【特集:エンタメビジネスの未来】 新島進:推すという生存戦略──推しを描く作品をとおして | ねぇ、マロン!

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曽田歩美様に頼んでマロンの絵を描いていただきました。

【特集:エンタメビジネスの未来】新島進:推すという生存戦略──推しを描く作品をとおして

三田評論ONLINEより

  • 新島 進(にいじま すすむ)

    慶應義塾大学経済学部教授 

推しは尊い?

昨今、「推し」という語は日常的に使われている。そしてその用法にネガティヴな意味合いはない。そればかりか「尊い」という語と組み合わされもする。今や社会通念上も、推しについての言説も、推していいんだよと挙ってわれわれの背中を押(お)す。しかし推しの免罪符化にはなにかモヤモヤしたものも感じる。この語は1980年代にアイドルファンの狭いサークルで使われはじめ、アイドルグループが台頭した2010年代に一般化したとされる――その背景には当然、テレビからインターネット、SNSへと続くメディアの変化がある。そしてアイドルを推すファンが今でも「アイドルオタク」や「ドルオタ」、あるいは単に「オタク」と呼ばれ、かつてこの語が極めてネガティヴなイメージで捉えられていたことを思うと、オタクであることこそがポジティヴな認知を得たということなのだろうか。あるいは語を言い換えることで、たとえば「パパ活」といった語同様、なんらかの後ろめたさを払拭したのか。実際、アイドルに「積む」、つまり推しと握手をするために大量のCDを買う(積む)ことと、キャバクラやホストで散財することの違いはなにか。身を滅ぼすほどでなければ、お金の使い道は個人の自由ということでいいのか。

このモヤモヤの正体を考えてみるとき、推しを描いた物語は推しについて実に豊かな示唆を与えてくれる。本稿では主に平尾アウリの漫画作品『推しが武道館いってくれたら死ぬ』(徳間書店、2015年~)と宇佐見りんの小説『推し、燃ゆ』(河出書房新社、2020年)の2作品について検討をおこなう。ただし、その前に簡素な整理は必要だろう。

自己愛の充足とビジネス

推しを推すことは畢竟、現代のメディア社会を生きるための術である。熊代亨『「推し」で心はみたされる?』(大和書房、2024年)は主に、オーストリアの精神科医ハインツ・コフートが提唱した自己心理学の観点から推しを説明する。人が心の健康を保つには自己愛を充足させる必要があり、それは鏡映自己対象(と呼ばれる他者)から崇拝されることで承認欲求が満たされるか、理想化自己対象(と呼ばれる他者)を崇拝して所属欲求を満たすことで充足される。そうした行為は個々のメンタル管理に関わるのみならず、他者を要するものであることから個と個がソーシャルな関係を築く礎ともなる。

だが熊代亨氏によれば、現代(日本)社会は自己対象をとおした自己愛の充足が成熟しにくい社会になっている。自己対象は幼少期、両親との関係によって体験されるが(鏡映自己対象である母親に認められ、理想化自己対象である父親に憧れる)、核家族化はその体験を乏しくする。長時間労働、単身赴任によって多くの家庭で父親は不在であり、シングルマザー家庭はなおのこと、母親がひとりで理想化自己対象と鏡映自己対象を兼ねることは困難だ。そして従来、親に代わってそのロールモデルを務めてきた兄や姉、祖父母、親戚、地縁社会の構成員と子どもとの関係は薄まる一方である。つまり背景にあるのは接触過多社会から接触過少社会への移行なのだ。2020年代のパンデミックがそれを加速化させたことはいうまでもない。本稿執筆中、裸の男たちが護符袋を奪い合う岩手県奥州市の奇祭「黒石寺蘇民祭」がその千年の歴史の幕を閉じるという報道があったが、裸祭の廃止と推しの一般化はメディア社会の表裏を示しており無縁ではない。地下アイドルのライヴや生誕祭は文字通り、オタクの祭である。

そして、そんな自己愛充足の熟練度が低いわれわれの前に推しが現われる。アイドルやキャラはスマートフォンを覗けば一瞬にして現われ、そしてキラキラと輝く完璧な理想化自己対象だ。平成の時代、アイドル産業は秋葉原と結びつくことでアニメ文化の「萌え」と接合し、キャラもまた推しになった。推しを推すことで所属欲求は満たされ、推す人として認知されれば承認欲求も満たされる。そもそも理想化自己対象と鏡映自己対象の境界は曖昧であり、承認欲求の不足は推すことで埋め合わせができる。よって推すことはもはや現代のメディア社会で生き延びるための生存戦略といっていい。よって推しは肯定するよりほかない。そしてビジネスは現代人のこの欲求を見逃さない。「私たちの社会では承認欲求や所属欲求は完全にビジネスになっていて、かつてはキャバクラやホストクラブ、プロ野球やプロレスといったかたちをとっていました。それが今日ではゲームやアニメのキャラクタービジネス、あるいはインフルエンサーのビジネスといった形をとるようにもなり、商品としてパッケージ化された自己対象が広く親しまれています。/今日では、お金さえ用意できればいつでもどこでも、ディスプレイの向こう側に自己対象を見つけ出すことができますし、ディスプレイの向こう側のキャラクターを自己対象として体験する文化が定着してもいます。その際、富豪のようなお金は要りませんし、東京ドームやコミックマーケットにわざわざ出かけなければならないわけでもありません。ビジネスとして自己対象が大量生産され大量消費される現状を視野に入れるなら、これほどナルシシズムを充たしやすい時代はなかったとさえ言えるでしょう」(熊代、115ページ)。アルコールを介した接触型のコミュニケーションから、メディアを介した非接触型のそれへ。もちろんここ数年は女性が消費者として台頭したことでホストクラブがらみの問題が表面化するなど、同時並行的にではあるが、現代人の自己愛充足の低熟練度とメディアのエコノミーさに注目した新たなビジネスモデルが生まれたのだ。だが問題は、そんな推しが完璧ではないということだ。完璧であるがゆえに完璧ではないのである。

“完璧な推し”のジレンマ

赤坂アカ、横槍メンゴの漫画作品『推しの子』(2020年~)の主題歌であるYOASOBI「アイドル」のサビは「君は完璧で究極のアイドル」であり、ヒロインの名にもちなむ「アイ」の音階は転調前ではこの曲の最高音(hiF)で、人の地声では出すことができず、歌手のikura も裏声を用いた歌唱をしている。この超高音は、アイドルやキャラ、つまりメディアの向こうにしか存在しない理想を言語化した「愛(絶対に手にできない喪失)」という語と、「完璧で究極」という語の意味をあまりにも見事に言表する。そう、推しが理想の・・・理想化自己対象になれないのは、本来、自己対象が有していなければならない欠点を持ちあわせていないという逆説に因る。熊代亨氏は「ナルシシズムの成長に必要な「適度な幻滅」が「推し」との間柄のなかでは体験できません」(116ページ)と説く。当然ながら、推すことで自己愛の充足はできても実社会はそれだけでは渡っていけない。実社会で接触しなければならない他者、多くの場合、上司や先輩や同僚などを自己対象として自らを成長させることは困難なままということになる。推しは完璧である上、万一欠点が認められれば、アイドル/キャラ産業は別の推しを星の数ほどエコノミーに提供する。われわれはビジネスに支えられたそうしたメディア環境に生きつつ、実社会ではそれでもまだ肉体を引き摺って生きていかなければならない。こうしたジレンマを物語が描くとき、われわれはそこにリアリティを見いだし、自身の愛との共振がおこるだろう。

『推しが武道館いってくれたら死ぬ』(以下、『推し武道』)では、岡山県岡山市で活動している架空の女性地下アイドルグループChamJamのメンバーとファンたち、つまりオタクたちとの交流がコミカルに描かれる。流麗な絵柄と、独特の間を持つユーモアのセンス、そしてオタク生態の的確さ――いわゆる「あるある」――によって人気を博している。主人公は、えり(通称、えりぴよ)という若い女性であり、数歳年下のアイドル、市井舞菜を推している。同性同士であるが、いわゆる百合ジャンルとの接点は見いだしにくい(ほかにも複数の女性カップルがおり、女性同士の関係性を主軸とするのは作者の前作の長編「まんがの作り方」から一貫している)。また、現実でも女性アイドルを推す女性オタクは珍しくない。物語の基本パターンは相愛の2人のすれ違いコメディだ。平尾アウリ氏は短編を多く物している作家で、その作劇はスケッチ的であり、異性愛を描くことで否応なく生じてしまうノイズやドラマ性が排されることで、推すという行為がより純粋な形で表現されている。

そもそも『推しが武道館いってくれたら死ぬ』というタイトルは、推しを推すという愛のすべてを言いあてている。武道館とはYOASOBI「アイドル」が歌うところの愛(アイ)であり、死ぬという動詞はそこに達することはできないことを言い換えている。つまり伝統的な宗教が天国と呼ぶ場(武道館は神社の向かいにある)であり、物語学が「そして王子とお姫さまは幸せになりました」という、本を閉じた先にある場だ。岡山県の小さな町で活動しているChamJam は、日本と東京の中心、皇居に隣接する武道館から物理的にも象徴的にもっとも遠いところにおり、アイドルとオタクたちにとって武道館とは、到着することのできない愛という幻想の終着点である。よって彼女たちは幻の武道館を経めぐる。はじめて上京したChamJam のメンバーは日本武道館ではなく足立区にある東京武道館に行ってしまい(30話)、舞菜は自らの生誕祭にダンボールでつくった武道館を望む(52話)。笑いのなか、ここでは愛の本質がきわめて秀逸な形で描き出されている。

空白の使い方もこの作者の特徴である。えり、とりわけ舞菜はヒロインでありながら、その人物設定は最小限に留められている。『推し武道』実写版(2022年)で舞菜を演じた伊礼姫奈は唯一、アイドルではない子役出身の女優で、もっともキャラに寄せていないキャスティングがされていたが、それがゆえ、あるいは女優としての力量でこの空白をうまく表現していた。ChamJam での活動をしていないときの舞菜は街でも自宅でもつねに独りでいる。えりについては実家暮らし、パン工場で働いていることが描かれ、あるキャラを推している友人もいるが、「私は1人でいることが多かったから」(12話)といったセリフもある。母親は比較的頻繁に現われ、叔父叔母が登場する回もあるが、父親は一度も出てきたことがない。オタク以外のほぼ唯一の男性キャラはChamJamの運営をしている吉川だが、ファーストネームさえ付与されておらず父親のロールモデルを務めてはいない。この父親の不在、空白は、精神科医のいう先述の議論と合わせると興味深い。

オタクの鏡、ガチ恋、コミュニティー

えりと舞菜が、自己愛の充足に問題を抱える現代人のモデルであるならば、彼女たちはお互いがお互いの自己対象となり(孤独という点での類似から、双子自己対象)、自己愛を充足させることで安定が図られていることがうかがえる。そして読者はこの関係性をして自身の自己愛を(読書のあいだ)充足させる。しかし、その二重の安定をビジネスが支えていることをえりの言動は隠さない。実家暮らしの彼女はパン工場から得た収入のすべてを舞菜への推し活に使い、怪我をして働けなくなったときには「積めない私には存在価値がない」(9話)と嘆く。また、電車の車内で2人がばったり出会ってしまうシーンはきわめて印象的だ(6話)。期せずして劇場ではない、つまりお金を払っていない状況で推しに遭遇してしまったえりは、戸惑う舞菜に「ごめん車両……かえるから」といい、その場を立ち去るのだ。えりは、推すという行為がどんなシステムに支えられているかを理解している。

えりと舞菜は同性であり、また上記の理由で、そして先輩オタクのくまさと彼が推す五十嵐れおは、くまさが理想的なオタクであるがゆえに(2人はオタク側、アイドル側それぞれのリーダーという点で類似している)、この2組のアイドル/オタクの関係は安定している。それが読者をも安心させる。だが、もうひとりのオタク仲間で、ChamJam のメンバー、松山空音に恋愛感情を抱いている、つまり「ガチ恋」をしている基悠希はオタク修行中の身であり、彼の自己愛の充足は不安定だ(空音は、基の実の妹である玲奈に似ているという設定)。その彼がやはりガチ恋に悩む別のオタク、ただしやはり女性アイドルを推している女性オタクと出会うエピソードがある。そこで彼女は、ガチ恋の辛さから推すことを辞めたいが、「好きって強い呪文だから自分では解けないんですよ」(35話)というパワーワードをつぶやく。この出会いをきっかけに2人のあいだにはSNSを介したごくごくわずかな相互理解が起こり、基のメンタルは保たれる。そしてそのとき基はコンサート帰りの電車の車内におり、えりとくまさに囲まれている。『推し武道』がアイドルとオタクの関係を描くただの理想にも、ただの悲壮にもなっていないのは、このオタク3人組のソーシャルな関係がきわめて安定しているからだ。彼らは推しを推しつつ、その過程で、家族、地域、職場ではないコミュニティーのなかで(物語内での)現実の自己対象を見つけている。3人がネットで繋がりつつも、同時に、喫茶店のテーブルで膝を突き合わせてアイドル談義に花を咲かせるさまは疑似家族の団らん、家族のやり直しを思わせ、読者はその4つ目の空席に座す体験をするのである。

作品はまだ完結していない。とりわけ9巻ではChamJam不動のセンター、五十嵐れおのアイドル引退が予告されるという物語最大の引きがあり、次巻でくまさとの理想的な別れが描かれ、それに伴い、舞菜の空白に変化の兆しが見られるなど、ここ数話はこの作家にしてはドラマ性のある展開がなされている。もっとも衝撃的であったのは、れおの引退理由として祖母の介護を彷彿させるワンシーンがあったことだ。この一枚絵は、ジャンルは異なるも、同じく「推し」をタイトルに冠し、共通する要素を見いだすこともできるもうひとつの推し作品を想起させた。

推しをとおして生きる

2020年度下半期の芥川賞受賞作品、宇佐見りん『推し、燃ゆ』では、崩壊に向かう家族、精神不調、そのなかでの母子関係といった主題が描かれ、それはデビュー作『かか』(2019年)、最新作『くるまの娘』(2023年)まで一貫し、3作は連作をなしているとさえいえる。主人公のあかりは高校生だが、病院の受診で「ふたつほど診断名」がついた(精神的な)病を抱えている。幼少期にはなかなか字を覚えられず、母親と姉はそんな彼女に落胆を隠すことがなかった。今は定食屋でバイトをしているが仕事の覚えは悪い。家族や社会に適応できない彼女を支えているのはアイドルグループ「まざま座」のメンバーである上野真幸をただひたすら推すことだ。だが、高2の夏、その真幸がファンを殴るという事件が起こり、ファンコミュニティーは炎上する(燃ゆ)。やがて、あかりは出席不足で高校を中退することになり、同じ時期に死去した祖母の家で独り暮らしをはじめるもバイトは首になっており、働く能力はなく、それを理解できない家族との関係はさらに悪化する。そんななか、推しの真幸は結婚を示唆したうえで芸能界を引退する。あかりは希望のすべてを失う。「推しを推さないあたしはあたしじゃなかった。推しのいない人生は余生だった」(112ページ)。

しかし、あかりは推しの結婚引退に絶望しているわけではない。「新曲が出るたびに、オタクがいわゆる「祭壇」と呼ぶ棚にCD」を飾ってはいても(36ページ、祭壇はもうひとつの武道館だろう)、彼女はガチ恋ではない。彼女はつねに、自分の身体ではなく、「普通に、生活できない」自分ではなく、もうひとりの自分というべき推しの心身をとおして世界とアクセスすることを望んでいた、そのことでなんとか生きながらえてきた。よって推しとの関係はメディア越しのそれでも構わない。「携帯やテレビ画面には、あるいはステージと客席には、そのへだたりぶんの優しさがあると思う。相手と話して距離が近づくこともない、あたしが何かをすることで関係性が壊れることもない、一定のへだたりのある場所で誰かの存在を感じ続けられることが、安らぎを与えてくれるということがあるように思う。何より、推しを推すとき、あたしというすべてを懸けてのめり込むとき、一方的ではあるけれどあたしはいつになく満ち足りている」(62ページ)。社会に適応できないあかりは、周囲の人間との関係によって自己愛を充足させることを放棄しているように思われる。

そしてそれには理由がある。推しの炎上は作品の主たる出来事だが、この物語をより深部で駆動させているのは祖母の死であり、そこで改めて可視化される家族の崩壊である。葬儀のために家族が車で移動するという状況は次作『くるまの娘』でも反復されるが、『推し、燃ゆ』ではこの機に「単身赴任で日本にいない父、洒落た色のスーツを着こなし、時々帰ってきては明るく無神経なことを言う父」(90ページ)が一時帰国する。あかりは母、姉、自分という家族で育ち、その理想化自己対象になるべき父が不在で、鏡映自己対象になるべき母と姉はあかりの発達の遅れゆえにその承認欲求を満たさなかったことがうかがえる。あかりが推しをはじめて見たのは4歳のとき、子役だった真幸は舞台でピーターパンを演じていた。ピーターパン、ネヴァーランド(もうひとつの武道館)という記号も含め、ここには真幸がのちに、あかりの理想化自己対象になる要素がすべて揃っている。そして本来は母の代わりにあかりの自己対象を担うべき祖母は遠方に住んでおり、推しの引退と同時期に逝去した。あかりは、アイドルを辞してただの人・・・・となった真幸がおそらく結婚相手と住んでいるアパートを訪れたあと、自宅に戻り、ファンを殴った真幸の行為を、たまたま目についた綿棒のケースを投げつけることで反復する。彼女が散らばった綿棒を拾い集める姿は、推しを失って一度死んだ自分の骨、さらには祖母の骨を拾うそれと重なる。このときタイトルの「燃ゆ」は、祖母の火葬も含意する。

愛の現在地の確認

現実の世界では二足歩行ができず、学校と職場を追われ、推しを失うことで社会から、祖母を失うことで家族から完全に断絶したあかりに残されたのは、這いつくばって綿棒/骨を拾うことだけだった。あかりが、真幸のファンコミュニティーに続くコミュニティー、『推し武道』の3人組のような連帯を今後持つことができるのか、その希望は記されていない。『くるまの娘』が「心中をしない」という語で終わるように、「這いつくばりながら」、「当分はこれで生きようと思った」(125ページ)という語に微かな明かりを見いだすべきだろうか。ただ、あかりのそれまでの生きる術を思うとき、メディア越しの推し、武道館という幻想がただの空虚でないことは明らかだ。

推しを描いた作品は物語と表象の力で推すという行為の内実をまざまざと映しだす。その必然も、その危険も、その仕組みも。だから、われわれはそうした作品のページを繰る。なぜなら昨今、推しを考えることは己の愛の現在地を確認することであり、それは心の健康を測るバロメーターであるのだから。

 

※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。2024年4月号