戦後、「二つの中国」に対して、アメリカに追随する日本政府は中華人民共和国ではなく、台湾を支持。日中関係は国交の無いまま最悪の事態に。
周恩来総理が"民間貿易"という活路を示すも、岸信介首相は反中国的な発言を繰り返し交渉は決裂。
両国の疑心暗鬼を晴らすため、松村謙三、高碕達之助が訪中を重ね、相互の信頼が芽生えていく。
高碕達之助と周恩来(1962)
1963年(昭和38年)10月、中国は「中日友好協会」を発足させた。
友好協会は、中国では、国交を樹立した国と民間交流を推進する窓口として設置しており、国交のない日本のために友好協会が設けられたことは、例外的な措置であった。
「中日友好協会」の名誉会長には郭沫若、会長に廖承志らが就任。錚々たる対日関係の専門家や、周恩来総理が天塩にかけて育ててきたメンバーが勢揃いしていた。
さらに、翌1964年(昭和39年)4月、日中両国への「LT貿易」の連絡事務所の設置と、記者交換が決定をみた。
だが、高碕達之助は、既に2ヶ月前に他界していたのである。
その駐日事務所の主席代表として来日したのが、後に日中友好協会の会長を務める孫平化であった。
再び暗雲
松村謙三や高碕達之助らの努力が少しずつ実を結び、日中関係に光が差したかに思えた。
しかし、それも束の間、日中間には、再び暗雲が垂れ込めていったのである。
同年10月25日、池田勇人首相が病気療養のため辞意を表明。後継首班には、佐藤栄作が指名された。
佐藤政権がスタートしたころから、アメリカはベトナム戦争への軍事介入を強め、翌65年2月には、北爆が開始された。
佐藤首相は、アメリカのこの政策を積極的に支持し、安保条約に基づいて、できる限りの協力をするとともに、アメリカの反共包囲網に同調し、台湾重視政策をとっていった。
そして、台湾への配慮から、輸出銀行の資金を日中貿易には使わせないとする、いわゆる「吉田書簡」を、政府の方針として正式に採用したのである。
「吉田書簡」は、1963年(昭和38)に起こった中国人の亡命事件で、日本の対応に激怒した台湾との関係修復のために、元首相の吉田茂が、蒋介石政権の秘書長宛てに出した手紙であった。
書簡では、日中貿易には輸入銀行の資金は使わせないとしていたが、吉田は既に首相でもなく、この手紙自体、私信にすぎなかった。しかし、それを政府が方針としたことによって、輸銀の資金の使用が前提となっていた中国との大型取引は、すべて無効となり、日中貿易の発展に大きな障害が生じてしまったのである。
佐藤政権もまた、中国敵視政策をとった岸政権と同様に、日中関係の亀裂を再び深めていくことになるのである。
松村謙三は、佐藤政権が、こうした事態を招くことを予想し、政府与党内にあって、佐藤派とは対決姿勢を固めていた。しかし、日中友好を推進する松村らのグループは少数派であり、政権交代の計画もままならなかった。まさに高碕達之助が、日中国交回復の道は遠いと語っていたように、確かに一筋縄ではいかなかった。
佐藤政権は、その後も中国を敵視する政策を強化していった。1967年(昭和42年)11月、訪米した佐藤首相はジョンソン米大統領との共同声明で、次のように発表した。
中国は、佐藤政権の姿勢を厳しく非難した。
"文革"の嵐
中国の国内も、揺れに揺れていた。あの「プロレタリア文化大革命」が猛威を振るっていたからである。
"文革"は、革命精神を永続化する意図で、文芸や歴史学の批判から始まり、修正主義、資本主義へと傾斜していく傾向を改めようとするものであった。
66年(同41年)、急進的な学生、生徒によって「紅衛兵」が組織されると、その動きは一挙に過激化していった。
紅衛兵は「旧思想、旧文化、旧風俗、旧習慣」の「四旧」の打破を掲げ、激しい"文革"の嵐を巻き起こした。紅衛兵は"兵"といっても、年少者は13歳ほどの少年少女までいた。
その"文革"の第一歩は、「反動的」「ブルジョワ的」な旧地名などの変更から始まった。繁華街の王府井大街は「革命大路」に書き換えられ、「共産主義大道」や、アメリカ帝国主義を滅ぼす意味の「滅帝路」などの通りが誕生した。
商店の古い屋号の看板も叩き壊された。高級料理店や骨董品店、古書店などは特に批判の対象となったのである。「最後通告」と書かれたビラを貼り、街を闊歩する紅衛兵の姿は、人々を震撼させた。破壊は孔子廟、寺院、教会にも及んでいった。
さらにまた、革命前からの知識人や著名な学者、芸術家、旧地主、香港・台湾の出身者などが次々と攻撃に晒されたのである。家を荒らされ、「階級の敵」「ブルジョワの畜生」などと罵倒された。
そして、自己批判を迫られ、三角帽子を被されて、街中を引きづり回されるのである。中学校でも、知識の重要性を叫んできた校長や教師の多くが、生徒たちの標的となった。
いわゆる"文革"は、権力闘争の道具にされ、痛ましい流血の惨事も起こしてしまった。周恩来総理も、紅衛兵に取り巻かれ、執務室に閉じ込められるという事態もあった。こうしたなかで、新しい権力機構として、「革命委員会」が全国の省や市に至るまでつくられていったのである。
1969年(昭和44年)には、文革推進派の勝利が宣言されるが、"文革"の嵐は、まだ終息することはなかった。
"文革"の大混乱が続く67年(同42年)の8月17日、対立の溝を深めていたソ連の大使館に、中国人のデモ隊が乱入するという事件が起こる。さらに、5日後には、英代理大使事務所が、イギリスの香港政策に抗議する紅衛兵らのデモ隊に包囲された。相次いで起こった、これらの出来事が、中国に対する国際世論の批判の声を、ますます高めていったのである。
また、9月には、中国政府は、日中記者交換で駐在が認められていた新聞社のうち3社の記者に対して、反中国宣伝を行い、中日友好関係を破壊したとして、常駐資格を取り消した。
これによって、日本のマスコミも、中国に対して、一段と強い警戒心をもつようになった。日本国内には、日中友好を口にするなど、もってのほかであるという雰囲気が漂ってしまった。
この年末、日中間の貴重な政治交渉のパイプでもあった「LT貿易」は、期限切れとなった。協定延長の貿易交渉は、年が明けた1968年(昭和43年)2月になって行われたが、こうした事態のなかだけに、交渉が難航を極めたのも当然であった。
また、内政・外交を掌握している周総理にも、"文革"の嵐が襲いかかり、総理が強硬な外交姿勢をとらざるをえない状況がつくられてしまった。
それでも、双方の粘り強い協議によって、期限を「LT貿易」の5年から1年に短縮した、日中覚書貿易の協定が調印される。窮地に陥った日中関係のなかで、民間契約の友好貿易とともに、"半官半民"の性格をもつ、この覚書貿易が、細々とした交流の"糸"として残されていたのである。
日中の関係打開への見通しは、依然として立たなかった。
両国の友好への歩みは次々と挫折し、国交正常化をめざして運動を続けていた人々の心には、絶望と敗北感が、深い闇となって広がっていたのであった。
獅子吼
1968年9月8日 - 。創価学会の学生部総会が東京・両国の日大講堂で開催された。池田大作会長の講演である。
「日中国交正常化提言」は、朝日、読売、毎日をはじめ、翌9日付の新聞各紙が一斉に取り上げた。
また、提言は海外にも発信された。提言を知った周恩来総理は、その内容を高く評価した。松村謙三は提言に対して、「百万の味方を得た」と語った。
日中国交正常化提言
(1968年9月8日)
公明党創立者、創価学会・池田会長による「日中国交正常化」を主張する講演が行われた。
提言では、①中国の正式承認と国交正常化、②国連における中国の正当な地位の回復、③経済・文化の交流推進を主張。そのニュースは中国の周総理の耳にも届き、中国政府による公明党の招聘へと流れていく。
しかし、反響は、決して共感と賛同だけではなかった。予想していたように、激しい非難と中傷に晒されなければならなかった。
学会本部などには、嫌がらせや脅迫の電話が相次いだ。街宣車を繰り出しての、けたたましい"攻撃"もあった。"宗教者が、なぜ"赤いネクタイ"をするのかとの批判もあった。
また、外務省の高官が、提言を取り上げ、強い不満を表明した。日本政府の外交の障害になるというのだ。アメリカの駐日大使、在日米軍司令官らとの協議の席での、露骨な非難である。
池田会長も、創価学会も、日米両政府にとって「害悪な存在」であると、強く印象づけたかったのだろう。
日中について 22:58〜
提言から一年半が過ぎた、1970年(昭和45年)の3月のことであった。池田会長は、日中友好の先達である松村謙三と会見した。
つづく
『新・人間革命』第13巻
池田大作
主な参考文献
『日中戦後関係史』古川万太郎著
『日中国交回復関係資料集』日中国交回復促進議員連盟編
『戦後日中関係50年』島田政雄・田家農著
『日中交渉秘録』田川誠一著
『ドキュメント黎明期の日中貿易』日中貿易逸史研究界著
『戦後日本外交史』石丸和人・松本博一・山本豪士著
『日中問題入門』高市恵之助・富山栄吉著
『現代中国の歴史』宇野重昭・小林弘ニ・矢吹晋著
『戦後日本の中国政策』陳肇斌著
『原典中国現代史』毛里和子・国分良成著
『日本との三十年』孫平化著
『中国と日本に橋を架けた男』孫平化著
『周恩来と池田大作』南開大学周恩来研究センター著
『創価学会』逹高一編著
『花好月圓-松村謙三遺文抄-』青林書院新社
『松村謙三と中国』田川誠一著
『松村謙三』木村時夫編著
『三代回顧録』松村謙三著
『長兄-周恩来の生涯』韓 素音著
『周恩来伝』金冲及主編
『中台関係史』山本勲著
『日中関係史の基礎知識』河原宏・藤井昇三編
『日華断交と日中国交正常化』田村重信・豊島典雄・小枝義人知識
『蒋介石と毛沢東』野村浩一著
『文化大革命十年史』厳家祺・高皋著
『中国文化大革命』中島嶺雄著
『資料 中国文化大革命』加々美光行著
『ある紅衛兵の告白』梁暁声著
『紅衛兵の時代』張承志著
『私の紅衛兵時代』陳凱歌著
『毛沢東のベトナム戦争』朱建栄著
『新しい眼で見た現代の戦争』三野正洋著
他
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