まんまパ●リの表題でサーセンwww笑

 んでは、今回は表題っぽく、ワールドワイドな視点から我が国日本との関わりについて考察してみたいと思います。(´・ω・`)ノ

 

 シルクロード(絹の道)は、中国と地中海世界の間の歴史的な交易路を指す呼称である。が中国側の最も重要な交易品であったことから名付けられた。(wikipedia シルクロードより抜粋)

 

 魏志倭人伝に、「蠶桑緝績。」「養蚕して絹織物を紡ぐ。」とあり、既に卑彌呼の時代には中国から養蚕が伝わっていたことが分かっています。

 

◆シルクロード交易路

 

 破斯 清通(はし の きよみち、生没年不詳)は、奈良時代の官吏。式部省大学寮に勤務する員外大属で、ペルシャ人と推定されている。平城宮跡の発掘調査で発見された天平神護元年(765年)の木簡を解読することにより存在を確認された。

 

 ●木簡

 破斯清通の名を記した木簡は、1966年(昭和41年)に平城宮東南隅の「式部省関連地域」と呼ばれる遺構地域から出土した木簡のひとつである。

 

 ●解読

 奈良文化財研究所史料研究室にて赤外線による文字読み取り調査が始まると、今まで解読できなかった木簡も順次調査された。この木簡についても2016年8月に解読に成功し、清通の氏にあたる部分が「破斯」である事が判明した。「破斯」という文字は、ペルシャを意味する「波斯」と同音であり、同様の意味を持つと判断された。ペルシャ人を示す文字が出土品で確認されたのは、日本国内では初めてである。

 このことは2016年10月5日に奈良文化財研究所から発表された。名前は「破斯清通」、読みは「はしのきよみち」とされている。この発表を受け、各メディアは「平城京でペルシャ人の官吏が働いていた」といった趣旨の報道を行った。 (wikipedia 破斯 清通より抜粋)

 

 ◆破斯清通の名が記された木簡より

 

 

 最新の技術はすごいですねぇ。

 今後も科学の進歩によってどんどん日本の古代の姿が現れてくることでしょう。

 

 古来より、シルクロードを通じて西方から遥々大陸を渡って東の終着点となるこの日本までやってきたということでしょうが、これが果たしていつの頃から来ていたのかは謎に包まれたままです。

 

 上にもあるように、少なくとも奈良時代には既に官吏として日本にペルシア人が居た証拠が出てきた訳ですが、正倉院に所蔵されている宝物の中にもペルシャ製のものが確認できます。

 

 ●白瑠璃碗 正倉院所蔵

 

 

 材質はアルカリ石灰ガラスで、5~6世紀頃のササン朝ペルシア(現在のイラン)あたりで製造されたものではないかといわれています。

 本来は万華鏡のような輝きがあったとされます。

 

 ●円形切子装飾ガラス碗 イラン出土 筑波大学蔵

 

 

 我が国の古墳からも同様のガラス椀が出土品しています。

 

 ●大阪府羽曳野市 安閑陵古墳出土 古墳時代 東博蔵

 

 

 ●復元作品 ふつくしい...酔っ払い

 

 

 他にも、

 ●切子ガラス碗 奈良県橿原市新沢千塚126号墳から出土 古墳時代 東博蔵 重文

 

 

 こちらは2~4世紀にかけて地中海沿岸地域で盛んに作られたデザインのもので、ササン朝ペルシア産。

 

 ●紺瑠璃坏

 

 

 同じく126号墳の木棺内から切子碗をのせた状態で出土。2世紀までのローマ帝国産らしい。

 

 ●瑠璃坏 正倉院所蔵

 

 

 「勅封蔵開検目録」によると1193年には正倉院に納められていたという。ササン朝後期7世紀頃の作らしい。

 

 とまぁ所蔵品から埋蔵品に至るまで、シルクロードを通じて遥々我が国までやってきたのです。

 

 ササンガラスは、イラン高原・メソポタミアを支配したササン朝ペルシア(226年~651年)で作られたガラスで、ローマガラスが普及したキリスト教国家であるローマ帝国とも異なり、ゾロアスター教にもとづく独自の文化をササン朝ペルシアは誇り、ササン朝ペルシアの工芸において織物と並んでササンガラスは欠かせない存在です。

 

 さて、『日本書紀』第36代孝徳天皇紀5年条に、

 

 「夏四月、吐火羅國男二人・女二人・舍衞女一人、被風流來于日向。」

 

 「(654年)夏4月、吐火羅国(とからのくに)から男2人・女2人、舍衞(しゃえ)の女1人が、暴風に会って、日向に流れて来ました。 」

 

 …とあり、吐火羅国という国から異国人が日向に漂着したという記録があります。

 更に調べて見ますと、

 第37代斉明天皇(皇極天皇重祚)紀3年条に、

 

 「三年秋七月丁亥朔己丑、覩貨邏國男二人女四人漂泊于筑紫、言、臣等初漂泊于海見嶋。乃以驛召。辛丑、作須彌山像於飛鳥寺西、且設盂蘭瓮會、暮饗覩貨邏人或本云、墮羅人。

 

 「(657年)即位3年秋7月3日。覩貨邏国(とからのくに)の男が2人。女が4人。筑紫に漂泊しました。そして言いました。「私めどもは、はじめ海見嶋に漂泊しました」 すぐに駅(早馬)で呼び寄せました。7月15日。須弥山の像を飛鳥寺の西に作りました。また盂蘭盆会を設けました。暮れに覩貨邏人と宴会して歓待しました。或本に云はく堕羅人(だーら人)という。」

 

 …とあり、3年後に筑紫に着き、その後トカラ人と宴会をしたとあります。

 この3年の間に何故か女が1人増えとるやんけ( ゚д゚)

 

 更に続けまして、

 「五年春正月己卯朔辛巳、天皇至自紀温湯。三月戊寅朔、天皇幸吉野而肆宴焉。庚辰、天皇幸近江之平浦平、此云毗羅。丁亥、吐火羅人共妻舍衞婦人來。」

 

 「(659年)3月10日。吐火羅人(とからのひと)が妻と舍衞の婦人とともに来ました。」

 

 トカラ人には自身の妻と舍衞の婦人がいるようです。

 

 「秋七月庚子朔乙卯、高麗使人乙相賀取文等罷歸。又覩貨羅人乾豆波斯達阿、欲歸本土求請送使曰、願後朝於大國、所以留妻爲表。乃與數十人入于西海之路。」

 

 「(660年)秋7月16日。高麗の使者の乙相賀取文たちは帰って行きました。また覩貨羅人(とからのひと)の乾豆波斯達阿は本土に帰りたいと思って、使者を送るよう求め請願して言いました。「願わくば、後に大国(やまと)の朝廷に仕えましょう。その証拠に妻を止めて、その印とします」 数十人と西海之路に入りました。 」

 

 トカラ人は、妻らを残し去っていきますが、日本には、654年4月~660年7月まで、およそ6年2ヶ月の間滞在したことになります。

 

 残された妻たちはというと、

 「四年春正月丙午朔、大學寮諸學生・陰陽寮・外藥寮、及舍衞女・墮羅女・百濟王善光・新羅仕丁等、捧藥及珍異等物進。」

 

 「(675年)即位4年春1月1日。大学寮の諸々の学生・陰陽寮・外薬寮と舎衛の女・堕羅の女・百済王の善光・新羅の仕丁たちは、薬と珍しいものを捧げて献上しました。 」

 

 夫と別れ更に15年後も健在で、天武天皇4年に薬や珍品を献上しています。

 少なくとも妻たちは、20年9ヶ月は日本に滞在していますので、恐らく生涯日本で過ごされたのでしょう。

 

 あらためておさらいしますと、

 ペルシャは、現在のイランを表す古名である。漢名は波斯(はし)・波斯国(はしこく)。波斯と書いてペルシャ、ペルシヤと読ませることもある。イランの主要民族・主要言語の名称でもある。(wikipedia ペルシャより抜粋)

 

 平城京木簡からも、破斯・波斯(はし)と使われる場合は、ペルシア人の意味を指します。

 

 日本書紀にある、吐火羅・覩貨邏・土豁羅・吐呼羅などは、いずれも『隋書』・『唐書』など中国の史書において、トカーレスターン(現在のアフガニスタン北部、タジキスタン及びウズベキスタンに跨る地域)を指す言葉で、唐僧玄奘が太宗帝の命により編纂した西域諸国の見聞録、『大唐西域記』にも都貨羅国に関して次のような記述があります。

 

 ちなみに『大唐西域記』は、みんなご存知「西遊記」の元となる玄奘が記した当時の見聞録・地誌で、646年(貞観20年)の成立。全12巻。

 

 ●「大唐西域記 巻第一 覩貨邏国総記」 玄奘 訳:弁機 撰

 

 

 「鉄門を出て覩貨邏国(原注 旧に吐火羅という。訛なり)に至る。その地は南北千余里、東西三千余里ある。東はパミールに迫り、西は波剌斯(ペルシア)に接し、南は大雪山あり、北は鉄門に拠っている。」

 

 とあり、場所を特定してみると、

 

 バクトリア(Bactria)は、バクトリアーナ(バクトリアナ)、トハーリスターン(トハリスタン)とも呼ばれ、ヒンドゥークシュ山脈とアム(オクサス)川の間に位置する中央アジアの歴史的な領域の古名。現在はイランの北東の一部、アフガニスタン、タジキスタン、ウズベキスタン、および、トルクメニスタンの一部にあたる。かつてその領域にはグレコ・バクトリア王国などが栄えた。(wikipedia バクトリアより抜粋)

 

 ●紀元前2世紀後半の地図

 

 

 更にズームサーチ目

 

 

 大月氏と言われた地がバクトリア(トハーリスターン:覩貨邏国)にあたります。

 

 また、『日本書紀』には、共に漂着したトカラ人の中の一人に舎衛の女がいたと書かれてあり、「妻舍衞婦人」とありますから、トカラ人のもう一人の妻と思われます。

 

 この「舍衞」は、室羅伐悉底(シュラーヴァスティ)の旧名で、現インドのマヘート、仏典に登場することで有名な「舎衛城」のことを指します。

 

 祇園精舎(ぎおんしょうじゃ Jetavana-vihāra、正式名:祇樹給孤独園精舎、ぎじゅぎっこどくおんしょうじゃ、梵語: jetavane ’nāthapiṇḍadasya-ārāme)は、インドのコーサラ国首都シュラーヴァスティー(舎衛城)、現ウッタル・プラデーシュ州シュラーヴァスティー県にあった寺院である。釈迦が説法を行った場所であり、天竺五精舎(釈迦在世にあった5つの寺院)の1つである。

 

 ●牛頭天王との関係

 出自不明の習合神「牛頭天王」は、祇園精舎の守護神とされる。そのため、牛頭天王は別名「祇園天神」と呼ばれ、祇園天神を祀る神社を祇園神社という。八坂神社、天王神社など別の名称の祇園信仰の神社も、「祇園神社」や「祇園様」と呼ばれる。八坂神社の祭礼を祇園祭という。総本社の京都八坂神社の門前町「祇園」は、花街として有名である。(wikipedia 祇園精舎より抜粋)

 

 場所はココ

 

 

 妻の祖国も遠過ぎwww(ノ∀`)

 

 

 

 どっかで似たようなものを見たような...

 

 そしてもう一人の女性は、「墮羅女」「堕羅の女」とあり、場所は未だに不明。

 一応舎衛からほど遠くないところにあるネパール東端の都市ダーラン(Dharan)に仮比定しておきましょう。

 

 場所はココ

 

 …そして、孝徳天皇のご家族をあらためてチェックしてみますと、

 

 皇后:間人皇女‐舒明天皇皇女

  :阿倍小足媛‐左大臣阿倍内麻呂(阿倍倉梯麻呂)女

   皇子:有間皇子

  :蘇我乳娘‐右大臣蘇我倉山田石川麻呂女(wikipedia 孝徳天皇より抜粋)

 

 皇后は、間人皇女はしひとのひめみこ)Σ(・ω・ノ)ノ

 

 ほほう、舒明天皇皇女ですか(´・ω・`)

 これは深い深~い謎が隠されてそうですなぁ...

 

 …ということでこのシリーズも続くようである。

 いろいろ並行して書くと頭がもげそうになるね...(´・ω:;.:…