映画「沈黙」 | 岡部まり オフィシャルブログ Powered by Ameba

映画「沈黙」





映画監督の巨匠マーティン・スコセッシが、遠藤周作さんの小説を映画化する、、と聴いたのは確か、5年くらい前になるかしら(・・?

丁度新国立劇場で久方ぶりにオペラ「沈黙」を観た頃でしたね。

長崎が舞台になる、この物語は、長崎出身の私には、とても身近な物語ですが、その内容は、とても重く、深刻にならざるを得ないほど悲壮な物語です。

イエズス会の宣教師ロドリゴは、禁教令厳しい時代に恩師フェレイラが棄教したという知らせを耳にします。

彼は自ら、恩師と日本人の信徒を救うため、遥か大海原を乗り越えて日本へ訪れます。

しかし、現実は信徒の村人たち、隠れキリシタンから匿われながら つまり、守られながらしか、生きていけません。

やがてキリシタンへの弾圧の手は、匿われていた村人たちのもとまで延びてきますが、ロドリゴはなす術がありません。

踏み絵を踏まず、殉教していく者もいれば、
踏み絵を踏んでさらに苦しんでいく者もいます。

神はなぜ、信徒がこんなに苦しんでいるのに沈黙しておられるのか、と主人公ロドリゴが魂の底から問う、心の物語、とも言える、この、日本人原作の物語を、何故、スコセッシは28年余りも練り、構想し、ブレずに映画にすることを諦めなかったのでしょうか。

答は、インタビューではなく、
この映画を観て私なりに納得しました。
とにかく、
巨匠スコセッシは、渾身の一作を作っています。
こんなに悲しく、辛い、出来事を見せながら
最後までちゃんと見届けなくてはならない、ような使命感さえ沸き起こってくるのは、スコセッシが、誰の立場にも偏った描き方をしていないからでしょう。
つまり、迫害を受けてかわいそう、とか、
日本人の役人は酷い、とか、そんな次元ではない、眼差しと愛を全シーンの登場人物に注いでいるように感じました。

どの国の、誰にも、偏らない眼差し。
宣教師側にも、日本人側にも、キリスト教側にも、仏教側にも、なににも偏らない、立ち位置で上から目線ではなく、感情的でもなく、ただただ静かに確かに目線を誰からも外さず、カメラレンズを通して どの人にも「いろいろ、あるだろう」というような、もっと広くて深い次元の愛をスコセッシは、2時間40分に凝集して映画人生上、もっとも満足した作品をつくりあげたのではないか、と勝手に(笑)思いました。

多分、スコセッシは「多様性の中のユニティ」多様性の中の和合」のようなものを描きたかったのではないかしら。

価値観の違う者たちにも理解し合えるものがあるはずだ、ということかな?
また、、
日本人の役者の迫力が、一際光った作品でもあります。




その後、不思議なことをお聴きしました。
なんと、この、主人公ロドリゴのモデルになった宣教師の方、ジュゼッペ・キエラ神父の墓碑が調布市のサレジオ神学院の敷地内にある、と聴いたので早速友人とお墓参りに行って参りました。

美しい教会のお庭に宣教師を想わせるお帽子が墓石の頂にデザインされた墓碑✨でした。
流石にお墓にはシャッターを押さずに静かに帰りました。

主人公ロドリゴは、小説ではポルトガル出身になっていましたが、キエラ神父は、イタリアのシチリア出身とのこと。

スコセッシは、イタリア系アメリカンのNYっ子で有名ですが、なんと、ご先祖さまはやはり、イタリアのシチリア出身とのこと、です⁉

ウ~ン(^^;不思議。

先週全米ではこの映画、ベストテンの中で5位にランキング!

観る人によって様々でしょうね。