戦国武将と並んで人気のある時代劇の主役といえば剣豪。
剣豪の中でも最強と言われたのが新陰流の流祖・上泉伊勢守信綱です。
信綱は、天正五年(1577年)1月16日に亡くなったと言われています。
知名度が高いのに実は詳しいことがはっきりわかっていません。
信綱は、剣豪としてのイメージが強いのですが資料によっては剣豪ではなく「兵法家」としているものもあります。まさに文武両道!
彼の名は、同時代の人間にはよく知られていたようで、剣豪将軍として名高い足利義輝に指導をしたという記録もあります。
信綱のことは、意外にも山科言継(やましなときつぐ)という公家の日記に多く書かれています。
この山科言継という人は、公家でありながら、この時代に自ら尾張まで行って織田信秀(信長の父)と親睦を深めたり、京では庶民と一緒にお風呂に入ったりと、気さくな面白い人物だったようです。
その山科言継の日記には、信綱の名前が30回以上出てきます。しかもわずか2年足らずの期間にです。公家とそういう付き合いができるということ自体、信綱が由緒正しい大名家の出らしい、育ちの良さが伺えます。
信綱はその後、高い位階をもらいながらも、中央での出世や権力に興味はなく、京を後にします…いつか続く