スポニチ連載 舟木さんの 「我が道」(2)

小学4年のとき、肩叩きをすれば
2007.10.2 (月)~10.4(水)

舟木さんの連載は、ファンなら皆さんがご存知のことに加えて、初めて伺う
お話や写真の掲載も散りばめてあり、順調に滑り出しているようである。
10月1日(日) 、第一回目の見出しは 『 生涯青春 いつまでもラブソングを 』。

10月2日(月)
『 人生変えた一本のハーモニカ 』
10月3日(火)
『 弟のため・・・ボクが歌で稼ぐ!!』
10月4日(水)
『 三代続けてカタギじゃない 』
『 三代続けてカタギじゃない 』

『 人生変えた一本のハーモニカ 』 

そもそも、舟木さんが音楽と出合ったのは、
おばあちゃんのおかげ。
小学4年のとき、肩叩きをすれば 褒美にハーモニカを買ってやると
言われ、毎晩200回1ヶ月間やり
続けて、買って貰った。


音楽に興味を持ち始めた小学
生の頃、ラジオから聴こえてき
た三橋美智也さんの歌声に衝
撃を受けた
・・・ 「おんな船頭歌」
「哀愁列車」

米国のハリー・ベラフォンテも衝撃
だった
・・・カーネギーホールでのライブ盤
収録の「マティルダ」を、やはり
ラジオで聞いた。
舟木さんが歌い手という職業を意識
し始めたのは、この二人との”出会い”
から。
カーネギーでは、 ♪ 聖者の行進
♪ バナナ・ボート ♪ ダニー・ボーイ
♪ ク・ク・ル・ク・ク・パロマ なども歌われているが、
中学生の成幸少年を捉えたのは、会場が大コーラスになっていく最終曲の♪ マティルダ
だった。
この「マチルダ」を聞いたとき、会場の盛り上がり、観客が一体化したコーラスの興奮と感動
が電流のように僕の背筋を熱く駆け抜けた。 当時、 我が家にプレーヤーなどなかったが、
ともかく、 このLPが欲しかった。 ライブ盤ということで、通常のLPよりも高かった。シングル
盤が三百五十円、LPは千七百円だったが、「マチルダ」の入っているハリー・ベラフォンテの
LPは千九百円した。
(「怪傑!!高校生」P25より)
どうしてもハリー・ベラフォンテのLPが欲しい成幸少年は、夏休みに一宮本町通りの 「大口屋
デパート」で、配達のアルバイトをした。 自転車での配達を1ヶ月やって、ようやくそのLPを手
に入れた。 ハリー・ベラフォンテのカーネギーホール・ライブ盤。 これが、成幸少年が買った
最初のレコード。 ~衝撃的な音楽との出会い~ となったのは、ラジオから流れる三橋美智
也さんの歌声と、ハリー・ベラフォンテのライブであった。
~・~・~・~・~・~・~・~・~・~
8月30日、一宮コンサートの翌日、どうしてもその「大口屋デパート」とレコードを購入した「中川
レコード店」を確かめたくて、本町通りを歩いてみた。
← 真清田神社に向って

真清田神社を背にして→

「大口屋デパート」は、現在では「ダイソー」となり、裏手に回って「大口屋」の表示が見つ
けられた。



中学生の成幸少年が、1ヶ月間アル バイトをして、ハリー・ベラフォンテの
ニューヨーク・カーネギーホール・ラ
イブ盤(1959年)を1900円でやっ
と手に入れた。
「大口屋」さん、 成幸少年をアルバ
イトさせて下さって、有り難う、
「中川レコード店」さん、輸入盤LPを
品揃えして下さって、有り難う、と御
礼を言いたい気持ち。
おばあちゃんの買ってくれたハーモ
ニカとともに、舟木さんの音楽の道へ
の入り口になったのだから、、。
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その後、成幸少年は、「歌の勉強がしたいから」 とお父さんにお願いして、
山田昌弘先生のレッスンを受けられるようになった。 名古屋NHK放送局
でコーラスグループの常任指揮者であった山田先生から、クラシックの基
礎や声楽など、先生の教室に通いやすい名古屋の高校に進学し、本格的
にレッスンを開始していった。
13歳年下の弟のことも考え、プロの歌い手になって早く家にお金を入れよ
う・・・こうして、可愛い弟の存在と舟木さんの音楽へ向う強い意志とが重な
って、やがて道を開いていく過程が綴られていく。

「高校卒業後はプロの歌手になりたい」と打ち明けて、興行師
として芸能の世界の厳しさを知っているお父さんに反対される
と、” 事実を作って説得しよう ” と行動を起こす。 

学校を休んで地元テレビ局の「歌のチャン
ピオン」に出場し、松島アキラさんの「湖愁」
で見事チャンピオンになる。

そして、その1ヶ月後の名古屋のジャズ
喫茶で、大きな出会いとチャンスが待っ
ていた。
学校をサボったことは決して誉められるものではないけれ
ど、目標を見つけた時は、なりふり構わず動いてみること
も大切かも知れません。 ボクの場合は、挑戦したことが
人生の転