東日本大震災、12年。 | 有栖川まおの愛が止まらないR

有栖川まおの愛が止まらないR

「有栖川まお」のガンダムで倉木麻衣な日々の出来事を綴ったブログです。

 あの大震災最大の震度となった震度7を観測した地点(「震源地」ではありません)は、宮城県の栗原市築館、奇しくも私の生まれた地でした。

 私の生まれた当時は、築館町という、まだ平成の大合併前で独立した町だったのですが、何しろ、生まれて数ヶ月で泉市(現在の仙台市泉区)に引っ越してしまったモンですから、その築館に住んでいた頃の記憶は一切ありません…。昔、母の実家まで車で行った時に、その築館を通りかかった際、母から「ほら、あそこがあんたの生まれた家だよ」と言われたりしたのですが…分からんっつーの!! 私が物心付いたのは、泉市に越してしばらく経ってからの事だったのですから。おかげで、私は「仙台が生まれ故郷である」という意識は皆無となってしまいました。まるで、終戦直前に満洲で生まれて、物心も付かないうちに日本に引き揚げてきた人みたいな心境ですよ。その泉市の家(平屋かつ借家だったんで、同級生からはバカにされまくってました…)も、今やすっかり取り壊されてしまい、その跡地には老人ケアセンターが建ち、皮肉にも、父が生前そこに通い詰めていたそうです…。

 小4の時に、その隣の団地に持ち家を得られたので引っ越したのですが…何故もっと遠くに引っ越さなかったんだ!? 当時の私は、学校でいじめられまくっていたというのに、よりによって同じ学区の所に引っ越したモンですから、転校して気分一新、というワケには行かなかったのです(泣)。とにかく、仙台在住時はイロイロと酷い目に遭わされてきたモンですから、先日の父の葬儀の時、姉に「あんた、仙台に思い入れがある?」と訊かれたので「無い!!」と即答した程です。

 その団地も、私が仙台を石もて追われるも同然の形で上京してからは、実家近所のスーパーや文房具店が悉く潰れるなどしてすっかり寂れてしまい♪悲しむな、寂れる~村~…)、あの震災によってそれは更に加速する事になり、今や、この団地は老人ホームやらケアセンターやらばかりになってしまい、ちょっとした買い物をするにも、団地から遠く離れたショッピングモールまで足を運ばなくてはいけないまでに落ちぶれてしまいました…人を追い出しておいて自滅するなんて、(おろか)の極(きわみ)としか思えませんが

 ところで、先日、私の母校の大学の学生が書いた「買い物難民」について取り上げた論文がネット上にUPされていて、その中に、この団地が例として取り上げられていて、ビックリしましたよ。

 

 …こんな事を書いたりすると、口さがない仙台の連中から「あの大震災は仙台を追われたお前の怨念が引き起こしたんじゃないか?」などと言われてしまいそうですが、だとしたら、ずいぶんと狙いが外れたモンだな。その仙台の連中には恨みこそあれど、三陸地方の人々に対しては、別に何の恨みも無かったのですから…。

 

「石をもて 追はるるごとく ふるさとを 出でしかなしみ 消ゆる時なし」

(啄木)

 

 …しかし、その仙台に、父の遺品整理の為に度々帰省しなくちゃならないとは、これまた皮肉な話だなぁ。