ゴーン氏とは大違い。リストラ(工場閉鎖、人員解雇)する、購入部品たたきをする、ではないでしょ。

 

 

フォード入社

 

第二次世界大戦終結後の1946年8月に、アメリカの自動車製造「ビッグスリー」の一角を占め、世界第2位の規模を持つ自動車会社であるフォード社に入社した。理系の学歴を持つこともあり当初は技術畑への配属を打診されたものの、フォード社に入社した後は主に販売に関わり、アメリカ東海岸地区の地区販売支配人や商用車販売部門長などを歴任した。

マスタング
その後ローン販売の企画の成功などで頭角を現し、1960年11月にフォード部門の総支配人兼副社長に就任。当時のフォード社の社長で、後にジョン・F・ケネディ政権の国防長官となるロバート・マクナマラの下で辣腕を振るうこととなる。

その後、1960年代に入って以降の好景気を背景に、第二次世界大戦以降に出生した、所謂「ベビーブーマー」と呼ばれる世代向けの中型車として開発された2ドアクーペ、「マスタング」の開発責任者となる。

1964年4月17日から開催されたニューヨーク万国博覧会の初日に発表された初代マスタングは、そのスポーティーな外観や性能、低価格、「フルチョイスシステム」と呼ばれる多彩なオプション群と巧みな広告戦略などのマーケティング戦略により、「フォード・モデルT以来」と言われるアメリカ自動車史に残る大ベストセラーとなり、アイアコッカの名はマスタングの名とともに全世界に知れ渡ることになる。


フォード社社長へ

1965年1月にはフォードとマーキュリー、リンカーン部門の副社長に就任。当時低迷していた高級車部門のマーキュリー部門やリンカーン部門の建て直しを成功させた他、マーキュリー部門の高級スポーツカーの「クーガー」やリンカーン部門の高級クーペ「マークⅢ」をヒットさせるなどの実績を残し、1970年1月にフォード社の社長に就任した。

社長在任中は、オイルショックと日本製小型車との競争激化を受けて低迷した国内外の販売を、肥大化したマスタングの小型化や国内販売網の強化、前輪駆動の小型車である「フィエスタ」の導入などを行い乗りきった他、いくつかの不採算事業の売却を行い、経営状況の安定を行った。

一方で、アイアコッカはその優れた手腕とは裏腹に、その地位を利用した公私混同とも言える経営も多かった。社長に就任した直後の1970年には、イタリアのコーチビルダーのギア社を、副社長時代からの友人でイタリアのスポーツカーメーカーのデ・トマソを経営するアレハンドロ・デ・トマソから買収した上に、デ・トマソをフォードのスポーツカープロジェクトに招聘し、フォード製5.8リッターV8エンジンをギアのデザインしたボディに搭載した高級スポーツカー「パンテーラ」を開発させ、アメリカ国内のリンカーンとマーキュリーのディーラーで販売させるなどしていた。

しかしこのプロジェクトはデ・トマソ社には利益とアメリカ市場における知名度の向上という恩恵を与えたものの、フォードにとっては大きな利益を与えるものとはならなかったため批判を受けた。


解雇

アイアコッカと同社会長のヘンリー・フォード2世(創始者ヘンリー・フォードの孫にあたるオーナー会長)は同社の順調な経営成績を背景に当初は良好な関係を築いていた。が、アイアコッカは優れた経営手腕を発揮しその名声を高めていく一方で徐々に公私混同ともいえる独断的な経営手法を露にしていったことで1970年代中盤に差し掛かると、小型車の市場導入やヨーロッパ市場における販売戦略など、同社の経営方針を巡って両者は対立していった。

対立関係はヘンリー2世がアイアコッカの身辺調査を行うなど修復不可能な状態にまで発展し、フォードは社長職の上に副会長職を創設し3人の上級社長による経営体制の構築を行うなど、アイアコッカに対する事実上の降格人事まで行われた。1978年10月、同社が史上最高の売り上げを2年連続で達成したと発表された直後、ヘンリー・フォード2世の「別に理由はない。俺はお前が好きでなくなっただけだ」の一言で同社を解雇された。

この件に関して当事者のヘンリー・フォード2世は「アイアコッカブームを押さえなければならない理由が山ほどあったのだ」、「アイアコッカがピンときて、ずっと会社を辞めてくれれば、と願っていた」と自伝の作家に語っている[1]。またアイアコッカも、解雇されたショックとヘンリー・フォード2世、そしてその側近に対する恨みを自著に書き綴っている。


クライスラー社会長へ

フォード社を解雇された直後の1978年11月に、フォード社のライバルであり、日本車との販売競争や第2次オイルショック、ずさんな財務などのあおりを受けて、当時深刻な経営危機に陥っていたクライスラー社のジョン・J・リカルド会長に請われて同社の社長に就任する(その後1979年9月に会長に就任)。

就任後は同社の社内改革を進める一方、自らの年俸を1ドルとし労働組合との共闘の道を開いた。また、1979年12月には、同月に成立した債務保証法により連邦政府から15億ドルの資金調達に成功。同時にV型8気筒エンジン搭載の中・大型車中心の開発姿勢から、2.2リッター直列4気筒エンジン(Kエンジン)搭載の小型車(Kプラットフォーム 日本では中型セダンにあたるモデル)中心の開発へと舵を切った。2年後、1981年に発売された小型車、プリムス・リライアント、ダッジ・アリエス、ダッジ400(いずれもKエンジン・Kプラットフォーム採用モデル)は大ヒットし、クライスラー社は深刻な経営危機から立ち直ることとなる。


「アメリカ産業界の英雄」

さらに1983年には、フォード時代にアイアコッカの右腕として活躍していたが、アイアコッカと同じくヘンリー・フォード2世との対立の末に解雇され、クライスラー社に転職したハロルド・スパーリック(初代フォード・マスタングの開発主任)のもとで開発されたアメリカ自動車初のミニバン、ダッジ・キャラバン、プリムス・ボイジャー(いずれもKエンジン・Kプラットフォームを拡張したSプラットフォーム採用モデル)が大ヒットし、同社を黒字化させた。

小型車で大ヒットを博したKエンジン・Kプラットフォームは小型車での採用のみならず、排気量拡大(やターボ化)、プラットフォームを拡張するなどして、前述のミニバンや、ニューヨーカー(Kエンジン・Kプラットフォームを拡張したEプラットフォーム採用モデル)などの中型車、レバロン・コンバーチブル(Kエンジン・Kプラットフォーム採用モデル)などのスポーティーカーへも流用された。Kエンジン・Kプラットフォームは多くの車種で共用されることとなり、同社の開発コスト低減に貢献し、多くの中・小型車を成功に導き、破産寸前とまでいわれたクライスラー社を立て直し、数十万人のアメリカ人の雇用を守った。この功績により、アイアコッカは「アメリカ産業界の英雄」とまで称されるようになった。

 


AMC買収

1987年には、アイアコッカの指示のもと、当時フランスのルノー傘下で、「ジープ」ブランドを所有するアメリカ第4位の自動車会社であるアメリカン・モーターズ(AMC)を買収したが、当時ルノーのバッジエンジニアリング車を中心に展開していたAMCが深刻な販売不振に陥っていたこともあり、シェアにおいてはビッグ3の他2社を上回ることはできなかった。

しかし、同社の販売網を組み込むことでアメリカ国内の販売力が拡充した上、ジープ・チェロキー(2代目・XJ)が予想外のヒットとなるなど、同社が展開していた「ジープ」ブランドの各車は、その後クライスラーに大きな売り上げをもたらすことになる。

 

=>現在でも、日本で売れる元クライスラーの車って「ジープ」しか知りません!

 拡大路線

同書では、日本やヨーロッパの自動車会社との資本提携により、世界最大の自動車メーカージェネラル・モーターズ(GM)社を超える競争力を持つ自動車会社を作るという「グローバル・モーターズ」構想を提唱。アイアコッカは経営危機を乗り切り経営が安定したクライスラー社の拡大を目指した。

 

 

他社との提携

AMC買収に先立つ1985年には三菱自動車と提携し、「ダイアモンド・スター・モータース(DSM)」を設立した。1988年からイリノイ州に建設した工場で共同生産を開始し、「イーグル」ブランドなどで発売された。また三菱自動車が日本で生産した小型車をクライスラーやダッジ、イーグルのブランドで販売した。

 

=>1993年、クライスラーはDSMの保有株式を三菱へ売却し、DSMは三菱自動車工業の一部門となった。
三菱へ売却されて以降も業務提携を維持していた2004年までは、クライスラー向け車種の生産が行われていた。以降は三菱自動車の北米事業部門となり、1995年には事業内容にあわせ「Mitsubishi Motor Manufacturing of America(北米三菱自動車製造:通称MMMA)」へ、さらに2002年には「ミツビシ・モーターズ・ノース・アメリカ」へと改名して現在に至っている。
(残っている) 


その後、イタリア系のアイアコッカの指示のもとで、アイアコッカの友人でアルゼンチン系イタリア人のアレッサンドロ・デ・トマソが経営するイタリアの高級車メーカー・マセラティとも提携し、1988年には共同開発した高級2シーター車「TC」を少数生産した。また同時期にはイタリアの高級自動車メーカーであるランボルギーニを買収した。

1990年代にはオーストリアのシュタイア・プフ(現マグナ・シュタイア)がチェロキーとグランドチェロキー(2代目・WJ以降)の生産を開始し、再びヨーロッパ市場に進出した。ちなみに、三菱自動車はギャランΣやエテルナΣ、デボネアなどの中型車に搭載していたサイクロンV6を供給した。

 

=>グランドチェロキー (Grand Cherokee)  ジープブランドで販売されているSUV。
米国ミシガン州のジェファーソン北組み立て工場で製造されているが、ヨーロッパ向けの車両はオーストリアのマグナ・シュタイア(グラーツ工場)によって製造される。
(残っている)
 

 

その後1992年にアイアコッカは引退したものの、1994年には、三菱自動車などとの提携から学んだ小型車開発のノウハウを生かして、最低価格が1万ドルを切る安価な小型車「ネオン」を開発し話題を呼んだ。同車はその後「日本車キラー」と呼ばれ、アメリカ市場で人気を博した。

 

 

引退
これらの動きと同時に、フォード時代からの友人であるアレッサンドロ・デ・トマソとの個人的な関係だけを基に話を進め、経営的には何の意味も成さなかったイタリアの高級車メーカーのマセラティ社との提携による「TC バイ・マセラティ」の生産や、1987年に行われたイタリアの高級スポーツカーメーカー・ランボルギーニ社の買収、ビジネスジェット機製造会社・ガルフストリーム・エアロスペースの買収など、アイアコッカは独裁的な地位を背景にした公私混同ともいえる経営を行っていた(アメリカン・モーターズの買収も、役員会が総出で反対したのを「フォードを超える規模の自動車会社を作る」と意気込んだアイアコッカ1人で押し切ったという)。

これらの失策は、数々の成功を収めたアイアコッカでさえ、長期政権による弊害が出てきたとの批判を社内外から浴びざるを得なかった。国内外の自動車会社との競争がさらに強まる中、アイアコッカはこれら本業とは直接関わりのない事業に次々投資し、しかもその多くで巨額の損失を出していった。

さらにKプラットフォームに過度に依存した結果、各モデルの陳腐化が進み販売台数が低迷する中でアイアコッカは社内外から批判を受け、株主や役員会からの反発もますます強くなり、1992年にクライスラー社を退職した。


引退後

退社後の1994年には自動車殿堂入りした。1995年には、投資会社トラシンダ社の会長カーク・カーコリアンから「クライスラーを株価非公開企業にした方が利益が上がる」と勧誘されクライスラーの敵対的買収に乗り出した。

結果クライスラー会長のイートンは「アイアコッカが会長の職を奪おうとしている」と狼狽してダイムラーとの合併劇に至った。アイアコッカ本人は著書の中で「敵対的買収の意図はまったく無かったと後悔している」と記述している。

 

 

「ダイムラー・クライスラー」時代

1998年に、ドイツのダイムラー・ベンツと合併して「ダイムラークライスラー・AG」となった。この合併は、表向きには対等合併とされたが、事実上ダイムラーによる買収であった。合併後、ダイムラー・ベンツ側とクライスラー側の双方が好業績をあげたのは初年度だけで、以後はどちらかが不振に陥っている。

クライスラー・グループに関しては一時、「PTクルーザー」や「300C」などの予想外の好調な販売に助けられた時期があったものの、中・大型車中心のラインアップが災いし、またイラク戦争後の深刻な原油高の影響で再び業績低迷に陥った。2006年決算では営業損益の赤字が11億1800万ユーロ(約1770億円)に達した。


現在

現在は、亡くなった前妻の死因である糖尿病克服のための財団の代表を務める傍ら、電気自転車を製作する会社を経営する。

また、2002年にNu Skin Enterprisesが創設した、世界中の飢餓に苦しむ子供たちを救うという名目のナリッシュ ザ チルドレン活動を支持し、諮問委員会の会長を務めている。

 

 

クライスラーのその後

 

サーベラス傘下へ

2007年5月、ダイムラークライスラーはクライスラー部門(クライスラー、ダッジ、ジープ、ラム・トラックス)を新しく設立した持株会社「クライスラー・LLC」の傘下に分離し、新会社の株式の80.1%を55億ユーロ(約9000億円)でアメリカの投資会社サーベラス・キャピタル・マネジメントに売却した。これにより、約9年にわたるダイムラーとクライスラーの協業体制は解消されることとなった。なおダイムラー・ベンツは新たにダイムラーへと社名を変更する。

2008年に世界金融危機が本格化すると、クライスラーの資金繰りは完全に行き詰るようになった。アメリカ政府はクライスラーの倒産を防ぐために、つなぎ融資として40億ドルを提供した。アメリカ政府はさらなる追加融資の条件として、クライスラー経営陣や全米自動車労働組合(UAW)に、4月末という時期を区切って、提携相手候補のイタリアの自動車製造大手のフィアットや債権者団との間で、債務(レガシーコストなど)削減の交渉をまとめるように通告した。

倒産直前の2009年4月末、ダイムラーは残りの株の全持分をサーベラスに売却した。最後の数日間の間に、アメリカ政府はさらに追加融資として5億ドルを提供した。

経営破綻、フィアットが完全子会社化

 

クライスラー経営陣、全米自動車労働組合(UAW)、フィアット、債権者団などの間で、有担保債務(工場や不動産等)69億ドルの圧縮、医療保険基金への支払い義務の106億ドル削減などの交渉が続けられたが、債権者団のうち少数の中堅ヘッジファンドなどが最後まで条件を受け入れなかったため、交渉は時間切れとなった。その中で、クライスラーとフィアットの提携交渉はまとまった。

アメリカ時間 2009年4月30日、クライスラーは連邦倒産法第11章の適用をニューヨーク市のニューヨーク州南部地区連邦倒産裁判所に申請した。

 

フィアットが、株式保有率を58.5%にまで引き上げていたが、2014年1月、フィアットは全米自動車労働組合(UAW)の医療保険基金が持っていた残りのクライスラーの株、41.5%を買い取り、クライスラーを完全子会社化すると発表した。 その後、同年10月12日に合併しフィアット・クライスラー・オートモービルズ(FCA)が誕生、翌13日にニューヨーク証券取引所での取引を開始した。

 



 

 


 

2016年現在クライスラーは、「クライスラー」、「ジープ」、「ダッジ」、「ラム」の自動車4ブランド