
下流志向 学ばない子どもたち 働かない若者たち/内田樹 24353

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17年ぶり2回目。
学ばない子ども、働かない若者たち、というのがサブタイトル。
17年前は「そうなんだ~そんな人もいるんだ~怖いなぁ~」
くらいに他人事であったが、
その後社会人教育に携わるようになり、
この話がより身近にシュールに感じられるようになった。
消費者マインドは等価交換を望み、
等価交換は無時間モデルですから、
高等教育の場でも子どもたちが「学び」の動機づけを失います。
時間性を排除したところに「学び」が成立するはずがないからです。
例えば、大学には「シラバス」というものがあります。
シラバスというのは、昔で言うと授業概要とか、
学習便覧みたいなものの、もっと詳しいものです。
この科目の目的は何で、教育方法はどのようなもので、
何月何日にはどういう主題でどういう学術情報を提供すると書いてある。
どうしてこんなものがあるかというと、
シラバスはジョブ・ディスクリプションだからです。
これは大学が学生と取り交わした労働契約である、と。
だから、何月何日にこれこれのことを教えると
シラバスには書いてあるのに、先生がそれを教えなかった場合、
学生たちは「これは契約違反である」と
大学にクレームをつけることが許される。
これは高等教育の自殺の一つの徴候だと私は思っています。
自分がこれから何を学ぶかについて、
学生があらかじめ知っているということを前提にしては、
学びは成立しないからです。
学びというのは、自分が学んだことの意味や価値が
理解できるような主体を構築してゆく生成的な行程です。
学び終えた時点ではじめて自分が何を学んだのかを
理解するレベルに達する。
そういうダイナミックなプロセスです。
学ぶ前と学び終えた後では別人になっているというのでなければ、
学ぶ意味がない。
これを僕は「メンター(先達)のパラドクス」と呼んでいます。
僕たちがある知識なり技術なりを習得しようと望むとき、
メンターに就いて学びます。
しかし、メンターというのはよく考えるとまことに不条理な存在です。
武術でも芸術でも、何かを習おうとするとき、
仮にそこに何人かのメンター候補者がいたとします。
誰に就いて学ぶべきか、僕たちはその中から選ばなければならない。
でも、僕たちはこれから学ぶ知識や技術についてよく知らない。
よく知らないからこそ「学びたい」と思っているわけだから、
知らなくて当然です。
しかし、よく知らない分野のことについて、
誰が技芸にすぐれており、
誰が自分をあやまたず目的地に連れていってくれるのかを
決定しなくてはならない。
でも、初心者はその定義からして、
「目的地」がどこだかよくわかっていない。
自分がどこに行くのか知らない人間が
自分を目的地に連れていってくれる人間が誰であるかを
言い当てなくてはいけない。
これを「不条理」と申し上げたのです。
なるほどなぁ、そんなこと考えたことも無かったが、
確かにこれは不条理だ。
でも、社会人大学院や研修では、これは言えないなぁ(苦笑)。
学ぶ側が「素人」ではないからか。
「師であることの条件」は「師を持っている」ことです。
人の師たることのできる唯一の条件は
その人もまた誰かの弟子であったことがあるということです。
それだけで十分なんです。
弟子として師に仕え、自分の能力を無限に超える存在と
つながっているという感覚を持ったことがある。
ある無限に続く長い流れの中の、自分は一つの環である。
長い鎖の中のただ一つの環にすぎないのだけれど、
自分がいなければ、その鎖はとぎれてしまうという
自覚と強烈な使命感を抱いたことがある。
そういう感覚を持っていることが師の唯一の条件だ、と。
内田樹先生の本は脳の思わぬところを刺激してくれる。
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