
沈む日本とカオス化する世界/内田樹 26108

★★★★★
久しぶりの内田樹先生の本。
私の主宰する道場は一種の「コモン(共有地)」である。
私が土地を買い、建物を建て、そして「みんな」に使ってもらっている。
コモンの立ち上げは私の「持ち出し」である。
でも、私は「持ち出し」だとは思っていない。
というのは、私は多田宏先生という偉大な師から
武道の哲学と技術を「贈られた」からである。
「贈られた」ものは退蔵してはならない。
贈与されたものを退蔵すると、何か悪いことが起きる。
場合によっては死ぬ。この教えに例外はない。
贈与されたものがあれば、
それを次の受け手に「パス」しなければならない。
人類発祥以来このルールは変わったことがない。
私はこの太古からのルールに従っているだけである。
師からの贈り物を次世代に伝えるのは私の義務である。
だから道場を建てた。これは神聖なる「私の割り前」である。
「なんでオレだけがこんな余計に負担しなくちゃならないんだ。
誰かちょっと肩代わりしてくれたっていいじゃないか」
というような話ではない。
贈与に対する反対給付義務を果たすことで、
私は師の師のそのまた師から続く長い贈与と
反対給付の流れの中の一つの環になることができたからである。
素晴らしいなぁ。
内田樹先生の多田宏先生が
私にとっての荒谷卓先生だね。
大事なところを繰り返す。
偉大な師から武道の哲学と技術を「贈られた」からである。
「贈られた」ものは退蔵してはならない。
私は師の師のそのまた師から続く長い贈与と
反対給付の流れの中の一つの環になることができたからである。
私も一つの環になれるよう一層精進したい。
私自身は武道や能楽など、いくつかの芸事を学んできた。
学び始めて合氣道は 50年に及ぶ。
合氣道を学び始めた時点で、
私は自分がこれから何を学ぶことになるのか何もわかっていなかった。
自分がそれからあと会得することになる技術を
呼ぶ名詞を知らなかったし、
その後に操作できるようになる身体部位を感知したこともなかった。
「氣海丹田に氣を集める」ことも「胸を落とす」ことも
「手の内を替える」ことも、
ある日そういうことができるようになっている自分を発見するのである。
「そういうこと」ができるようになりたいという「欠如」が先行して、
それを「補充」したのではない。
この世にそのような身体部位があることも知らず、
それを操作する技術があることも知らないにもかかわらず、
稽古を積んでいるうちに、ある日できるようになっているのである。
もちろん稽古にはきちんとした教育体系がある。
それは「先達についてゆく」ということである。
ただし、どこに行くのか、どういう経路をたどるのか、
いつ何が身につくのか、事前には何も情報が与えられない。
ただ「先達」の背中を見ながら歩き続けるだけである。
自分が踏破すべき行程のどこにいるのか、
目的地に到達するまでにどれだけの歳月を要するのか、
何もわからない。
自分が修行していることの意味を叙する語彙も、
その価値を考量するものさしも自分にはない。
そこから「学び」は始まる。
でも、それが武道や宗教や芸能における「修行」なのである。
素晴らしいな、内田樹先生の言語化能力。
僭越ながらさらに付け加えるとするならば、
「目的地」に到達できるかどうか、も武道はわからない。
それでも「何か」を期待して、学び始める。
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