おなじみwikipedia様によると・・

経済(けいざい 英:economy、羅:frugalis)とは、社会が生産活動を調整するシステム、あるいはその生産活動のことである。

世の中にある資源は有限であり、希少性を有する。社会においてはさまざまな財(商品)が生産され、交換・分配などのプロセスを経て消費されるが、資源の希少性ゆえ要求されるすべての商品が供給できるとは限らない。経済はそれらの要求に応じて供給を決定し、実行するシステムである。

日本語である「経済」という語は、はじめpolitical economyの訳語として導入された。この訳語の作者は福澤諭吉であり、世の中を治め、人民を救うことを意味する経世済民(若しくは経国済民)を略した和製漢語といわれる。


目的は人民を救済することなのあります。
そして「経」とは崇高な真理・崇高な秩序・戒律なのであります。
現在使われている意味とはかなりかけ離れている感は否めません。
特に「経済的だね~(安価だね~)」とか。

「経営」は同じく崇高な真理・秩序・戒律を世に現し形にして、それを営むこと。
経営者はとても大きな責任を持つことはこの言葉でもよくわかります。



そして「救済」とは結構宗教的ですね。世の中を救うとは聖書の世界では「あるパターンを繰り返す」という解釈がなされているわけです。


救済史(きゅうさいし、ドイツ語: Heilsgeschichte)は贖罪の歴史、神の救いの行為の歴史であり、旧約聖書と新約聖書が示す歴史を神学的に捉える聖書解釈の一原理である。聖書の記す歴史は、統一的であり、一般の歴史の中心を構成するものとして考えられる聖書理解を救済史的聖書観と言う。

聖書解釈の歴史 [編集]救済史的に聖書を理解するためには、予型と象徴を正しく理解することが必要である。救済史的な立場で、象徴を取り扱うために、用いられるのが予型論的解釈である。ルターやカルヴァンは正しい意味での予型論的解釈を主張した。

救済史の概念を最初に提唱したのは、ヨーハン・ホーフマンである。聖書の機械的な理解に異議を唱えて、聖書解釈において、文法的、歴史的解釈と第三の解釈原理である、神学的解釈を加えた。それは、神が聖書の著者であるならば、そこに一貫性があり、明確な目的があるはずであるという前提である。

1939年にL・ゴッペルトが『テュポス』を著した。この書が、旧約学者、フォン・ラート、M・ノート、新約学者のストフェール、E・シュタウファーらに積極的に評価された。
ゴッペルトは、旧約聖書の人物、出来事、制度は新約において成就されるべき、事柄の預言であったとした。フォン・ラートは、啓示が進展的なものであり、初めから終わりに向うものであることを主張した。

聖書の歴史 旧約聖書においては、創造、堕落に始まる創世記1章-11章を序章として、アブラハムを父祖とするイスラエルの歴史に入り、モーセによる出エジプトを中心的な出来事として、扱っている。
イスラエルの歴史においては、出エジプトの歴史が救いの型になって、繰り返されている

新約聖書においては、キリストの受肉、十字架、復活、昇天、初代教会誕生という新しいイスラエルの歴史の枠の中で取り扱われて、終末における審判と救いの完成を目指して進展していく。