あなたは傷病時に、どんな医療を受けたいだろうか。血の通った温かい医療費用を抑えた最低限の医療、効果が不明確でも最先端の医療等々、疾患や経済事情、知識やコネの違い等で様々だろう。しかし、本音は誰もが1番目の医療を受けたいはずだ。

 我が国では、希望すれば誰でも人間ドックを受ける事が出来る。また従来「成人病」と呼ばれていた一群の病気が、「生活習慣病」という名称になってから四半世紀が経つ。こうした予防という考え方が、日本人の長寿に大きく影響してきた。

 

 これらは全て、5年程前に亡くなった日野原重明氏(享年107)の功績によるものだ。 正に「巨星堕つ」出来事に、当時マスコミにも大きく取り上げられた。彼の理念は、今でも我が国の医療の礎の1つになっていると言ってもいいだろう。早くから予防医学の重要性を説き、終末期医療の普及にも尽力。血の通った医療を幅広い領域で貫いてきた。敗戦後、GHQが聖路加病院図書館に持ち込んだ医学書等を渉猟した事が、予防や生活習慣の重要性への気付きに繋がったと言われている。

 

 その後の活躍ぶりは枚挙に暇がない。1970年のハイジャック事件で人質となり死に直面、医師としての自覚をし直して以来、74年には看護大学に日本初の博士課程を設置。95年の地下鉄サリン事件では通常診療を停止、大災害を想定して予め準備した施設で640人の被害者の治療に当たる等々、本来医療があるべき姿をいくつも指し示してきた。

 

 活躍ぶりは医療だけに止まらない。講演、教育、執筆、音楽と、寸暇を惜しんで没頭した。長く行った「いのちの授業」には、ロシアの為政者達も是非出席して耳を傾けてほしかった。彼に会った人は、誰もが人が変わったようになると言うから。

 日野原氏は、長く縁のあった聖路加国際病院の院長を無給で務めた。彼はボランティア活動についても熱心で、この病院にもボランティアは多い。なぜなら、患者に寄り添うのが彼が目指す医療だから。ちなみにボランティアは、カトリックのミサの瞑想時に流れる音楽が語源だという。心からの思いが音になるから、そこには義務感も打算もない訳だ。

 

 比較的粗食で、短い睡眠時間ながら移動が多いにも関らず、精力的にフル回転してきた日野原氏。半面「沢山の厳しいルールで心身を縛り付けない」がモットーだった。矛盾するようにも思えるが、ストレスレスの日々を送り続けた事で、長寿の生き方を自ら証明したのだとも言える。最後に、数々の日野原語録から1つだけ紹介しよう。

「地位や名誉は死ねばなくなる。財産も残したところで争いの種を蒔くだけ。『ありがとう』の一言は、残される者の心をも救う何よりの遺産である」。数多の受賞・受章歴を持ち要職を歴任してきた医療の改革者から、もし我々に感謝の意を伝えられたのだとしたら、「こちらこそありがとうございます」と言う他はない。