建武中元二年、倭奴國奉貢朝賀。使人自稱大夫。倭國之極南界也光武賜以印綬。安帝永初元年、倭國王帥升等獻生口百六十人、願請見。

 

 建武中元二年(57年)、倭の奴国が謹んで貢献して朝賀した。使人は大夫を自称する。倭国の極南界なり光武帝は印綬を賜る

 安帝の永初元年(107年)、倭国王が帥升らに奴隷百六十人を献上させ、朝見(天子に拝謁する)を請い願う。

 

 建武中元二年(57年)、倭の奴国が謹んで貢献して朝賀した

 

 ここの解釈ですが、倭奴國奉貢朝賀ですので、倭(わ)の奴国(ぬこく)ではなく、倭奴国(いの(な・ぬ)こく)です。

 

 この時代(西暦57年)はまだ倭は”イ”と発音します。

 このことは、中国の「韻書(いんしょ)」辞書である西暦100年に成立した『説文解字』、さらには、西暦543年の『玉篇』などからも読みが“”であったことがわかります。

 

 ◆玉篇の解説本である四声玉篇和訓大成より「倭」

 

 

 1892年(明治25)三宅米吉氏の見解(金印の委を”倭”=ワと読む)が後世にまで大きな影響を及ぼし、今日にまで至るというのが現状です。

 しかもこれが教科書などでも一般的に掲載され、この説が通説となっているのです。

 ※詳しくは、ぐーたら様のブログのこちらをどうぞ右矢印備忘録:「倭」はなんと読む?(追記)

 

 実際に光武帝が贈ったとされる金印の文字は、「漢奴國王」ですので、この文字はどう読んでも”ワ”とは読めず、””なのです。

 范曄が後漢書を編纂した時代には、「委」(ゆだねる):「女」と音を表す「禾」で「なよなよな女性」の意、という文字を更にそこに「人」を加えて改め、日本人を意味する「倭」(当時はまだ”イ”)に置き換えたのでしょう。

 これは中華思想に基づいたものです。 

 

 なお、倭という文字を“”と発音が初めて記載されているのが、西暦601年の『切韻』からとなっています。

 

 倭国の極南界なり。光武帝は印綬を賜る

 

 倭國之極南界也。⇒倭国の極南界なり。

 この記載により、倭奴國が奴國(福岡県博多周辺)ではないということがハッキリと判明します。

 大陸側・朝鮮半島からすれば、福岡県博多周辺はむしろ倭國の極北です。 

 後漢書冒頭にも記されているように、倭は韓の東南、大海中の山島に拠って暮らす。およそ百余国。前漢の武帝が朝鮮を滅ぼしてより、漢に使訳(使者と通訳)を通じてくるのは三十国ほど(其の地が倭国の極南であれば対馬・壱岐・奴國ぐらいしかない)

 楽浪郡の境界から、その国までは一万二千里。その西北界の拘邪韓国から七千余里。(距離・方向が全然合わない)

 等の記述からも全く別の場所であることは歴然です。

 

 また、比較的近い時代の印綬(この場合、金印)ですが、『史記』西南夷列伝の、武帝が元封2年(紀元前109年)に滇王へ王印を下賜したという記事に対応する滇王之印と、永平元年(58年)に光武帝の第9子で廣陵王(こうりょうおう)だった劉荊に下賜された「廣陵王璽」の璽が確認されています。

 

 

 他にも現ベトナムのタインホア省Tat Ngôで発見された「晉帰義叟王」の金印等があります。

 

 皇帝が冊封国の王に与えた金印に「漢国王」のような三重にも修飾した例が無いこと及び、高位の印であることから、この金印は「委奴国王」=「倭国王」に与えられたものである。漢の印制度および金印の役割から通説のように金印を博多湾程度の領域しか有しない小国が授かることはない。(wikipedia 漢委奴国王印 印文と解釈 九州王朝説より抜粋)

 この件に関しては、全く以て賛同できます。

 

 志賀島から当の金印が出土したとしても、やはりそれは委奴國王へ賜ったものであって、決して奴國ではないのです。

 金印自体は極小さなものですので、所持できれば誰もが容易に持ち運ぶことが可能なものです。

 どのような経緯で志賀島から出土したのかは古代史研究における今後の課題といえます。

 なお、このことにより、今日でも北部九州に邪馬台国があったと主張する要因となっています。

 

 ◆「漢委奴國王」印 一辺2.3cm(後漢の一寸)

 

 

 安帝の永初元年(107年)、倭国王帥升らに奴隷百六十人を献上させ、朝見を請い願う

 

 安帝永初元年、倭國王帥升等獻生口百六十人、願請見。

 

 安帝の永初元年(107年)、倭国王帥升らに奴隷百六十人を献上させ、朝見(天子に拝謁する)を請い願う。

 

 ここは解釈が分かれるポイントなのですが、

 

 倭國王帥升等獻生口百六十人=倭国王帥升らに奴隷百六十人を献上させ ×

 

 倭國王帥升等獻生口百六十人=倭国王帥升等が奴隷百六十人を献上させ 

 

 「倭国王帥升ら」とは訳さず、上記文面から「倭国王帥升等」と訳す方が至って自然ではないでしょうか?

 つまり、倭国王である帥升等という人物が奴隷160人を献上させたのです。

 倭国の王へ贈った金印に複数形の意味での「等」は有り得ません。

 

 帥升(すいしょう、生没年不詳)は、弥生時代中期・後期の倭国(まだ統一国家ではないクニの一つ)の有力な王と推測される。西暦107年に後漢に朝貢した。日本史上、外国史書に名の残る最初の人物。

後漢書東夷伝の記述からはこの倭国の所在地は明確でないが、九州の可能性が高い。また、帥升(師升)とは名前なのか職名なのかもはっきりしない。これより以前の西暦57年に後漢に朝貢して金印を授けられた倭国奴国との関係は不明。(wikipedia 帥升より抜粋)

 

 wikipediaにはまだ、帥升(すいしょう)と掲載されていますが、古来より我が国では、そのような発音をする氏姓が存在したかというと疑問が残ります。

 また、「まだ統一国家ではないクニの一つ」であるとか、「後漢書東夷伝の記述からはこの倭国の所在地は明確でないが、九州の可能性が高い。」とか明らかに九州への恣意的な記述が目立つ項ともなっています。

 これまでの考察により、むしろ後漢書東夷伝の記述からは、何一つ九州には当てはまりません。

 しかも、ある程度の統一国家があったからこそ、光武帝が冊封のために委奴國王に金印を賜ったのです。

 

 当稿を記した方は、wikipediaのページに書き込むのであれば、もう少し後漢書を勉強して下さい。

 まるで読んだことがないかのような記述です。

 大勢の歴史観を惑わすことになり兼ねませんので、重々気を付けて頂きたいですね。

 まあ、恐らくは意図的であるとしか思えませんが…

 

 話を戻しますと、卑彌呼や壹与の時もそうですが、中国の皇帝が交代したその年(もしくは翌年)には必ず大夫を送り、朝見に訪れていることからも、委奴國(後の邪馬台国の元となる国)は古くより中国との国交があったことを裏付けています。

 また、この時代においても、大陸事情を敏感に察知・把握していたともいえるのです。