1886年、ベンツとダイムラーがほぼ同時期にガソリンエンジンの自動車(3輪)を完成させた。

全体の流れを見ると

フランス人はエンジン設計、パワートレイン系技術に飛びつき、国が産業保護政策で生き抜いてきた。

イタリア人はレースに飛びつき、オイルボーイ、メカニック、エンジニア、経営者とのし上がる。最後はイタリアの自動車産業を!という大資本家企業のフィアットに全て傘下ということになったが、大量生産、品質向上という競争には勝てず、カダフィ大佐を騙して生きながらえた。現在ではイタリア国籍ではなくなったという皮肉になってしまった。

イギリス人はビジネスを考えて過ぎて、逆に海外資本に淘汰されてしまった。ただし、フィアットの主要な株主の一つにイギリスのロスチャイルド財閥があることは忘れてはならない。
N・M・ロスチャイルド・アンド・サンズ


1895年までに登場した10ブランドのヨーロッパ車
Sは蒸気自動車、Gはガソリンエンジン車

フランス:ボレー・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・1873~、S→G
フランス:ド・ディオン・・・・・・・・・・・・・・・1883~、S→G
ドイツ :ベンツ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・1886~、G
ドイツ :ダイムラー・・・・・・・・・・・・・・・・・1889~、G
フランス:セルポレ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・1889~、S
フランス:パナール&ルヴァソール・・・・・1889~、G
フランス:プジョー ・・・・・・・・・・・・・・・・・・1889~、S→G
フランス:モール・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・1895~、G
フランス:ベルリエ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・1895~、G
イギリス:ランチェスター・・・・・・・・・・・・・1895~、G

レオン・ボレー(フランス)
レオン・ボレー(1870年生)は、パリ万国博覧会に自分の発明した計算機を出品して来場した観客の関心を引くなど、すぐれた技術的才能をもっていた。
レオンは父や兄の影響を受けて自動車設計に強い関心を持つようになり、レオン・ボレー社を創立した。
1896年に空冷方式で排気量640cc出力3HPの単気筒エンジンを搭載して、“ヴォワチュレット”と名付けた前2輪・後1輪で縦並び2人乗り(タンデムシートという)の3輪自動車を製作した。
このクルマにはワイヤースポーク付きの空気入りゴムタイヤが採用され、重量が150キロしかない軽快車となったので最高速度は35キロを出すことができた。このヴォワチュレットは大人気を獲得してヨーロッパ中に出荷された。スピードが出るように改良を図って各地のレースに出走したところ、結果は上々で好成績をおさめることができた。
やがて、レオンが使ったフランス語のヴォワチュレットという名称は、ヨーロッパ各国に共通する小型軽量車の代名詞となった。
3輪車の好評を得たレオンは4輪車のヴォワチュレットを設計し、このクルマの製造権を、フランス人事業家のアレクサンドル・ダラックと、イギリス人でデイムラー社を創設したばかりのハリー・ローソンに売り渡した。
レオン・ボレーの技術を使って、ダラックは5速ギヤボックスと空気入りゴムタイヤを標準装備とする小型4輪車を開発している。


パナール社(フランス)
元々は1845年、パリ郊外のイヴリーにジュール・ペリン(Jules Perin)の手で設立された木工会社であったが、1867年ルイ・フランソワ・ルネ・パナール(Louis François Rene Penhard 1841-1908)が入社。ルネ・パナールは優秀な技術者でペリンの信頼を得、まもなく社名は「ペリン・パナール」になった。
ルネ・パナールのエコール・ポリテクニークでの学友であるエミール・ルヴァッソール (Emile Levassor 1843-1897)が、1873年に入社した。ペリンが後に引退することで、会社はパナールとルヴァッソールによって経営されることになり、社名は「パナール・エ・ルヴァッソール」になった。社業は順調に拡大して木工に留まらない機械工作分野に進出、1880年代にはミシンの生産にまで乗り出していた。
同社では取引のあったベルギー人弁理士エドゥアール・サラザンの依頼により、サラザンの取得していたゴットリープ・ダイムラーのガソリンエンジンのフランスにおける製造ライセンスによって、1887年からエンジン生産体制構築に着手した途中、1887年12月にサラザンが急逝するアクシデントはあったが、サラザン未亡人ルイーズの尽力でダイムラーとのライセンスを維持、更にルヴァッソールがルイーズと恋愛関係に陥って結婚してしまったことで、エンジンのライセンスはルヴァッソールに移った。

同じ頃、エンジン開発の本家であるダイムラーでは鋼管シャーシの四輪自動車開発を開始しており、これに刺激されたパナール社も高速軽量なガソリンエンジンの機能を活かして自動車開発を試みる。1890年に、リアの床下寄りにエンジンを搭載した、フランス最初のガソリン自動車を開発した。続いてガソリン自動車開発を企図したプジョーには、初期のエンジン供給を行っている。

しかしリアエンジン試作車の性能は不十分であったため、この克服策を研究した結果、1891年には車体前方にエンジンを置いて後輪を駆動する「フロントエンジン・リアドライブ方式」を世界のガソリン自動車で最初に実用化する。従前主流であったリアエンジン方式よりも安定性に優れることから大きな成功を収めた。

更に1895年には、オイルを満たしたケースにギアセットを納める「密閉型ギアボックス」を備えたトランスミッションを実用化、続いて車体前端へのラジエターの設置や、丸ハンドルの導入など、現代にも通じる、自動車技術史上に残る重要な発明を成し遂げ、自動車の実用化、工業化に多大の貢献を行った。

この過程で、1895年から1903年にかけて多くの自動車レースにも勝利した。中でも1895年のパリ・ボルドーレースでの勝利は、既に52歳で若くなかったエミール・ルヴァッソール自身が2気筒パナールのハンドル(丸ハンドル導入前で、直進性の悪い梶棒であった)を握り、往復1,200kmを昼夜兼行・50時間不眠不休で操縦するという超人的活躍で1着を達成したもので、モータースポーツ史の黎明期における名高い戦績である。

ルヴァッソールが1897年に急逝して以来、その技術・経営は徐々に保守化してゆく。
残されたルネ・パナールや経営幹部でレーサーでもあるルネ・ド・クニフらは、専ら大排気量化によって市場競争力を確保する、手堅いが凡庸な策を用いた。1903年以後はダイムラー社の「メルセデス」に影響された追従的設計を用いるようになり、以降は、やや旧式な設計の大排気量車を生産する高級車メーカーとして存続することになった。


プジョー社(フランス)
フランス東部フランスシュ・コンテのValentigneyにて1810年頃から冷間製鉄、歯車、ペッパーミル(こしょう挽き)や鯨の骨からポンパドゥール・スカートの骨を作ったりする金属製造業を営んでいたエミール・プジョーとジャン・ペリエの息子として1849年に生まれたアルマン・プジョーが1865年から経営に参加し、のちに会社としてプジョーを創設した。1882年に"Le Grand Bi"というペニー・ファージング型の自転車を同社のラインナップに追加、その後自動車に興味を持ったアルマンは、ドイツの技術者であり内燃機関および自動車開発のパイオニアであったゴットリープ・ダイムラーらと会ったあと、1889年に蒸気エンジンを搭載した3輪のプジョー初の自動車を4台製作し自動車製造業を始めた。翌1890年ゴットリープ・ダイムラー、エミール・ルヴァッソールと会合をした上で、パナールがダイムラーのライセンス下で製造するガソリンエンジンを蒸気エンジンに替わって採用することになる。その後製造台数を徐々に増やしていき1895年までに約140台を製造しており、世界最古の量産自動車メーカーのひとつとして知られている。1896年には初のプジョー製エンジンを搭載したタイプ15を登場させると同時にSociété Anonyme des Automobiles Peugeotを創立し、甥のロベールの経営によって発展を続けていく。

ルノー社(フランス)
1898年 ルイ・ルノー(仏、Louis Renault 、1877年-1944年)とその兄弟によって「ルノー・フレール」社として設立された。
フランスのパリ郊外に住む技術者であったルイ・ルノーは、1898年にド・ディオン・ブートン車の改造によって、現在のプロペラシャフト式フロントエンジン・リアドライブ方式(FR)の原型である「ダイレクト・ドライブ・システム」を発明した。この斬新な機構は瞬く間にフランス中の自動車会社に模倣されることとなり、1914年に特許が切れるまでの間に当時の金額で数百万フランを越える莫大な特許料がルノーに転がり込んだ。

1899年にはこの機構を搭載した自動車「ヴォワチュレット」(Voiturette)を発売し、商業的成功を収めたことを受け、「ルノー・フレール」社を設立した。その後は事業規模の拡大に合わせ、1904年にはフランス国内に120店舗の販売代理店網を構えるなど、事業基盤を強固なものにする。先進諸国のモータリゼーションの拡大により、イギリスやドイツ、日本など諸外国への輸出も開始した他、ロシアに工場を建設するなど急激にその生産台数を伸ばした。

ルイ・ルノーの逸話
ルイは3輪であったクルマを4輪に改造することに熱中した。そして、ルネ・パナールが開発したフロントエンジン・リヤドライブ(FR)の考えを取り入れて、エンジンをフロントに移した。
当時のクルマはエンジン動力を車輪に伝える方式として皮ベルトかチェーンが普通であったが、ルイは鋼鉄製のシャフトで後輪を駆動する画期的なシャフトドライブ方式を、世界のどのメーカーより早く開発したのである。また、エンジンの回転を最適速度に変換する3速ギヤボックスを開発したが、このギヤボックスのトップギヤは、エンジン回転をそのまま車輪に直結する世界初のダイレクト駆動構造となっていて、21歳という若さあふれる発想力とそれを解決する技術力は、まさに天才といっても過言でないほどの冴えであった。


クレメント・バイヤード社(フランス)
1903年 ギュスターブ・アドルフ・クレメント(1855-1928)がメジエールにて設立。アドルフ・クレメントは、先にクレメント社を設立しており、「クレメント・グラディエーター」の名で自動車の製造を継続していた。
クレメント・バイヤードの製品はイギリスへ輸出された。イギリス側の輸入会社はタルボット卿の出資によって設立され、クレメント・タルボットを名乗った。これが「タルボ」ブランドの始まりとなった。やがて、イギリスへ部品を輸送し、ロンドンの工場で組み立てるようになり、どちらの製造工場でも同じように自動車を製造していた。
1907年、 ユニットギアボックスとダッシュボードラジエターを備えたニューモデルの「10/12 hp」が登場。 工場は、急速に成長したシトロエンに1922年に買収された。

タルボ(イギリス)
フランス・メジエールの工場とロンドンの工場は別々に生産および販売を行っていたが、1919年にイギリス資本でパリに本拠を置くダラックによって買収され、ダラックが製造した自動車を「タルボ-ダラック」ブランドで販売した。
1916年にスイス生まれのエンジニアであるジョルジュ・ローシュが設計主任になり、1920年代前半には14/45hpやタルボ105といった傑作が生み出され、1930年代にはローシュが設計したレーサーがレースで活躍した。

サンビーム (Sunbeam)ブランド(イギリス)
ジョン・マーストン (英、John Marston、1836-1918) は漆工(金属塗物師)として出発、23歳の1859年にブリキメーカーを買収して独立、熱心な自転車愛好家であった彼は1877年にSunbeamland自転車工場 (Sunbeamland Cycle Factory) を立ち上げ、サンビーム自転車の生産を開始した。1899年には自動車の試作を開始、1901年に市販第1号車が完成した。1905年に自動車部門は自転車やモーターサイクルとは独立した会社となり、サンビームの社名もサンビーム・モーターカー (Sunbeam Motorcar Company Ltd) となった。

1909年にハンバーから移籍した設計者、ルイス・コータレン(Louis Coatalen)の手によって、サンビームの設計は次第に進歩し、ほとんどの部品を自製するようになり、1912年頃には非常に高品質の車を少数生産するメーカーとして、「ロールス・ロイスが少し派手であると思う人のための車」というポジションを獲得する。


ダラック社(フランス~イタリア~イギリス)
1899年 アレクサンドロ・ダラック(仏ボルドー出身)にレオン・ボレーのベルト駆動自動車の権利を買い自動車販売を始める。ベルト駆動車は売れなかった。
ダラックはポール・リベイロという若手エンジニアを採用し、設計を任せて完成したのが6.5HPモデルである。〈ダラック/6.5HP〉は、ルノー車と同じシャフトドライブ方式で、単気筒エンジンをフロントにおき3段ミッションギヤを経由して後輪を駆動するという、フロントエンジン・リヤドライブ(FR)の構造が最初から採用されていた。コンパクトで安価であり、それなりの売れ行きを示した。特にイタリアでは小型車需要は高く、〈ダラック/6.5HP〉はたいへん好評で、ダラック社の礎をつくることに成功した。

1902年 オペル社(独)がダラック社とドイツ国内でのライセンス生産の契約を結び、ダラック製シャシーとダラック製の排気量1.1リッターの4気筒エンジンを輸入して、その上にオペル社がボディを架装するという生産体制となる。(Opel社がダラック/6.5HPを評価してのこと)
1905年 イタリアーナ・ダラック株式会社を創設(ナポリ)ポルテッロ工場生産開始
1907年 アカディール危機で経営危機になる。
1919年 タルボ(クレメント・タルボットのイギリス工場ブランド)を買収。タルボット-ダラック(Talbot-Darracq)社となる。
1920年8月 サンビームを買収し、サンビーム-タルボット-ダラック、またはSTDモータースと呼ばれた。

フィアット(イタリア)
1899年 ジョヴァンニ・アニェッリら数人の実業家の出資によって、トリノで創業された。
会社名はイタリアとトリノが分かるようにと『トリノのイタリア自動車製造会社(Fabbrica Italiana Automobili Torino)』と決定された。


フランスからエンジン技術を学んだジョヴァンニ・チェイラノがトリノを走り回っているドイツ製のベンツやダイムラー、フランス製のパナール&ルヴァソールやプジョーなどを研究し、見よう見まねで製作を始め、1899年4月に〈ウェリーズ/3.5HP〉という自動車を完成させる。


ビアンキ(イタリア)
1897年 エドワルド・ビアンキはオートバイを手がけるようになった。これにも反応があったが本命はガソリンエンジン車なので、その翌年にド・ディオン・ブートン製の空冷単気筒エンジンを載せ後輪を駆動するという自転車ベースの4輪自動車がつくられた。
そんな時に、ジュゼッペ・メロージという技術者が技師長に就いて腕をふるうようになり、1900年に、ビアンキ社として2番目となるモデルの販売が始まり、ビアンキ社はイタリアでのトップメーカーを目指して歩み始めるのである。


A.L.F.A社(イタリア)
1909年 自前の自動車会社が欲しい地元の企業家集団がミラノ農業銀行から 50万リラの融資を受け、イタリアーナ・ダラック社を買収した。これがロンバルディア自動車製造株式会社 "Societa Anonima Lombarda Fabbrica Automibili" (A.L.F.A.)
1910年 ウーゴ・ステッラがリーダーで100人の従業員と20人の管理職で始動する。ここでダラック社の自動車をそのままとせず、自分らで作ろうと、ビアンキで設計技師をしてたジュゼッペ・メロージを引き抜きA.L.F.A. 最初のブランド"24HP"を完成させる

1918年にナポリ出身の実業家ニコラ・ロメオ(Nicola Romeo)のニコラ・ロメオ技師有限会社と吸収合併し、会社名がニコラ・ロメオ技師株式会社となった。そして1920年、1921M/YのAlfa Romeo 20/30 E.Sport のエンブレムに、旧ブレンドの"ALFA"と新会社のロゴ"ROMEO”を結んだ新ブレンド名”ALFA-ROMEO"が誕生する。ニコラ・ロメオは、レースが販売促進でも技術力向上でも有益であることを理解していたので、ジュゼッペ・メロージをはじめとするアルファ・ロメオの技術スタッフは更なる高性能スポーツカー開発に没頭。初期の傑作「RL」シリーズがデビューする。「RL」はあらゆるレースで大活躍し、アルファ・ロメオの名声を一気に高めた。

1920年代から1930年代にかけ、アルファ・ロメオのレース部門の総責任者であったエンツォ・フェラーリは後に独立し、フェラーリ社を設立した。後年、彼は自分の名を冠した車でアルファ・ロメオ車に勝利したとき、「私は自分の母親を殺してしまった」という複雑な感慨を周囲に漏らしたという。


シトロエン(フランス)
1919年 ダブルヘリカルギア(やまば歯車)の製造と大砲用の砲弾製造で財を成したアンドレ・シトロエン(André Citroën)が、ヨーロッパにおける自動車の大衆化を目指し、フランス版フォードとなるべく設立した企業である。創立は遅いという点に特徴が見える。
新しい技術をいち早く採用することで知られ、それは「10年進んだ車を20年間作り続ける」と形容された。
創業にあたり、ジュール・サロモンの設計で1919年に発売されたタイプAはシトロエン最初の生産車であると共に、ヨーロッパで最初の大量生産方式によって製造された自動車であった。1925年に発表されたB12はヨーロッパで最初のオール鋼製ボディを持った大量生産車である。また、現代では当然となった4輪ブレーキもこの時に導入した。1932年にはモノピースという溶接による一体ボディ構造の8、10、15を発表する。このように、1930年代前半までのシトロエンは、アメリカ合衆国で実用化された進歩的自動車技術をいち早く咀嚼してヨーロッパに導入するメーカーであった。


ロールス・ロイス(イギリス)
1902年 ヨーロッパ車の輸入代理店C・S・ロールズ(C.S.Rolls&Co. )を設立して自動車の輸入ビジネスを営み、フランス製のパナールとモール、後にはベルギー製のミネルヴァを扱った。

1902年に、長年の過労で体調を崩して療養を勧められたフレデリック・ヘンリー・ロイスは、療養中にフランスのドコービル製のガソリン自動車「12HP」を購入した。ところがこの車は扱いにくい上に度々故障を起こし、幾度修理を重ねてもまともに実用にならなかった。ロイスは強い不満を感じた。
その頃人件費の安いアメリカやドイツのメーカーがロイスの市場(電気器具)に競合相手として出現してきた。ロイスと共同経営者のアーネスト・クレアモントは新しい分野の市場を開拓する必要に迫られていた。そこで自動車の将来性に着目したロイスは、自ら自動車を製作することを決意した。1903年から自社の優秀な電気工数人を助手として、マンチェスター・クックストリートの自社工場で開発に着手。昼夜を次いでの開発作業の結果、極めて短期間のうちに試作車を完成させた。
1904年に完成した「10HP」は、Fヘッド(フラットヘッド)の直列2気筒1,800ccエンジンを前方に搭載し、3段変速機とプロペラシャフトを介して後輪を駆動する常識的な設計だった。奇をてらわない堅実な自動車で運転しやすく、極めてスムーズで安定した走行性能を示し、実用面でも充分な信頼性を持っていた。メカニズムについてはあくまで単純で信頼性の高い手法を取ったが、トレンブラー高圧コイルとバッテリーを組み合わせた点火システム、そしてガバナー付の精巧なキャブレターは、当時としては最高に進んだ設計で、エンジン回転の適切なコントロールができた。4月1日に行われたテストドライブでは16.5mph(約26.5km/h)のスピードで145マイル(約233km)を走破した。
1904年5月にマンチェスターで「10HP」に試乗したチャールズ・ロールズとクロード・ジョンソンは、性能の優秀さにいたく感銘を受けた。ロールズは「ロイス車の販売を一手に引き受けたい」と申し出、ロイスもこれを了承した。
2気筒の「10HP」とその気筒数を増やして延長した3気筒「15HP」、4気筒の「20HP」、6気筒の「30HP」を製作、当時のイギリス車の中で性能的に群を抜いた存在として注目され、自動車先進国であるフランスでもパリでの展示会で高く評価されるなど成功を収めた。すでに「パルテノン神殿をモチーフとした」とされる独特のラジエーター・デザインはこの頃に定着していた。

1906年 C・S・ロールズとロイス自動車部門の合同でロールス・ロイスが設立される。

20HPは1906年、T.T.レースで雪辱を果たし、平均速度39mph(約63km/h)の快速で優勝している。

1906年、「シルヴァーゴースト」フレデリック・ヘンリー・ロイスは従来の「30HP」に代わるモデルとして、新型の6気筒車を開発した。「40/50HP」型として発表されたこのモデルは、ロールス・ロイスの世界的な名声を確立した名車として知られている。


ベントレー(イギリス)
1912年、ウォルター・オーウェン・ベントレーはフランス製乗用車の輸入業を営むラコック&フェルニーに転職、ここでW.O.はDFPという乗用車にチューニングを施したレーシング・カーの開発に従事、自身でワークス・ドライバーも兼ねていた。その年に行なわれた2リッター車のレースでは最高時速107kmを記録していた。ところがその翌年、W.O.によってチューニングされたDFPは最高時速131kmという新記録を打ち立てる。その秘密はW.O.が新開発したピストンにあり、アルミと銅を混ぜるという当時としては斬新な新技術を採用していた。第一次世界大戦勃発とともに、イギリス海軍航空隊の大尉となったW.O.は自身が開発したアルミ製ピストンを航空エンジンに応用し、彼の設計は航空エンジン中、最高のものという評価を受けるようになり、大戦中幅広く活躍した。大戦終結後、W.O.は自動車設計の世界に復帰、自動車メーカーの立ち上げを志すようになる。

1919年8月、W.O.はベントレー・モーターズをロンドンのクリックルウッドに設立。その後、1924年~1930年にル・マン24時間レースで5回の優勝を飾るなどモータースポーツで名を上げ、高性能スポーツカーメーカーとして世界の富裕層に好んで使用された。しかしその翌年の1931年にロールス・ロイスに買収され、レース活動が封印された。


オースチン(イギリス)
ハーバート・オースチン(1866–1941)(のちハーバート卿)はウーズレー・ツール&モーター・カー・カンパニーの工場長で、ウーズレー社で1896年には自動車を製作していた。1905年にオースチン・モーター・カンパニー(The Austin Motor Company)をロングブリッジに設立し、のちウスターシャーに移る。最初の車は保守的な排気量5リッター直列4気筒のチェーン駆動モデルで、5年間で約200台を生産した。第一次世界大戦中英国政府の調達を受け、大砲から飛行機まであらゆるものを製造し、2500人だった従業員は2万2000人へと増えた。これによりオースチンは大変な成長を遂げた。

戦後、ハーバート・オースチンは3620cc、出力20hpのエンジンを中心としたワンモデル・ポリシーを掲げる。一つのエンジンで乗用車、商用車、そしてトラクターまでをも製作しようとした。しかし、膨れ上がった工場規模を満たすだけの需要は起きず、1921年に管財人の手に委ねられる。しかし、そこで金銭面を整理したのち会社は再び開花することになる。1922年、1661ccのオースチン・12(トゥエルブ)、続いてオースチン・ 7(セブン)が小型車市場に投入された。

「7(セブン)」は、低価格の小型で簡素な車で、かなり早い時代に大衆車市場を狙ったモデルと言える。この「7」は、ドイツのBMWの最初の自動車デキシー(Dixi)として、そして米国のバンタム(Bantam)、フランスのローザンギャール(Rosengart)がライセンス生産を行ったモデルでもある。日本のダット自動車が製作したダットソンは、ライセンスを受けていなかったが、「7」の車両デザインを使用し、非常に似た車両となっている。日産自動車の社史では触れられていないが、オースチンの社史では日産との関係があることが触れられている。



--- 現在 ----
イギリスについては・・
ロールス・ロイス => BMW
MINI => BMW
ベントレー => ロールス・ロイス => VW

1952年、イギリスの大手2大自動車製造会社 Austin Motors と Nuffield Organization が合併し、前者の Austin ブランド、後者の Morris 、MG、Wolseley 、Riley のブランドを所有するイギリス最大の自動車メーカーとなった。 (British Motor Corporation; BMC)
1966年、ジャガー及びディムラーのブランドを持つジャガーを吸収、持ち株会社のブリティッシュ・モーター・ホールディングス (BMH)が発足。
1968年、レイランドグループと、ローバーグループと合併、ブリティッシュ・レイランド・モーター・コーポレーション (BLMC) となる。


1976年~ PSA・プジョーシトロエン(PSA Peugeot Citroën)は、プジョー自動車を製造発売する「オートモビル・プジョー社」およびシトロエン自動車を製造発売する「オートモビル・シトロエン社」をはじめとする事業会社を保有する、フランス共和国の持株会社「プジョー株式会社」である。
ヨーロッパやアジア、オセアニア、アフリカ、中南米(含メキシコ)に輸出もしくは現地生産しているが、アメリカ合衆国及びカナダ市場はシトロエンが1985年に、プジョーは1991年に撤退した。 プジョー家はPSA・プジョーシトロエンの発行済み株式の30%を保有している。

2008年の販売台数は295万2,000台・世界市場でのシェアは5%。西欧市場では207万9,000台・シェア13.8%でVWに次ぐ規模であり、そのうちプジョーは108万4,000台、シトロエンは99万4,000台。
2009年の販売台数は不況にもかかわらず318万8,000千台となり、世界市場でのシェアは5.1%とほぼ横ばい。中国市場向け専用車が好調で、中国での販売が前年比52%増。


1998年~ ルノー(Renault S.A.S.)は、フランスのパリに本社を置く自動車製造会社。フランス政府が株式の約15%を保有している。事実上の子会社の日産自動車などを含めると、ヨーロッパ最大の自動車会社である。
フランスの二大自動車企業の一角を占め、先進的なデザインと優れた安全性能、高品質が高い評価を受け、1998年以降2004年まで連続でヨーロッパ第1位の販売台数を維持した。

2011年現在、韓国のルノーサムスン自動車、ルーマニアのダチア、ロシアのアフトヴァースの株式を保有し、これらを傘下に収めている。また日本の日産自動車とお互いの株式を持ち合い名目上は対等の「ルノー=日産アライアンス」を構成しているが、日産はフランスの国内法の制限により議決権を行使できないため、ルノーが事実上傘下に収めている。これらの傘下に収めたグループ企業を含めると、2011年度の新車販売台数の実績では、日本のトヨタグループを抜いて、アメリカのGMとドイツのフォルクスワーゲングループに次いで世界第3位の規模の会社となる。また商用車製造社の世界的再編では、商用車専門の子会社のルノーV.Iをボルボに売却する一方、ボルボの株を20%保有し影響力を保持している。


フィアット・クライスラー(2014年)
第二次世界大戦後にジョヴァンニ・アニェッリの孫のジャンニ・アニェッリ(ジャンニは愛称、本名は祖父と同じジョヴァンニ)が経営を引き継いでからは、ランチア、フェラーリ、アルファ・ロメオ、マセラティ、アウトビアンキ、アバルトなど、イタリア国内の自動車メーカーなどを次々と傘下に収め、同国最大の自動車メーカーとなっている。また、商用車部門としてイヴェコ、電装部品部門としてマニエッティ・マレリなども傘下に収めている。現在のフィアット本体は主に比較的小型の大衆向け乗用車を生産し、高級車などは傘下のメーカーが生産している。
フィアットは石油ショックやその後の慢性的な労働争議により経営が不安定化し、1974年から1978年まで新型車の発表がなかった。リビアの元首であるカダフィ大佐からの融資を受け入れ、その後1980年代始めに発売された、斬新な設計の小型車「パンダ」と「ウーノ」の成功で窮地を脱した他、エンツォ・フェラーリ亡き後のフェラーリを完全子会社化した。
1979年のデビュー以来根強い人気に支えられてきたパンダの後継であるニューパンダが2004年度のヨーロッパ・カー・オブ・ザ・イヤーを受賞した。
2009年1月には、サーベラス・キャピタル・マネジメント傘下で経営再建を目指しているクライスラーに資本参加し、35%の株式を取得する資本提携合意を発表した。フィアットは、クライスラーが北アメリカ市場で燃費性能の高いコンパクトカーを生産するための技術などを提供すると同時に、北アメリカ市場以外におけるクライスラー車の販売でも協力することを表明した。2014年1月には、クライスラーを完全子会社化すると発表し、同年末までに合併も視野に入れているとされる。