映画「ハンナ・アーレント」レビュー

ハンナ・アーレントの提唱した「悪の凡庸さ」は、20世紀の政治哲学を語るうえで大変重要なものです。人類史上でも類を見ない悪事は、それに見合う怪物が成したのではない、思考停止し己の義務を淡々とこなすだけの小役人的行動の帰結として起こったとするこの論考は、当時衝撃を持って受け止められました。凡庸な人間がそうした悪になり得るということは、人間は誰でも思考を放棄すればアイヒマンのようなことをしでかすかもしれない。その可能性を考えるのは怖い。なので人はその可能性に眼をつぶり思考停止してしまいたくなる。しかし「悪の凡庸さ」が突きつけるのは、人間と非人間と分け隔てるのは思考することであるとします。

「悪意を理解しない、認識しない凡人の悪行が最悪の悪である。」


凡庸:(ぼんよう)平凡でとりえのないこと。また、その人や、そのさま。

『イェルサレムのアイヒマン』(Eichmann in Jerusalem: A Report on the Banality of Evil)はハンナ・アーレントが1963年に雑誌ザ・ニューヨーカーに連載したアドルフ・アイヒマンの裁判記録である。副題は「悪の陳腐さについての報告」。みすず書房に大久保和郎の翻訳がある。

ホロコーストの中心人物で、第二次世界大戦後にアルゼンチンのブエノスアイレスでリカード・クレメント(Ricardo Klement)という名で潜伏生活を送っていたアドルフ・アイヒマンが、イスラエルの諜報機関によって極秘逮捕されてエルサレムに連行され、1961年4月11日に始まった公開裁判の後に死刑執行されるまでを描いた本。裁判の様子を描いただけではなく、ヨーロッパ各地域で如何なる方法でユダヤ人が国籍を剥奪され、収容所に集められ、殺害されたかを詳しく綴っている。

アーレントはこの本の中でイスラエルは裁判権を持っているのか、アルゼンチンの国家主権を無視してアイヒマンを連行したのは正しかったのか、裁判そのものに正当性はあったのかなどの疑問を投げ掛けたほか、アイヒマンを極悪人として描くのではなく、極普通の小心者で取るに足らない役人に過ぎなかったと描いた

また、アーレントは国際法上に於ける「平和に対する罪」に明確な定義がないことを指摘し、ソ連によるカティンの森事件や、アメリカによる広島・長崎への原爆投下が裁かれないことを批判している。


発表されてすぐに『イェルサレムのアイヒマン』はユダヤ人やイスラエルのシオニスト達に激しく非難された。「自らを嫌うユダヤ人がアイヒマン寄りの本を出した」とか「ナチズムを擁護したのではないか」と言われた。彼女を裏切り者扱いするユダヤ人やシオニスト達に対しアーレントは、「アイヒマンを非難するしないはユダヤ的な歴史や伝統を継承し誇りに思うこととは違う。ユダヤ人である事に自信を持てない人に限って激しくアイヒマンを攻撃するものだ」と反論した。因みに、スタンフォード大学がこの本を参考にして1971年に監獄実験を行った。

これはスタンフォード監獄実験=心理学者フィリップ・ジンバルドーの指導の下に、刑務所を舞台にして、普通の人が特殊な肩書きや地位を与えられると、その役割に合わせて行動してしまう事を証明しようとした実験。実際においても役割に沿って行動が変わることが証明された。


アドルフ・オットー・アイヒマン(Adolf Otto Eichmann、1906年3月19日 - 1962年6月1日)は、ドイツの親衛隊(SS)の隊員。最終階級は親衛隊中佐(SS-Obersturmbannführer)。ドイツのナチス政権による「ユダヤ人問題の最終的解決」(ホロコースト)に関与し、数百万の人々を強制収容所へ移送するにあたって指揮的役割を担った。

戦後はアルゼンチンで逃亡生活を送ったが、1960年にイスラエル諜報特務庁(モサド)によってイスラエルに連行された。1961年4月より人道に対する罪や戦争犯罪の責任などを問われて裁判にかけられ、同年12月に有罪・死刑判決が下された結果、翌年5月に絞首刑に処された。イスラエルでは戦犯以外の死刑制度は存在しないため、イスラエルで執行された唯一の法制上の死刑である

1934年9月、当時親衛隊伍長(SS-Scharführer)であったアイヒマンは、SD(SS内におかれた情報部)に応募し、SD長官ラインハルト・ハイドリヒ親衛隊中将により採用される。SDII/111課(フリーメーソン担当課)の補助員となった。同僚のディーター・ヴィスリツェニーによるとこの頃からアイヒマンは記録や組織的な整理といった体系的な作業を好んだという。しかし数か月で人事異動となり、レオポルト・フォン・ミルデンシュタイン親衛隊少尉が課長をしていたII/112課(ユダヤ人担当課)へ異動した。以降一貫してアイヒマンはユダヤ人問題に携わることとなる。

ユダヤ人課の上官フォン・ミルデンシュタインから読むよう命じられたテオドール・ヘルツルの著作『ユダヤ人と国家』にアイヒマンは強い影響を受けたという。アイヒマンはドイツ在住のユダヤ人をパレスチナへ移住させる計画に関心を示すようになった。1933年から1937年にかけて2万4000人の在独ユダヤ人がパレスチナへ移住していた。アイヒマンは、これをさらに拡大できないかと考え、1937年夏に長官ハイドリヒの許可を得てパレスチナ移住計画の可能性を評価するため、上官のヘルベルト・ハーゲン(フォン・ミルデンシュタインの後任のII/112課課長)とともに英国委任統治領パレスチナに赴いた。彼らはハイファに到着したが通過ビザしか得られず、カイロへ進んだ。カイロではハガナーのメンバーに会った。さらにパレスチナでアラビア人のリーダーに会うことを計画したが、パレスチナへの入国はイギリス当局によって拒絶された。そのため外遊の成果はほとんどなかった。しかもナチスの政策は後にユダヤ人国家の設立を妨げる方向で定められたので、結局、経済的理由のためのパレスチナへの大規模移住に反対する報告書を書いている。

オーストリア併合後の1938年3月、当時親衛隊少尉(SS)だったアイヒマンは「ユダヤ人問題の専門家」としてオーストリアのウィーンへ派遣された。ロスチャイルド家の財閥ユダヤ人ルイ・ナタニエル・フォン・ロートシルト男爵からナチスが没収した邸宅は親衛隊の建物となり、アイヒマンはここの一室をあてがわれて「ユダヤ人移民局」を起こし、オーストリアのユダヤ人の移住に取り組んだ。ユダヤ人たちの亡命の代償は全財産であり、その所有物はすべて没収された。また移住者は「提示金」として不可欠な外国為替を、滅茶苦茶なレートで購入させられた。アイヒマンは移住政策を巨額のビジネスに仕立て上げたのだった。アイヒマンは1938年10月21日の報告書で着任の日から9月末までに5万人のユダヤ人をオーストリアから追放した、と報告している。同時期のドイツでは1万9000人であったからアイヒマンの成果は歴然であった。

1938年6月の親衛隊内部の勤務評定はアイヒマンに「秀」の成績をつけており、「彼の格別な能力は交渉、話術、組織編成」「精力的かつ機敏な人物であり、専門分野の自己管理に優れた能力を備えている」と記している。1939年1月24日には名目上のユダヤ人問題責任者であるヘルマン・ゲーリングの命令でベルリン内務省内に「ユダヤ人移住中央本部」が開設されることとなったが、これはハイドリヒがアイヒマンのウィーンでの働きを高く評価し、アイヒマンの方式を全国に拡大しようと設置したものであった。アイヒマンは親衛隊内でユダヤ人移住の権威として知られるようになり、ユダヤ人移住の「マイスター」などと呼ばれるようになった

アイヒマンも後に述べているが、ウィーン時代はアイヒマンの人生で最良の時代であった。アイヒマンは、ロスチャイルドから没収した高級リムジンを公用車にして乗り回し、旧ロスチャイルド邸のワイン蔵からワインを持ち出して同志たちと飲みかわして楽しんだ。

ドイツのポーランド侵攻によって第二次世界大戦が開戦した後の1939年9月27日に保安警察(ゲシュタポ)とSDが統合されて国家保安本部が新設された。アイヒマンはそのIV局(ゲシュタポ局)B部(宗派部)4課(ユダヤ人課)の課長に任命され、ベルリン勤務となった。各地のユダヤ人移住局を統括する立場となった。

1940年6月の時点でドイツの支配領域にユダヤ人は325万人生活しており、彼らの追放先を探すことがドイツ政府にとって急務となった。アイヒマンは支配領域のユダヤ人をポーランドのゲットーへ集中させていった。一方1940年10月にアイヒマンは、バーデン・プファルツ・ザールラントのユダヤ人7500人ほどを南フランスの非占領地域(ヴィシー政府領)へ移送させている。このうち2000人以上のユダヤ人がフランスの収容所で病死し、残りもほとんどがポーランドへ再移送されてそこで殺害されたとみられる。

本人の証言によるとアイヒマンは、1941年8月から9月頃にラインハルト・ハイドリヒの口から総統アドルフ・ヒトラーの命令によりヨーロッパのユダヤ人がすべて絶滅させられることになったのを知らされたという。さらにこの時、ハイドリヒからポーランド総督府領ルブリンの親衛隊及び警察指導者オディロ・グロボクニクの指揮下で行われているユダヤ人虐殺活動を視察することを命じられ、ルブリンへ赴き、トレブリンカ強制収容所でガス殺を行う建物を視察した

その後、ポーランド西部地域のクルムホーフのヘウムノ強制収容所で行われていたガストラックによるガス殺を視察し、またその後にはミンスクでのアインザッツグルッペンのユダヤ人銃殺活動の視察、さらに再度ルブリンのトレブリンカへ派遣されてガス殺を視察することとなった。

1942年1月20日にヴァンゼー会議に議事録作成担当として出席し、ユダヤ人を絶滅収容所へ移送して絶滅させる「ユダヤ人問題の最終解決」(=虐殺)政策の決定に関与した。アドルフ本人もこの会議で絶滅政策が決定されたことを認めているが、アイヒマン自身は会議の席上で一言も発言しておらず、出席者の誰からも気にとめられることもなく、ただタイピストとともにテーブルの隅っこに座っていただけだと証言している。

1944年3月には彼はユダヤ人の移送に着手し、40万人ものユダヤ系ハンガリー人を列車輸送してアウシュヴィッツのガス室に送った

第二次世界大戦終結後、アイヒマンは進駐してきたアメリカ軍によって拘束されたが、偽名を用いて正体を隠すことに成功すると、捕虜収容所から脱出。1947年初頭からドイツ国内で逃亡生活を送り、1950年初頭には難民を装いイタリアに到着。反共産主義の立場から元ドイツ軍人やナチス党員の戦犯容疑者の逃亡に力を貸していたフランシスコ会の修道士の助力を得る。

1950年7月15日にアルゼンチンのブエノスアイレスに船で上陸した。その後約10年にわたって工員からウサギ飼育農家まで様々な職に就き、家族を呼び寄せ新生活を送った。当時のアルゼンチンは親ナチスのファン・ペロン政権の下、元ナチス党員を中心としたドイツ人の主な逃亡先となっていた。アイヒマンの息子がユダヤ人女性と交際しており、彼女に度々父親の素性について話していたことから、モサドは息子の行動確認をしてアイヒマンの足取りをつかもうとした。2年に渡る入念な作業のすえ、モサドはついにアイヒマンの居場所を見つけ出した。1960年5月11日、バスから下車して自宅へ帰る道中に拘束される。