平親宅は事件以前に信康への諫言が聞き入れられず出奔したとされるが、彼も事件に直接関与しなかったが失脚したとする主張がある。一方で山田重英は返り忠を賞されて加増を受けたという。

当時の徳川領情勢として武田氏の軍事的優勢が指摘されており、『岡崎東泉記』にあるように松平氏譜代の岡崎家臣団が信康を三河の新国主として武田氏に寝返ろうとする可能性は十分に考えうる。この事件は家中の動揺を抑えるため、弥四郎一党が起こした騒動という小事件として処理されたが、後年武田氏に対する軍事的優勢に転じた事によりようやく信康と築山殿の処分という形で岡崎処分が完遂されたという見解もある。また『三河物語』が述べるように、同年5月の長篠の戦いは、弥四郎らの内通によって武田軍が侵攻の機を得たものとする説もある。

 

石川 春重(いしかわ はるしげ)
松平氏(徳川氏)譜代の家臣である石川氏の出身。父の康長は蓮如に従って三河に定住した石川政康の長男で、本領だった碧海郡小川を継承していたらしい。なお徳川家康の重臣として知られる石川数正・家成は、康長弟の親康の家系である。

春重の事績はあまり伝わらないが父祖同様小川城にあり、岡崎城主に就任した家康嫡男の松平信康の傅役に平岩親吉とともに就任し、実質的な家老として岡崎城を親吉とともに差配した。天正7年(1579年)に信康が謀反の疑いを受けて誅殺されるが、これに連座したらしく切腹を命じられた。なお春重の自害については、天正3年(1575年)に大岡弥四郎とその一党が武田氏に内通した事が発覚し首謀者が処罰された事件の際に、これに連座したとする説もある。家督は前妻酒井氏との間に生まれた春久が継承し、子孫は江戸幕府旗本となった。


小谷 甚左衛門(こや じんざえもん)
三河国設楽郡小谷の人とも、碧海郡渡の人ともいい、渡の武士で岡崎城主松平氏(徳川氏)に仕えた鳥居九兵衛の家臣だったという。永禄6年(1563年)三河一向一揆が蜂起すると甚左衛門は鳥居重正らとともに一揆方に与し、佐々木上宮寺に入って松平氏に反した。ただし『参州一向宗乱記』は甚左衛門が松平氏方に属していたとして、永禄7年(1564年)松平氏方の斥候が上宮寺方に討たれて首を曝された際、甚左衛門はこれに憤って先駆けして一揆勢を討ち、上宮寺と鳥居党の戦端を切ったとしている。

天正3年(1575年)岡崎城士・大賀弥四郎らの武田氏内通計画に加わった。しかし同志の山田重英が翻意して城主松平信康に密告して計画が露見したため、甚左衛門は渡辺守綱の追走を振り切って遠江二俣城へ逃走し、やがて甲斐国へと逃れたという。なお『岡崎東泉記』は、この謀反に加わったのは養子の九郎左衛門だとしている。それによれば九郎左衛門は山田重英と懇意で、謀反計画に引き入れたのは九郎左衛門だったという。謀反発覚後、九郎左衛門に同情した領内の庄屋・仁右衛門によって発覚を知ると、子息とともに三河を出奔した。養父の甚左衛門は主の鳥居氏から暇を出されたが、後に松平忠吉に1,000石で仕えた後、無嗣断絶したという。


倉地 平左衛門(くらち へいざえもん)
三河国額田郡米河内の領主であったといい、同郡岡崎城主の松平氏(徳川氏)に仕えた。倉地氏の出自については京極氏の支族・鞍智氏の一族とする説がある。

永禄6年(1563年)三河一向一揆が蜂起すると平左衛門は一揆方に与し、戸田忠次・矢田作十郎らとともに佐々木上宮寺に入って松平氏に反した。天正3年(1575年)岡崎城士・大賀弥四郎らの武田氏内通が発覚したが、平左衛門は首謀者の一人だった。この謀反が露見するや平左衛門は逃走したが、今村勝長・大岡清勝によって討ち取られた。