ためらいの倫理学 戦争・性・物語/内田樹 22136 | 年間365冊×今年22年目 武道場主 兼 投資会社・コンサル会社   オーナー社長 兼 グロービス経営大学院准教授による読書日記

ためらいの倫理学 戦争・性・物語/内田樹 22136

 

★★★☆☆

内田樹さんの初の単著という本書。

 

 最初の方のスーザン・ソンタグ批判から最後のカミュ論まで、

 言っていることはずっと同じである。

 それは何か、と言われても、さすがに一言ではうまく言えない。

 無理して言えば、

 それは「自分の正しさを雄弁に主張することのできる知性よりも、

 自分の愚かさを吟味できる知性のほうが、私は好きだ」

 ということになるだろう(なんだ、一言で言えるじゃないか)。

 

というかなり攻撃的な本で読み終えたあとちょっとげんなり。

武道的に言えば「居着き」まくっているともいえるのかな。

そんな中でも、本書のイシューでは無さそうだが

ここにはかなり共感を覚える。

 

 世の中には査定されるのが好きな人がいる。

 とくに、「いい点をとる」ことに慣れている人、

 「いい点をとること」ができる人は、

 査定されることを厭わない傾向がある。

 

 私は「査定」されるのが大嫌いである。

 それは私の回答がいつもひどい点しか

 つけられなかったからではない。

 誰かが「適正に採点してくれる」ということを

 私は信じていないからである。

 

 何を隠そう、私は受験生としてはすばらしく要領がよかった。

 現代国語の問題などでは、瞬時のうちに出題者が

 「どういう答えを書いてほしいか」を読み当てて、

 すらすらすいすいと心にもないことを書いて満点をとることができた。

 そして、十七歳くらいの子どもに下心を読まれる

 出題者のことを「バカだ」と思っていた。

 当然、「バカ」が出題する教科ほど私は高い点数をとった。

 

 受験勉強を通じて私が学んだのは、

 「査定」型の知力トレーニングというのは、

 「どういう答えをすれば、誰がどういうふうに喜ぶか」を

 「見透かせる」能力の涵養に役立つだけだ、

 ということであった。

 私はそのようなものを「知性」と呼ぶ氣になれなかった

 (しかし、結婚生活からサラリーマンの営業活動まで、

 世の中のほとんどの場面がこのタイプの

 能力だけを要求しているということにまでは、

 高校生の私は想像が及ばなかった)。

 

 そういう屈折した(というほどでもないけど)

 子ども時代を送ったせいで、私は「設問と回答」形式で考えたり、

 私の回答を誰かに「査定」されることを

 想像しただけで「鳥肌が立つ」ようになった

 (だから結婚生活にも失敗したし、

  サラリーマンとしてもろくな仕事ができなかったし、

  研究者としての業績はどれも「評価になじまない」ものばかりだった)。

 

そうか。サラリーマン時代何が嫌だったか?を振り返ると

上司たちの「査定」や「評価」が我慢ならなかったことなのかもしれない。