NHK大河ドラマ「軍師官兵衛」もそろそろ大詰め。
まとめておきます。

黒田官兵衛

天正3年(1575年)、信長の才能を高く評価していた孝高は、主君・小寺政職に長篠の戦いで武田勝頼を破っていた織田氏への臣従を進言し、7月、羽柴秀吉の取次により岐阜城で信長に謁見。信長から「圧切長谷部」(国宝。福岡市博物館蔵)という刀を授かる。さらに年明けには政職にも、赤松広秀(政秀の嫡子)、別所長治らと揃って京で謁見させる。一方で9月には、宗景が宇喜多直家に敗れ小寺氏の元に落ち延びてくる。翌4年1月、丹波の波多野秀治が、赤井直正攻めの明智光秀を攻撃(黒井城の戦い)して信長より離反。

天正4年(1576年)5月、小早川隆景の水軍の将、浦宗勝を毛利と同盟する播磨の三木通秋の所領である英賀に上陸させるが、孝高は500の兵で毛利・三木軍5,000の兵を退ける(英賀合戦)。この戦いの後、長男の松寿丸(後の黒田長政)を人質として信長の元へ送る。

10月、信長は信貴山城の戦いで松永久秀を討伐した後に、秀吉を播磨に進駐させた。孝高は一族を父の隠居城である市川を挟んで姫路城の南西に位置する飾東郡の妻鹿・国府山城(功山・甲山(98m))に移らせ、居城であった姫路城を秀吉に提供し、自らは二の丸に住まい、参謀として活躍するようになる。月末には秀吉は、弟の羽柴秀長を生野銀山を管轄する太田垣景近の竹田城(但馬国)攻めに向かわせる(11月4日落城)。次いで秀吉本隊の赤松政範の上月城攻めに従い、佐用城(福原城)攻め(11月26日落城)へは竹中重治らと共に加わり先陣を務めている(上月城の戦い)。上月城は、以前に浦上宗景と共に毛利氏と戦っていた尼子勝久、山中幸盛ら尼子遺臣団が城代を任される。

ところが天正6年(1578年)3月、別所長治(波多野秀治の娘婿)が殆どの周辺豪族を引き込んで反旗を翻し(三木合戦)、これに毛利氏が呼応する。4月、海から宇喜多直家軍7,000と雑賀衆の兵が、別府(べふ)の阿閉城に攻め込んできた際には孝高が救援し1,000の兵で防ぎ退ける。しかし、7月に秀吉本隊は信長の指示に従い、尼子遺臣団を残して上月城を放棄し、書写山まで撤退した。

双方の調略も激しさを増し、9月に孝高は直家を調略することに成功する。しかし、今度は織田家の重臣で摂津国を任されていた荒木村重が信長に対して謀反を起こし、有岡城に籠城した(有岡城の戦い)。さらにこの時、主君の小寺政職も呼応しようとしたために、10月、孝高は村重を翻意させるため交渉に有岡城に乗り込んだが、成功せず逆に土牢に幽閉される。

**官兵衛と嫡男長政に決定的な影響を与えたことが起こります。**

孝高(官兵衛)は、同じく秀吉の「軍師」とされる竹中重治(半兵衛)と並んで「両兵衛(ニ兵衛)」と呼ばれることがある。
荒木村重謀反(有岡城の戦い)の時、信長は翻意するよう説得に向かった孝高が帰ってこないのは、主家の小寺政職と共に村重方に寝返ったからだと判断し、小寺家の人質として預けられていた松寿丸(のちの黒田長政)を殺害するように命じたが、機転を利かせた竹中重治(半兵衛)は密かに松寿丸を匿った。重治は孝高が救出される前に、平井山の付城で陣没したが、黒田父子を案じる手紙を残している。重治への感謝の気持を忘れないために、黒田家は家紋に竹中家の家紋を用い、また重治の子の竹中重門の元服の際には孝高が烏帽子親を務めた。秀吉の死後、関ヶ原の戦いの際には、黒田長政と竹中重門が隣り合わせで陣を張ったことが陣跡に残されており、「両兵衛」の絆は息子同士にも受け継がれている。

孝高が村重居城の有岡城へ向かったが、捕えられ牢獄に入れられた。この時、村重の家臣の加藤重徳が色々と世話をしてくれたので孝高はその恩に報いるため、有岡城の戦いで村重が敗れて没落した後に加藤重徳の2男、一成を自分の養子として迎えている。一成は孝高の子・長政の弟のように育てられた。黒田一成は黒田八虎と呼ばれる重臣となり、関ヶ原の本戦でも石田三成の重臣の蒲生将監(安藤直重)の首を挙げた。このような黒田隊の戦功により、長政は徳川家康から一番の功労者として筑前(福岡藩)に52万3,000石を与えられた。筑前入国後、三奈木(現福岡県朝倉市)に居館を構え、1万6,205石を領した。三奈木に構えたため、三奈木黒田家と称される。馬印は白の御幣である。慶長19年(1614年)の大坂冬の陣では、黒田忠之に従って出陣し、大坂城の外堀の埋め立てを行って帰国。寛永14年(1637年)の島原の乱では江戸幕府軍の総大将・松平信綱の軍議に参加する。藩士達は黒田忠之の指揮に従わず一成に従ったとされる。その後、隠居して睡鴎と号した。明暦2年(1656年)11月13日、86歳で死去。法名:睡鴎斎休江宗印居士。墓は福岡市博多区の崇福寺と朝倉市三奈木の清岩寺(清岩禅寺)にある。一成の家系は代々福岡藩の大老職を世襲する別格的存在となり、明治に至るまで黒田家の筆頭重臣家として存続し、明治時代に黒田一義が男爵となり華族に列した。


1年後、天正7年(1579年)10月19日、本丸を残すのみとなっていた有岡城は開城し、孝高は栗山利安に救出された。その後、姓を小寺から黒田に戻している。


天正8年(1580年)1月、秀吉は2年間の難攻の末にようやく別所長治の三木城を陥とした。孝高の主君の政職も、信長の嫡男・織田信忠によって討伐されて鞆の浦へ逃がれ、戦国大名としての小寺氏は滅んだ。織田家臣として秀吉の与力となり、名字に黒田を用いたのはこれ以降と考えられている(3年後の賤ヶ岳の戦いを当時に記録した『天正記-柴田退治記』などに、小寺孝隆での記載があることから、それ以降とも考えられる。)。秀吉は三木城を拠点とし、姫路城を孝高に還そうとするが、孝高は「姫路城は播州統治の適地である」と進言する。7月、秀吉より姫路城普請を命じられる。9月、孝高は揖東郡福井庄(網干周辺)に1万石を与えられる。

天正9年(1581年)6月、前年に降伏した山名豊国を追放して3月に吉川経家を城主に迎え入れていた因幡国の鳥取城へ、秀吉は6月に再び出兵(第二次鳥取城攻め)し、これに孝高も加わる。策略により若狭国などの商人が周辺の米を買い占めた上で完全に包囲して補給路を絶ち、兵糧攻めを行ったため、鳥取城内は飢餓で凄惨極まりない状況に追い込まれ(鳥取の渇え殺し(かつえごろし))、3ヶ月で降伏を余儀なくされた。

鳥取城攻めの同時期、天正8~10年の間に、毛利氏と結んだとされる淡路島の由良城主、安宅清康攻め、志知城から信長側に付いた阿波国の三好氏の支援などに、小西行長らとともに関わっている。

また天正10年(1582年)、毛利氏の武将・清水宗治が守る備中高松城攻略に際し、秀吉は巨大な堤防を築いて水攻めにしたが上手く水をせき止められなかった。これに対し、孝高は船に土嚢を積んで底に穴を開けて沈めるように献策し成功させたと言われる。

高松城攻めの最中の6月2日、京都で明智光秀による本能寺の変が起こり、信長が横死した。変を知った孝高は秀吉に対して、毛利輝元と和睦して光秀を討つように献策し、中国大返しを成功させたという逸話がある。山崎の戦いでは天王山を抑え、その裾野から射撃を仕掛ける中川清秀を追い落とそうとする明智軍と激しい戦闘を繰り広げた。9月頃より、毛利氏に対し、宇喜多氏との国境線確定の交渉に、蜂須賀正勝とともに入る[注釈 21]。

天正11年(1583年)、大坂城の縄張りに当たる。秀吉と柴田勝家との賤ヶ岳の戦いでは、佐久間盛政の猛攻に遭って中川清秀の部隊が壊滅し、続いてその攻撃を受けることとなったが、奮戦し守り抜いた。

天正12年(1584年)、小牧・長久手の戦いの当初においては、大坂城で留守居役を務めている。黒田長政らは岸和田の戦いで根来盛重、鈴木重意、長宗我部元親らの兵を破った。7月、播磨国宍粟郡(山崎)篠の丸城を与えられ5万石の大名となっている。

天正13年(1585年)の四国攻めには、讃岐国から攻め込んだ宇喜多秀家の軍勢の軍監として加わり、諸城を陥落させていった。植田城に対してはこれを囮であると見抜いて阿波国へ迂回するなど、敵将・長宗我部元親の策略を打ち破ったと言われる。阿波国の岩倉城が攻略されたところで長宗我部軍は撤退、降伏した。この頃に、孝高は高山右近や蒲生氏郷らの勧めによってキリスト教に入信している。

天正14年(1586年)、従五位下・勘解由次官に叙任された。10月、大友宗麟の要請による九州征伐では、毛利氏などを含む軍勢の軍監として九州豊前に上陸。宇留津城、香春岳城など[注釈 26]を陥落させる。翌年3月に豊臣秀長の日向方面陣営の先鋒を務めて南下し、島津義久の軍勢と戦い、戦勝に貢献している(根白坂の戦い)。戦後は石田三成と共に博多の復興(太閤町割り)を監督している。

天正14年(1586年)、従五位下・勘解由次官に叙任された。10月、大友宗麟の要請による九州征伐では、毛利氏などを含む軍勢の軍監として九州豊前に上陸[7]。宇留津城、香春岳城など[注釈 26]を陥落させる。翌年3月に豊臣秀長の日向方面陣営の先鋒を務めて南下し、島津義久の軍勢と戦い、戦勝に貢献している(根白坂の戦い)。戦後は石田三成と共に博多の復興(太閤町割り)を監督している。

九州平定後の天正15年(1587年)7月3日、本拠地の馬ヶ岳城をはじめとする豊前国の中の6郡(ただし宇佐郡半郡は大友吉統領)、およそ12万石(太閤検地後17万石以上)を与えられた(その直後に中津城の築城を開始)。しかし、7月に佐々成政が肥後国の仕置きに失敗し、隈部親永らによる肥後国人一揆が起きたため、孝高も鎮圧のための援軍として差し向けられるが、その隙をついて豊前でも野中鎮兼ら国人勢力が肥後国人に呼応、また、伊予国への転封を拒否し3万石を改易されていた城井鎮房が挙兵して以前の居城であった城井谷城を占拠するなども加わり、大規模な反乱となる。長政が一旦は鎮圧に失敗する(岩丸山の戦い)などしたため、黒田父子は持久戦をとり、兵站を断ち徐々に鎮圧する。翌16年1月頃、中津城が完成。4月、嫡男と娘を人質に出して降伏するも城井谷城からの退去に応じなかった鎮房を、秀吉の指示もあり、長政が中津城で謀殺、郎党を攻め滅ぼす。

秀吉との確執(秀吉が馬鹿になってしまう・・)

天正17年(1589年)5月、家督を突然嫡男の長政に譲り、孝高は秀吉の側近として引き続き軍師として仕える。豊前中津城は殆ど長政に任せる。

天正18年(1590年)の小田原の陣では北条氏政・氏直父子を小田原城に入って説得し、無血開城させる功績を立てた。秀吉は孝高の息子、長政に宛てた朱印状で小田原での功績を称えている。

文禄元年(1592年)、秀吉の朝鮮出兵の文禄の役では、総大将・宇喜多秀家の軍監として参加したが、小西行長など諸将の暴走で思ったような采配を執れず、病を理由に帰国。文禄2年(1593年)3月15日、日本軍が明軍の参戦と補給の行き詰まりにより和平を模索する間、再び朝鮮に渡ったが、石田三成などとの間に確執が生じて東莱城より5月21日再帰国したが、秀吉の怒りを買って追い返されている。 6月、第二次晋州城攻防戦においての後藤基次らが用いた亀甲車の設計や、和式城郭の縄張りなどに携わっているが、「如水軒円清」と号して出家している。

慶長2年(1597年)、慶長の役では総大将・小早川秀秋の軍監として釜山に滞陣。第一次蔚山城の戦いにおいて、加藤清正の救援に向かった長政が留守にした梁山城が8,000の軍勢に襲われた際、救援に駆けつけ1,500の兵で退ける。両城にて日本軍は大勝を収め、また今回の戦いを踏まえて戦線縮小を図った。しかし、これらを福原長堯などの軍目付たちが酷評して秀吉に報告し、秀秋、長政、蜂須賀家政など、多くの武将が叱責や処罰を受ける事となった。一方、軍目付たちは豊後国内に加増となった。

慶長3年(1598年)8月、豊臣秀吉が死去した。この頃、如水が上方の情勢を知らせてきた吉川広家宛てに「かようの時は仕合わせになり申し候。はやく乱申すまじく候。そのお心得にて然るべき候」と書いた書状が残されている。これは、如水が遠からず天下の覇権をめぐって最後の大乱が起きるであろうことを予想していたことを窺わせる。12月に上洛し伏見屋敷に居住したという。

明くる慶長4年(1599年)1月、生前の秀吉が『大坂城中壁書』にて制限した大名間の婚姻と私的な交流に徳川家康や福島正則らが抵触すると、それを詰問した前田利家を筆頭とした、他の石田三成ら大老・奉行衆と緊張が高まる。この時に蜂須賀家政や藤堂高虎らと共に、家康方に参じる。3月、利家が病死すると、利家方であった加藤清正や細川忠興らを引き込んで、長政ら七将が三成襲撃事件を起こす。家康の仲裁により、三成は領国の佐和山城に退去し、長政や家政の朝鮮での罪科は誤審と裁定された。

慶長5年(1600年)6月2日、徳川家康が会津の上杉景勝討伐を諸大名に命じる。6月6日、長政は家康の養女(保科正直娘・栄姫)と再婚し、6月16日に家康と共に出陣。7月17日(8月25日)石田三成らが家康の非を鳴らして挙兵し(西軍)、関ヶ原の戦いが起こった。長政は豊臣恩顧の大名を多く家康方に引き込み、後藤基次ら黒田軍の主力を率いて、関ヶ原本戦で武功を挙げた。

中津に帰国していた如水も、家康方に対し、前以って味方として中津城の留守居を務める密約を結び、行動した。 石田三成の挙兵の知らせを用意させていた早舟から受け取った如水は、中津城の金蔵を開いて領内の百姓などに支度金を与え、九州、中国、四国からも聞き及んで集まった9,000人ほどの速成軍を作り上げた。9月9日(10月15日)、再興を目指して西軍に与した大友義統が毛利輝元の支援を受けて豊後に攻め込み、東軍の細川忠興の飛び地(本拠地は丹後国宮津)である杵築城を包囲攻撃した。城将・松井康之と有吉立行は如水に援軍を要請、同日、如水はこれに応じ、1万人と公称した兵力を率いて出陣した。それまでは三成の誘いに対し、西軍に組する条件として九州7ヶ国の恩賞を求め、東へ向かう九州の西軍の部隊を素通りさせ、準備期間を稼いでいたという。

道中の諸城を攻略した後、9月13日(10月19日)、石垣原(現在の別府市)で大友義統軍と衝突した。母里友信が緒戦で大友軍の吉弘統幸に破れる等苦戦するも井上之房らの活躍もあって、黒田軍は大友軍に勝利した(石垣原の戦い)。

9月19日(10月25日)、富来城の攻略中に哨戒船が、東上中の城主である垣見一直からの密書を運んでいた飛脚船を捕え、西軍敗報に接する。その後、如水は藤堂高虎を通じて家康に領地切り取り次第を申し入れ、西軍に属した太田一吉の臼杵城(佐賀関の戦い)などの諸城(熊谷直盛の安岐城、毛利高政の角牟礼城と日隈城、毛利勝信の小倉城、毛利信友の香春岳城など)を落としていった。 国東半島沖の豊後水道付近では水軍が、関ヶ原より引き上げてきた島津義弘の軍船と戦い(義弘が同行していた立花宗茂と別れた後のことである)、焼き沈めている。10月14日、如水は兵5,000を柳川へ派兵し、自身は西軍に参加した小早川秀包の居城である久留米城攻めへ向かう。鍋島直茂と鍋島勝茂が32,000の兵を率いて久留米城攻めに参戦する。10月16日、柳川の支城である海津城を落とす。その後、宇土城攻めを終えた加藤清正も参戦する。交渉の上、立花宗茂は降伏し如水軍に加わる。そして11月に入り如水は立花宗茂、鍋島直茂、加藤清正を加えた4万の軍勢で九州最後の敵勢力である島津討伐に向かったが11月12日に肥後の水俣まで進軍したとき、徳川家康と島津義久との和議成立による停戦命令を受け、軍を退き解散した。


晩年と葬儀

関ヶ原の合戦の後、徳川家康は先に嫡子、長政に勲功として筑前名島(福岡)52万3,000石への加増移封をした後、井伊直政など徳川譜代の家臣や藤堂高虎の勧めもあり家康は、如水にも勲功恩賞、上方や東国での領地加増を提示するが如水はこれを辞退し、その後は中央の政治に関与することなく隠居生活を送った。晩年は福岡城に残る御鷹屋敷や、中興の祖と言われ再建に努めた太宰府天満宮内に草庵などを構えている。 また、上方と筑前を行き来し、亡くなる半年前には所縁の摂津有馬温泉に、療養滞在している。

慶長9年3月20日(1604年4月19日)の辰の刻、京都伏見藩邸(現在の京都市伏見区深草大亀谷敦賀町近辺)にて死去した。59歳。辞世の句は「おもひをく 言の葉なくて つゐに行く 道はまよはじ なるにまかせて」。死の間際、如水は自分の「神の小羊」の祈祷文およびロザリオを持ってくるよう命じ、それを胸の上に置いた。そして次のように遺言した。自分の死骸を博多の神父の所へ持ち運ぶこと、息子の長政が領内において神父たちに好意を寄せること、イエズス会に2000タエス(約320石に相当)を与え、うち1000タエスを長崎の管区長に、1000タエスを博多に教会を建てるための建築資金に充てること、である。また、家臣の殉死を禁止している。

4月のある夜、午後10半頃、博多の教会の宣教師たちは如水の遺骸を、博多の町の郊外にあって、キリシタンの墓地に隣接している松林のやや高い所に埋葬した。主だった家臣が棺を担い、棺の側には長政がつきそった。如水の弟で熱心なキリシタンであった黒田直之が十字架を掲げ、直之の息子と、徳永宗也の甥が松明を持ち、ペロ・ラモン神父とマトス神父は祭服を、修道士たちは白衣を着ていた。墓穴は人が200も入るほどの大きなもので、その中に着いたのち宣教師たちは儀式を行い、それから如水を埋葬した。同じ夜、長政は宣教師のもとを訪れ、葬儀の労に謝し、翌日には米500石を贈った。その15日か20日後、長政は仏式の葬儀もおこなっている。

如水の死から2年後、如水の追悼記念聖堂が完成し、慶長11年3月21日(1606年4月28日)からその翌日にかけて宣教師たちは荘厳な式典を行った。それは聖堂の献堂式に始まり、2日目には如水の追悼ミサが執り行われ、これには長政や重臣たちも参列した。ミサの後長政は、宣教師たちを福岡城に招いて宴を設け、照福院は教会のための特別な寄付をしたという。

後に息子の長政は京都の臨済宗大徳寺に、父如水を弔う為に塔頭、龍光院を建立。法要が行われた。同院は当初大徳寺最大の塔頭で如水の霊廟の他、大阪天満の如水屋敷にあった書院、茶室等を移築。これが今日まで残る天下の三大茶室国宝の密庵である。

また、如水の晩年の伝承に基づいた墓碑が各地に残存し、近年盛んに研究されている。滋賀県長浜市木之本地区、兵庫県但馬地方、香美町村岡地区など。


黒田八虎(くろだ・はっこ)

黒田一成
官兵衛の養子、上記参照。


栗山利安(善助)
筆頭家老、天正8年(1580年)、孝高が播磨国揖東郡で1万石を与えられると、利安も200石に加増された。天正16年(1588年)孝高が豊臣政権下で豊前中津の領主になると、一気に200石から5800石を加増されて6000石を与えられ、平田城代となった。文禄2年(1593年)に主君・孝高が隠居すると、その子の長政に仕えて朝鮮出兵にも参加し、晋州城の戦いで功績を挙げた。慶長3年(1598年)に帰国後、井上之房と共に宇佐神宮の造営に当たった。慶長5年(1600年)、会津征伐に従軍。その後の関ヶ原の戦いでは黒田如水(孝高)と共に豊後国に出兵し、西軍の大友義統と戦い(石垣原の戦い)、武功を挙げた。戦後、長政が筑前福岡藩に移封されると、朝倉郡に1万5,000石の所領を与えられ、麻底良城主となった。この時、息子の利章にも利安とは別に3300石を与えられており、合計2万石弱の大身となった。元和3年(1617年)に子の利章に家督を譲り、元和9年(1623年)に長政が死去したのを機に隠居し、一葉斎卜庵と号した。
寛永8年(1631年)8月13日の朝、病床にあり高齢の事もあり、看護の者達は枕元に集まってその死を看取ろうとしていた。その時、利安は目を開けていきなり「馬をひけ、鉄砲を用意せよ。あれに敵が出たぞ。あの山に鉄砲を上げて撃たせよ。敵の騎馬が来たら、折り敷いて迎え撃て。わしの采配を見て、慌てず静々とかかれ」と立て続けに述べ立てた。それに周囲は驚いて「かしこまりました」と答えると、利安はまた寝入り、1日の内に5度も同じ事を繰り返した末、8月14日の夜明けにに死去した。享年82。なお、死の直前のこの出来事に、人々は「絶えず軍陣の事を考え、敵に備えていた事がこの譫言でわかる。大剛の人、奇特な一念かな」と感嘆したという。


井上之房(九郎右衛門)
天正16年(1588年)、6000石を与えられる。文禄元年(1592年)に始まる文禄・慶長の役では朝鮮に渡り、参戦。慶長3年(1598年)に帰国後、栗山利安・母里友信と共に宇佐神宮の造営に当たる。慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いの際には孝高と共に豊前国中津におり、石垣原の戦いでは大友氏の家臣・吉弘統幸を討つ武功を挙げた。戦後、主君・長政の筑前国への移封の際に黒崎城を築き、1万6000石を領した。慶長12年(1607年)、長政の使いとして徳川秀忠・家光に拝謁して馬を賜った後、「周防守」を称する。慶長19年(1614年)の大坂冬の陣では黒田忠之に従って従軍。元和元年(1615年)、一国一城令の発令に伴い黒崎城を破却。元和9年(1623年)、1万3000石を孫の正友に譲り、隠居・剃髪して半斎道柏と名乗った。寛永10年(1633年)、福岡藩のお家騒動である黒田騒動が起こると栗山利章[大膳]と結んで倉八正俊[十太夫]を排斥した



母里 友信(もりとものぶ)
民謡の黒田節の大体の内容は以下のようなもである。

酒は呑め呑め 呑むならば 日本一(ひのもといち)のこの槍を 呑み取るほどに呑むならば これぞ真の黒田武士

文禄・慶長の役休戦中の際の出来事に由来するとされる。
京都伏見城に滞留中の福島正則の元へ、長政の使者として使わされた友信は、正則の屋敷で酒を勧められる。友信は家中でも「フカ」と言われるほどの酒豪の者であったが、使者である手前それを固辞した。しかし本人も酒豪である正則はこれに「飲み干せたならば好きな褒美をとらす」としつこく勧め、更には黒田武士は酒に弱い、酔えば何の役にも立たないからだ、などと家名を貶める発言をした。そこで友信はこれを敢えて受けて大盃になみなみと注がれた数杯の酒を一気に呑み干すと、褒美として、正則が豊臣秀吉から拝領した名槍「日本号」を所望する。正則は不覚を取ることとなったが「武士に二言は無い」という言葉を受けて褒美に差し出した。これによって「呑取り日本号」という異名と、越天楽(筑前今様)の節回しと供に「黒田節」として、黒田武士の男意気を示す逸話として広く知られるようになった。

嫡男の母里吉太夫(きちだゆう)は、慶長2年(1597年)、朝鮮出兵に参加していた父・孝高や兄・長政を見舞うため朝鮮半島に渡ろうとした黒田熊之助に同行したが、その途中で暴風に遭って船が沈没し、熊之助、黒田吉松(黒田一成の弟)・木山紹宅とともに亡くなっている(享年16)。実弟の野村祐勝も友信と同じく黒田二十四騎の一人であり、子孫は福岡藩の家臣として続いた。

筆頭家老の栗山利安と如水の命により若い頃に義兄弟の誓紙を交わした。如水が死ぬ間際、二人を呼び「これはあの時の誓紙。本来なら今はもう返すべきだと思うが、最後まで約束を守ってくれた頼もしい誓紙だから冥土まで持って行こうと思ってる。自分が死んだら、お守りとして棺の中に入れておいてくれ。」と笑いながらそれを大切そうに懐に中に入れたという(古郷物語)。


後藤又兵衛
当時の記録に基次の具体的な足跡が現れるようになるのは、天正14年(1586年)、九州征伐の宇留津城攻めの頃からである。戸次川の戦いにおいて仙石秀久が島津家久に大敗し、領国の讃岐国に逃げ帰った後には、黒田孝高の重臣である栗山利安の与力となり、黒田家に100石で仕えている。領地替えを巡って徹底抗戦を行った城井氏との戦いでは、吉田長利と共に途中で黒田長政に退却を勧めるが聞き入れられずに敗北を喫し、天正15年(1587年)12月の長岩城攻めの際には瀕死の重傷を負った。文禄元年(1592年)から始まる朝鮮出兵にも従軍し、第二次晋州城攻防戦では亀甲車なる装甲車を作って城壁を突き崩し[6]、加藤清正配下の森本一久らと一番乗りを競った。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは石田三成家臣の剛槍使い、大橋掃部を一騎討ちで破るなどの武功を挙げ、戦後大隈城(益富城)16,000石の所領を与えられた。
如水(孝高の法号)の死から2年後の慶長11年(1606年)、基次は一族揃って黒田長政が後を継いだ黒田家を出奔する。(なぜかは色々な説があるので、なんとも)
有名なのは大阪冬・夏の陣ですね。真田幸村(信繁)とともに活躍し討ち死しました。


黒田利高(1554年-1596年)兵庫助、次郎、小一郎:黒田職隆の次男、黒田孝高の実弟。筆頭
黒田利則(1561年-1612年)修理亮、四郎太:黒田職隆の三男、黒田孝高の異母弟。
黒田直之(1564年-1609年)図書助、惣右衛門、市兵衛、黒田職隆の四男、黒田孝高の異母弟。


黒田騒動(栗山大膳事件。伊達騒動、加賀騒動または仙石騒動とともに三大お家騒動と呼ばれる。栗山大膳[利章]は栗山利安の息子)
長政は世継ぎ継承にあたり長男忠之の狭器と粗暴な性格を憂い、三男の長興に家督を譲ると決め忠之に書状を送る。書状には二千石の田地で百姓をするか、一万両を与えるから関西で商人になるか、千石の知行で一寺建立して僧侶になるかと非常に厳しいものであった。これに後見役の栗山大膳は、辱めを受けるのなら切腹をとの対応を忠之に勧める。そして六百石以上二千石未満の藩士の嫡子達を集め、長政に対して廃嫡を取りやめなければ全員切腹すると血判状をとった。この事態を重く見た長政は嘆願を受け入れ、大膳を後見役に頼んだ後に死去。そこで大膳は忠之に諌書を送ったが、これが飲酒の心得や早寝早起きなど子供を諭すような内容だったため、忠之は大膳に対し立腹し次第に距離を置くようになる忠之は寛永元年(1624年)藩主就任早々、忠之及びその側近と、筆頭家老であった大膳はじめ宿老達との間に軋轢を生じさせ、生前の長政が憂いていたとおりにお家騒動へと発展した。忠之は小姓から仕えていた倉八十太夫(くらはち じゅうだゆう。名は正俊、または家頼)を側近として抱え、1万石の大身とした。そして十太夫に命じ豪華な大船・鳳凰丸を建造、更に200人の足軽を新規に召し抱えるなど、軍縮の時代にあってそれに逆行する暴政を行った。これにより遂に藩は幕府より咎めを受けるに至った。 大膳も寛永9年(1632年)6月、忠之が幕府転覆を狙っていると幕府に上訴した。藩側は「大膳は狂人である」との主張を行い、寛永10年(1633年)2月幕府は藩側の主張を認め、所領安堵の触れを出し10年に及ぶ抗争に幕を閉じた大膳は騒動の責を負って陸奥国の盛岡藩預かりとなり、十太夫も高野山に追放された。黒田藩はこれで改易を免れた。なお、十太夫は島原の乱で黒田家に陣借りして鎮圧軍に従軍したが、さしたる戦功は挙げられず、黒田家復帰はならなかった。のち上方で死去したという。十太夫の孫・宅兵衛に至り、ようやく再仕官を許されている。なおこの時に盛岡南部藩へ預かりとなった栗山大膳は藩祖黒田孝高所用の兜も一緒に持参した。現在、もりおか歴史文化館に所蔵されている。