尖閣問題の真相・深層

ここで、尖閣問題の最初のトラブルについて更に調べました。

1968年以前から尖閣諸島近海はアメリカ合衆国海軍の爆撃演習海域に指定されており、大正島と久場島が含まれていた。

1968年8月12日 南小島不法占拠事件
パトロールしていた琉球政府法務局出入管理官が南小島で沈没船の解体作業を行っている作業員を発見した。

1969年5月 琉球政府の命により石垣市が尖閣諸島の魚釣島に同市の区域であることを明示した標杭を設置した。(紛争を防止するため、日本政府が琉球政府に働きかけたもの)

1969年から1970年 推定1095億バレルという巨大な石油埋蔵量の可能性が報告された。

台湾はガルフ社に周辺海域の石油採掘権を与え、同諸島に「青天白日満地紅旗(以下、青天白日旗)」を掲揚し、その写真を各国に配信した。日本政府がこれに抗議したのが、同諸島と国旗を巡る最初のトラブルである。


青天白日満地紅旗に注目してみます。

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中華民国(台湾政府)の国旗です。

中華民国の国旗(公式サイト)

民国10年(1921)5月5日、仏法を守る運動の広州にあった中華民国軍人政府のために取り消して、変えて気をつけ式の中華民国政府、国の父は非常の大統領に就任して、明文で発布された命令はさまざまな色の旗を廃止して、青天白日満地紅旗を国旗にします。国の父はさまざまな色の旗に反対しました。理由は3つあります。

1:様々な色の旗が清廉な官吏の旗になり、現在その官旗で体を失うことになるのでその国旗を免じます
2:さまざまな色の代表の五大民族の分配は色に代わって確かに義を取りません
3:言葉5族は平等で、さまざまな色を順列に上り下りして、階級がなおあります。民国14年(1925)、中華民国国民政府は広州で創立して、青天白日満地紅旗はどこもかしこも中華民国の国旗です。
この1年間、国民政府をあけて北伐に行って、行くところは全て青天白日満地紅旗を立てました。民国17年(1928)北伐は完成して、さまざまな色の旗はなくなり、青天白日満地紅旗は全国の統一的に使う国旗になりました。

国の父:孫文のことです。


$当たっても当らなくても納得する馬券-五色旗
五色旗は、赤=漢族、黄=満州族、青=モンゴル族、白=ウイグル族、黒=チベット族の五族共和を意味するとされた(色と民族の対応は異説あり)
これは2のことを説明している


1912年中華民国建国後、協議の結果、かつて清朝の海軍で使用されていた旗を基とした五色旗を国旗とし、青天白日滿地紅旗は中華民国の海軍軍旗として使用することとなった。

$当たっても当らなくても納得する馬券-青天白日旗
青天白日旗・・赤地色がないもの、孫文が最初に採用しようとした


1906年 孫文が青天白日旗を中華民国の国旗に提案、黄興の指摘で青天白日滿地紅旗になる
(日本の日章旗が類似していること、青天白日旗の色彩が質素で単調である事)


辛亥革命(双十革命)清朝の打倒、民主化(漢民族onlyと主要人物は構想している)
1911年10月10日夜 武昌起義(革命に繋がる武装蜂起の始まり)

11月1日 清朝政府は袁世凱を内閣総理に任命

12月3日 『中華民国臨時政府組織大綱』採択、公布。南京を臨時政府の所在地とする、総統制による共和体制の方針が確認された。

12月17日頃
議論が国旗問題に及んだ際には湖北代表は鉄星十八星旗を、福建代表は青天白日旗、江浙代表は五色旗を国旗と主張を行い対立したが、最終的には五族共和を代表する五色旗を国旗とし、鉄星十八星旗を陸軍旗、青天白日旗を海軍旗とする折衷案が採用された。


12月29日 臨時大総統選挙が実施。
17省45名の代表 孫文が17票中16票を獲得し、中華民国初代臨時大総統に選出される。

1912年1月1日、孫文は南京にて中華民国の成立を宣言するとともに、初代臨時大総統就任のための宣誓を行った。

1912年2月12日 宣統帝(溥儀)退位

1912年2月13日 孫文は辞表を提出し、臨時参議院に対し袁世凱の大総統就任を推薦した。
2月15日 臨時参議院は袁世凱の第2代臨時大総統就任と南京を首都とすることを承認
3月8日 『中華民国臨時約法』を制定。
3月10日 袁世凱は北京で中華民国第2代臨時大総統に就任、この直後より諸外国からの政府承認が中華民国に行われた。袁世凱は北京兵変を理由に北京に遷都している。

1913年2月 『臨時約法』の規定に従い、中国史上初めての国会選挙が実施された。
中国国民党が第一党の地位を占め、宋教仁を総理大臣とする内閣組閣準備が進められた。

(ここまではそれなりの民主的な手続きであったが、ここからが大混乱)

3月20日、宋教仁が上海で暗殺された。
この暗殺の背景には袁世凱の指示があったことから、7月には孫文により第二次革命が計画され、袁世凱に対する武装蜂起が実行されたが、程なく鎮圧されている。第二次革命を阻止した袁世凱は自ら皇帝を自称しようとしたが、支持を得られずに失敗し、間もなく病死した。(中華帝国)


もうひとつの流れの青天白日滿地紅旗・・八路軍

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八路軍で青天白日滿地紅旗を持つ兵士


八路軍(はちろぐん、パーロぐん)とは、日中戦争時に華北方面で活動した中国共産党軍(紅軍)の通称である。1937年8月、中国工農紅軍が"国民革命軍第八路軍"として国民政府指揮下に編入されたことからこの名称で呼ばれた。現在の中国人民解放軍の前身のひとつ。

西安事件を受けて第二次国共合作が実現するや、1937年8月25日に中国工農紅軍と西北紅軍はともに解散し、新たに中国国民革命軍第十八集団八路軍と改組され、一般に八路軍と呼ばれることになる。「八路軍」という名称は、国民党と共産党の提携「国共合作」に基づき共産党の紅軍が中華民国国民政府の軍隊に編入された際のものであった。

毛沢東による人民戦争理論(「点化した敵軍を、人民の海のなかに埋葬する」―人海戦術)に従い、共産党は中国各地への浸透工作を積極的におこなった。共産党に協力的な地域を、村落、都市に広げるのが目的である。共産党勢力は草の根的に増殖し、遊撃兵力を各地に展開させることも容易になった。

1937年に日中戦争(支那事変)が勃発すると、八路軍の存在は日本軍将兵にとって脅威となった。八路軍は神出鬼没なゲリラ戦で、主に日本軍の輸送部隊や小部隊を攻撃し、鉄道などの輸送網の破壊も行った。また日本軍は広大な中国大陸で小部隊を分散せざるを得なかったため、八路軍の攻撃は日本軍の作戦行動や農村部の支配に打撃を与えた。農村部においては、日本軍が安全に行動できるのは大きな街の周囲などわずかな地域で、八路軍の襲撃が多い地域や支配がまったく及ばない地域のが多かった。 このため「日本軍は点と線しか確保できなかった」と評される。

日本の敗戦後、国共内戦が再開すると、八路軍は更に大きな力を発揮するようになる。満州では、関東軍の装備を接収したソ連軍は、これをそのまま八路軍に与えた。また、日本軍の軍人や民間人を八路軍に加えることで軍事技術や専門技術を得た。空軍のなかった八路軍は林弥一郎少佐以下関東軍第二航空団第四練精飛行隊員を取り込み、東北民主連軍航空学校を設立し、航空部隊を養成した。また、正規の砲兵隊がなかったので日向勝を筆頭とした日本人教官の基で砲兵学校を設立した。医師や看護婦など、戦争に欠かせない技術を持つものは日本に帰国させず、国共内戦勝利後も長きにわたって徴用した。(通化事件)

八路軍は国民党軍との戦いに勝利し、1949年10月の中華人民共和国建国に大きな役割を果たした。


日本軍に勝ったとされる。孫文の意思(国民党+共産党)が共通しているし、民衆に最も近いシンボルである、と言えます。

ただ、国民党・蒋介石との国共内戦という対立で冷たい関係になったことを全て「日本のせい」にしちゃう先導が見事というべきか、何故なのか、をしっかり日本人は整理して熟考する必要があると思います。