街場の天皇論/内田樹 22098
★★★★★
タイトルは「天皇論」だが、直接的な「天皇論」は3割くらい。
でも間接的、脱線的な内田樹節がたまらない。
まず、直接的な天皇論。
しかし、それでもまだわが国には
「非利己的にふるまうこと」を
自分の責務だと思っている人が間違いなく一人だけいる。
それだけをおのれの存在理由としている人がいる。
それが天皇です。
1億2700万人の日本国民の安寧をただ祈る。
列島に暮らすすべての人々、
人種や宗教や言語やイデオロギーにかかわらず、
この土地に住むすべての人々の安寧と幸福を祈ること、
それを本務とする人がいる。
そういう人だけが国民統合の象徴たりうる。
天皇制がなければ、
今の日本社会はすでに手の付けられない不道徳、
無秩序状態に陥っていただろうと私は思います。
然り、然り。
この後にお隣韓国の方からの「羨ましい」で補強、強調される。
中盤になると、かなり脱線。
あれ、天皇論じゃなかったっけ(笑)。
でも、それがまた嬉しい。
薩摩示現流の流祖に東郷重位という人がいた。
城下に野犬が出て人々が困っているという話を聞きつけて、
重位の息子が友人と野犬を斬りに行った。
何十匹か斬り殺してから家に戻り、
刀の手入れをしながら、
「あれだけ野犬を斬ったが、一度も切っ先が地面に触れなかった」と
剣をたくみに制御できたおのれの腕前を友に誇った。
隣室で息子たちの会話を聞いていた東郷重位はそれを聞き咎めて、
「切っ先が地面に触れなかったことなど誇ってはならない」と言って、
「斬るとはこういうことだ」と脇差で目の前にあった碁盤を両断し、
畳を両断し、根太まで切り下ろしてみせた。
私の合氣道の師である多田宏先生は
稽古で剣を使うときには必ずまずこの話をされる。
剣技の本質をまっすぐに衝いた逸話だからである。
重位が息子に教えたのは剣技とは
「自分の持つ力を発揮する」技術ではなく、
むしろ「外部から到来する、
制御できない力に自分の身体を捧げる」技術だということである。
剣というのは、扱ってみるとわかるが、
手の延長として便利に使える刃物のことではない。
そうではなくて、剣を手にすると自分の身体が調うのである。
私が剣を扱うのではなく、剣が私を「あるべきかたち」へ導くのである。
「身体が調う」「身体がまとまる」というのが剣を擬したときの体感である。
ひとりではできないことが剣を手にしたことでできるようになる。
構えが決まると足裏から大きな力が身体の中に流れ込んで来て、
それが刀身を通って、
剣尖からほとばしり出るような感じがすることがある。
そのとき人間は剣を制御する「主体」ではもはやなく、
ある野生の力の通り道になっている。
東郷重位は「斬るとはこういうことだ」と言って、
地面に深々と斬り込むほどの剣勢を示してみせたが、
人間の筋力を以てしては木製の碁盤を斬ることはできない。
むろん鉄製の甲冑を斬ることもできない。
できないはずである。
でも、それができる人がいる。
それらの剣聖たちの逸話が教えるのは、
彼らは「人間の力」を使っていなかったということである。
解剖学的にも生理学的にも
人間には出せるはずのない力を発動する技術がある。
良導体となって野生の力を人間の世界に発現する技術がある。
それが武芸である。
今のところ私はそのように理解している。
ああ、武道を嗜んでいて本当に良かった、と思う。
まだしばらく碁盤を脇差で真っ二つには出来そうにないが
この
外部から到来する、
制御できない力に自分の身体を捧げる
を求めて道を歩みたい。
植芝盛平先生の実に面白いエピソードもあったが、
これはまた次回。
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