これは、2012年12月26日(水)から2013年2月18日(月)の54日間で私に起こったことの記録です。

■それは突然やってきた

カフェでの一人仕事を終えて、ふらりと家に帰って来た、昨年末の12月26日。
郵便受けを開けると、A4サイズのピンクの封筒が入っていた。
1ヵ月前に初めて受けたマンモグラフィーの結果だった。検診結果というのは、だいたい検診を受けたことを忘れた頃にやってくる。

何気なく封を開けた私に、まず、目に入ってきたのが、「D2=要精密検査」という文字。
そして、「右MO淡く不明瞭集簇性石灰化」という何やら見慣れない言葉。

$Marie's Library


突然、目の前が真っ暗になり、心臓が高鳴った。

「γ-GTPが高いですよ」とか、「血圧の下が高めですね」とか、今までの健康診断で言われてきたものとはまるでレベルが違った。
だって、マンモグラフィーとは、「乳がん」の検査なのである。
それで「要精密検査」ということは、「乳がん」かもしれないのだ。
決して大げさではなく、目の前に「死」が近づいてきて、この手でつかめそうな気がした。

「いやだいやだ」と泣きそうになりながら、コートも脱がず、衝動的に携帯を取り出して、書かれてあった、病院の電話番号をプッシュした。

「あの、せ、精密検査の結果を受け取ったのですが」
声が震える。
電話先の男性が「あぁ、そうですか。そこに書いてある通り、専門の病院で検査を受けられてください」と言う。「せ、専門、ですか?」「はい、乳腺外科です」。

このときまで、「乳腺外科」という専門科があることすら、私は知らなかった。
慌ててパソコンを立ち上げて、「乳腺外科 東京」で検索。
一番上に出た病院が家からわりと近かったので電話をすると、「いま、大変混んでおりまして、次の検査のご予約は、2月になります」と言う。
――に、2月? 1ヵ月以上先?!ふざけるな! そのときにはもう全身に転移してるわ! 
気分はすでに末期がん患者である。
他の病院も同じなのかなと、どんよりした気分で、ネットの2番目に出てきた病院に電話をしてみると、1月10日に受診できると言う。それでも2週間ほど空いてしまうが、年末年始を挟むので仕方ない、と諦めて予約した。
いつになく落ち着かない年末年始となってしまった。

■極めて低いけど、100%「癌でない」とは言い切れない

年末年始、帰省した実家でゆっくりと過ごしながらも、「 癌」が頭から離れることはなかった。調べれば調べるほど、乳がんは恐ろしい病気だと思った。転移しやすい特徴、とか、20代・30代の患者が増えている、とか。
映画『余命1ヶ月の花嫁』の榮倉奈々の顔が浮かんでは消えた。

ただ、調べていくうちに、「石灰化」というものの正体が少しわかった。
腫瘍とは違う、石灰化という沈殿物は、体のどこにでもできる可能性があり、胸にできた場合、だいたいその20%(数字はサイトによって微妙に違う)程度が悪性だと言う。
しかし、救いなのは、その石灰化が悪性だったとしても、ごく初期で、そんなに悪さをするものではない、ということのようだった。
また、20代・30代のマンモグラフィー検診ではこのような症例が多く、私と同じ検査結果の文言を受け取った人が「ドキドキしたけど検査をしたら良性だった!」と言っている書き込みもたくさんあった。
しかし、その中に混じって、やっぱり「私は悪性でした」と言う書き込みもある。
それが、「20%」ということか……。微妙な数字である。


年が明けて、検査当日、祈るような気持ちで病院へ向かった。
ものすごく近代的でキレイすぎる病院の中に、何だか暗い顔をした女性がたくさんいた。

「マンモトーム、という精密検査をしましょう」
マンモグラフィーの再診と、エコー検査の後、結果を見ながら、担当医となる先生は穏やかな口調でそう言った。
「これがね、石灰化なんですよ」
そう言って先生が指差したフィルムの、右胸の脇の下あたりに、白いポツポツが見える。
「この形状の場合、ごくまれに、癌の場合があるんです。可能性は低いですが、100%ないとは言い切れないので、次の検査をしましょう」
そして、「マンモトーム」という検査の説明をされる。
3mmの針を胸に刺して石灰化の一部を取り、悪性か良性かを検査する、いわゆる細胞診だ。
3mmの針を胸に刺す――?
胸に穴を開けて血がドビャっと出ている写真を見せられた。

頭がクラクラする。私は事の成り行きを受け止めるのに必死だった。
「当日は、好きな音楽をかけられるので、CDを持ってきてもいいですよ」
と、優しそうな看護師さんが、冗談みたいなことをさらりと言う。
「はぁ……」

マンモトームの検査は、1ヵ月後の2月8日しか予約がとれず、結果はさらにそれから10日後だと言う。
その時間は、私の容態が緊急ではない、ということを表しているのだろうが、早く白黒付けたい私にとっては、気が遠くなるような時間だった。

「あの、もし癌だった場合、どうなるんでしょうか?」と恐る恐る先生に聞くと、
「大丈夫、これが癌でもごく初期なので、100%治療できますよ」と笑顔で答えてくれた。
その言葉が、この日、唯一の救いだった。

年末、紙切れ一枚の告知で広がった得体の知れない恐怖が、いま、目の前で私の体を実際に見た医師が冷静に事実を伝えてくれたことで、すっと和らいでいった。
――お医者さんてすごいな!
子どものような素直さで、心からそう思った。
手でつかめそうな位置にあった「死」が、また少し遠ざかったような気がした。

■苦しかった、検査までの1ヵ月

しかし、この日から検査までの約1ヵ月。私の体と心は今までにない窮地に立たされることになる。

腰痛、風邪からノドの違和感、生理不順、耳鳴り……。次々と不調が私の体を襲う。すべて精神的なものだと思うのだが、自分ではどうしようもなかった。
見てもらっている乳がんよりも、調べていないところの方が怖かった。
今まで考えたことのなかった、「自分が癌になるかもしれない」という事実。
すでに私の体には癌が巣食っていて、進行しているのではないか。
腰痛は卵巣がんや腎臓がんだし、ノドの違和感は食道がんと咽頭がん、生理不順は子宮がん、耳鳴りは脳腫瘍……。
体に起こる症状をネットで調べると、だいたい「癌」に行き着くことを、このとき悟った。


東京に大雪が積もった翌日、近所の神社へ少し遅い初詣に出かけた。本厄が終わる節分まで、あと2週間。

$Marie's Library

まだ雪が残る神社で、人もまばらな平日のお昼に、一生懸命ひとりで祈った。
――癌ではありませんように。この先も生きていけますように。
しかし、家族や大事な人の幸せより、我先にと自分のことを祈る自分が恥ずかしくなり、こんな私のことなんか神様は守ってくれないかもしれない、などと考える。
――でも、でも、お願い、今だけは許して。
お詣りをしながら涙が出たのは、生まれて初めてのことだった。

この頃、私は癌や、病気、死についての本ばかり読んでいた。
もしものときのための心づもりをしておきたかったのだ。
それが良くなかったのかもしれない。そもそもまだ、癌だと決まったわけではないし、どれだけ本を読んでも、覚悟なんてできるわけがない。それらの情報から少し離れた方がいい、と思って、今度は一切病気のことを考えないようにと切り替えた。
それもまた、無理があったのだろう。
娘を心配して電話口で健康について話す親に向かって、「今はそんな話聞きたくない!」などと強い口調で言ってしまったこともある。ただならぬ娘の気配を感じ取り「今すぐ東京に行こうか」などと両親が心配してしまうのも、無理のないことだった。


20代、私は毎日のように飲み歩き、外食中心、常に睡眠不足でストレスの多い仕事をしていた。
細く長く生きるよりは、短くても充実した毎日を送りたいと思っていた。
好きなものを食べ、好きな仕事をしている。それで死んでも本望だ、と。
しかし一方で、おばあちゃんになった自分もどこかでしっかり想像していたのである。

自分がこんな状況になって思ったことがいくつかある。
なぜ、当たり前のように、誰もが「おばあちゃん」になれると思うのか。
そして、「明日死んでもいい生き方を」とよく言うが、明日死ぬかもしれない人は、そんなことは到底思えない、ということ。どんなに素晴らしい生き方をしてきても、いくつになっても、悔いは残るし、やりたいことは尽きないものだ。未練たらたらで、それでもやむを得ず諦め、受け入れて人生は終わるのではないか。

起こることすべてに意味がある、というのが私の信条だ。
だとすると、いま、私は一体、何を試されているのだろう。

しぶしぶ、この試練と向き合う覚悟を決めるに従って、体調も少しずつ落ち着いてきた。
そして、2月8日、私はマンモートーム生検へとのぞんだ。


(つづく)