「報いてくださる主」2019年12月第3週主日礼拝 | 笑って祈って感謝して 「いのちの道キリスト教会」〜우리 교회

笑って祈って感謝して 「いのちの道キリスト教会」〜우리 교회

まだ勉強中のクリスチャンですが、色々と学びながら私達の教会の日常を紹介していきたいと思います。
새 크리스천이 신앙 생활을 하면서 우리의 교회를 소개하겠습니다.
2016年7月より教会名が変わりました。


2019年12月15日主日礼拝




聖書本

ヘブル人への手紙第11章1節〜6節

ヘブル人への手紙第11章24節〜26節

創世記第15章1節

ヨハネの黙示録第22章10節〜15節

ヨハネの黙示録第20章12節

ヘブル人への手紙第11章35節〜40節

ルカによる福音書第6章22節〜36節

マタイによる福音書第6章1節〜4節

マタイによる福音書第6章19節〜20節

マタイによる福音書第10章40節〜42節

マタイによる福音書第22章9節〜14節

ヨハネの黙示録第19章8節

テモテへの手紙第二 第2章1節〜5節

コリント人への第一の手紙第9章 23節〜27節

ヨハネの黙示録第2章10節




智慧宣教師メッセージ

「  『信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神がご自分を求める者には報いてくださる方であるらことを、信じなければならないのです。』〈ヘブル11:6〉



神様は報いてくださる方です。



私たちがなぜ信仰生活を送るのでしょうか。




なぜ皆さんは、礼拝をし、祈り、福音伝道するのでしょうか。



時間を費やし、物質も体力も費やし、なぜ?



報いがなければ、世界で一番クリスチャンがむなしいと思います。




私たちは天に望みを置いて、信仰生活を送って欲しいです。




愛、喜び、命の泉…これらは私たちがイエスキリストを通して受けたものです。




その十字架の愛が皆さんの中にどれだけ根付いているでしょうか。




この世の中で愛も知らず、自分を愛することもできないこんな私を、



御子イエスキリストを送ってくださり、




死の中にいた小さな私を救ってくださいました。




私のために血を流してくださって、すべての恥ずかしさ、苦しさをイエス様が代わりにになってくださり、



私の病気も呪いもイエス様がにない、血潮によって私を買い取ってくださったんです。



その愛があるから皆さんはこの場にいるし、



その愛があるから、伝道してこの愛を流したいんじゃないですか。



私たちが得た救いは、行いによるものでも私たちの努力によるのでもありません。



100%主がしてくださった恵みです。



なんの代価もなしに主が一方的にくださったこの救いは恵みです。



では、救われたら終わりでしょうか。



私たちの信仰による行いによって、主を喜ばせたことに主が報いてくださるのが報酬です。



だから、私たちは天に望みがあるんです。



『彼は、キリストのゆえに受ける辱めを、エジプトの宝にまさる大きな富と考えました。それは、与えられる報いから目を離さなかったからでした。』〈ヘブル11:26〉



モーセはエジプトの王の娘の息子でしたが、何でもある王宮で快楽を求めるよりも、神のために受ける辱め、苦しさを、より尊いと考えました。




モーセは報いから目を離さない信仰がありました。




その信仰が神に覚えられました。



『これらの出来事の後、主のことばが幻のうちにアブラハムに臨んだ。「アブラハムよ、恐るな。わたしはあなたの盾である。あなたへの報いは非常に大きい』〈創世記15:1〉



アブラハムにも報いてくださる神を見上げる信仰がありました。



だから、あり得ない主の約束でも、『この方は必ず報いてくださる方だ』と、歩んで行ったのです。



じゃあ私たちはなぜその報酬を願うのでしょうか。


人間には一度目の死があります。



そして聖書には、二度目の死とは、イエスキリストを信じない人は、裁かれて永遠の死に入ると書かれています。



私たち信じる者は二回目の死を味わうことはありません。



しかし、天国に入ることができるのは、衣を着た人だと聖書にはあります。




衣があるかどうかは、私たちのこの世の行いによって、と書いてあります。



誰よりも天の宴会でイエス様の近くにいたいじゃないですか?




私はその天の望みが、今まで少なかったです。




でも、主を知れば知るほど自分が罪人だとわかり、十字架の愛がさらにわかります。



その愛があるから、信仰生活をしています。



『見よ、わたしはすぐに来る。それぞれの行いに応じて報いるために、わたしは報いを携えて来る』〈黙示録22:12〉



それぞれの行いに応じて報いるために、報いを携えていらっしゃいます。



この信仰を失わずに持っていって欲しいです。




『書物がもう一つ開かれたが、それはいのちの書であった。死んだ者たちは、これらの書物にかかれていることにしたがい、自分の行いに応じてさばかれた』〈黙示録20:12〉




イエスキリストを信じた者は、いのちの書に名が書かれてあります。



ひとりひとひの書物があります。



それを主が記憶され、記録されたものです。




この地で主の愛が満たされ、命が満たされ、喜びが満ちあふれる心がないと、救いもわかりません。



その救いの恵みを知った人が、天に望みを置いて、主なる神を愛して仕えていきたいという心を持って歩んで欲しいです。




殉教も迫害も全ては必ず主が報いてくださいます。


施し、献金、祈り。


私たちがする小さなことも、すべてに報いがあります。



教会でそうじを密かにする人も、主は見ています。



ひとつひとつ皆さんが主を思ってすることは、必ず報いてくださると、おっしゃっています。



『「友よ。どうして婚礼の礼服を着ないで、ここに入って来たのか。」しかし、彼は黙っていた。そこで、王は召使いたちに言った。「この男の手足を縛って、外の暗闇に放り出せ。この男はそこで泣いて歯ぎしりすることになる。」招かれる人は多いが、選ばれる人は少ないのです。」〈マタイ22:12〜14〉



これは天国のたとえです。



天国は誰でも入れますが、でも婚礼の礼服を着た人だけが実際に入ることができるんです。



『花嫁は、輝くきよい亜麻布をまとうことが許された。その亜麻布とは、聖徒たちの正しい行いである。』〈黙示録19:8〉


亜麻布とは正しい行いによって準備されるものです。だからこの地での行いがいかに大事でしょうか。



救いは恵みで受けましたが、冠をいただくのはこの地での行いによって決められます。



パウロも全てを尽くしながら走りました。
主は報いてくださる方だと信じているから。


なぜなら朽ちない冠のためです。



オリンピック選手も金メダルを取るために必死に練習します。目標がはっきりあるから。



悪魔は走る行程から堕落するようにずっと邪魔します。





最後まで走り抜いた人にはいのちの冠を与えてくださると約束されています。




だから、目を覚まして信仰生活を送らないといけません。



それぞれの事情はありますが、皆さんを愛して招いてくださったのはイエス様です。



その方はどれほど皆さんを愛しているか。




十字架の死に至るまで。








そのように救って愛してくださったのが神の愛なんです。

教会の中でしている小さな事にもすべて報いがあります。

時には試みにあってつまずくことがあっても、任されたことを奪われることがないように。


天に望みをいだく皆さんになることを祝福します。



アーメン✨




メッセージ要約 M.N