カブックス名古屋校 講師の河端です。 今日は本間宗久の生涯2を少し書きたいと思います。

本間宗久は米屋「新潟屋」の五男として生まれましたが、かなりの神童だったらしく、優秀な子であったため16歳の時に 藩の容認も受け、江戸へ留学します。 そこで江戸の町を目の当たりにします。

そこで今日は、当時の江戸について・・

江戸時代でも中期ごろ、 ご存じ「暴れん坊将軍」こと 和歌山出身 徳川吉宗が、享保の改革に着手していた時代。

質素倹約をむねとしていたため、経済が停滞し、農民の生活は底辺へと移りゆくなかでしたが、 江戸の町は少し違います。この街は何故かいつも活気がある! パリやロンドンが60万人であったのに対し、当時人口100万人都市であり、はっきり言って 平成の今だけでなく当時も、世界最高の人口過密都市! ですからどんな状況であろうが人のパワーはすごい! 米相場の先物取引が行われていた。 久作(宗久の幼名)もこの活況を見るわけだが、 江戸の町は今もそうだが人を飲みこむ ようなパワーがある。 

吉宗は米相場に悩まされたとしている「米将軍」と言われるのもそのゆえんだ。当時の武士の報酬はコメを単位としていたため、米相場の成り行きは、政権維持にダイレクトにつながるのである。しかも徳川幕府始まって以来の御三家からの公方昇進である。(尾張の殿様は政局に負けた・・・(涙)) 人口過密都市ゆえに家事も多い。大火があった。そのような中でも、人々は新しいものを生み出そうとする。近松門左衛門のような文化や人情 器質

江戸湾の埋め立て工事、手賀沼印旛沼などの干拓工事! 当時の江戸へ出た庄内地方の若者には すべてが新鮮に映っただろう。