ニコご訪問ありがとうございます!

アメリカ雷中国

米中の険悪な状態が続いています。日本国旗日本はアメリカに追随して中国を敵視ムキーッしています…

うーんこれは現代であり、同じく、およそ50年前もそうでした。

当時は手突如アメリカと中国が握手をしました。日本は、その時どうしたのでしょう?魂

今、もし、同様のことが起きた時、日本はどうするのでしょう?魂





ランニング前回あらすじ
日本では、池田勇人から佐藤栄作へと首相が代わり、アメリカはベトナム戦争の泥沼へ突入していく。

安保条約に基づき日本は、アメリカの中国敵視政策に同調。日中関係に再び亀裂が生じてしまう。

一方、中国では"文革"の嵐で、毛沢東による大粛正が行われていた。国際的な批判の声も高まり、ますます孤立していった。

盟友・高碕達之助の亡き後、日中のために奮闘していた松村謙三は、創価学会の池田会長と会見。訪中を切実に懇願するも、池田会長の応えは…





公明党 × 中国共産党


公明党の訪中が実現したのは、1971年(昭和46年)の6月である。公明党の訪中団は、日中国交正常化の基本的な条件について合意を得ようと、勢い込んで出発した。

公明党訪中団

松村謙三が希望する池田会長に代わって訪中した公明党。池田会長は「時機を見て、必ず中国に参ります」と約束した。


松村謙三は、この時、既に病床にあった。2月に入院して以来、病床を去れずにいたのである。

中国では、初訪問の公明党との交渉に、中日友好協会副会長の王国権らがあたった。それは、廖承志、孫平化などの対日関係のエキスパートが、文化大革命の影響で一線を退いていた時期にあって、最も強力な布陣といえた。

6月18日、歓迎宴が開かれたが、その際、公明党の訪中団代表は、戦時中の軍国主義による侵略を心から謝罪した。

中日友好協会代表団との会談は、翌19日から、北京のホテルで行われ、国交正常化の条件をめぐって、率直な意見を交わし合った。

公明党側は、国交正常化のために主張してきた、「一つの中国」「台湾は中国の不可分の領土」「日台条約は廃棄すべき」「中華人民共和国の国連加盟」などの見解を語った。

中国側も、これらの主張には賛同の意を示したが、アメリカのアジア政策に対する認識をめぐっては、なかなか合意に至らなかった。

中国側は、アメリカのアジア政策は、「アメリカ帝国主義の侵略」であると捉えていた。そして、日本政府が日米安保体制を維持していることは、これに加担するものであり、「日本軍国主義の復活」であると主張した。

それに対して公明党は、インドシナ三国などからの米軍の撤退は主張したが、基本的には、アメリカとの友好関係を尊重していた。したがって、公明党としては、同意することはできかねたのである。

何度も小委員会を開いて、討議を重ねたが、議論は並行線をたどった。そのため、国交正常化の基本的な条件を示せる共同声明の発表の見通しは立たなかった。

訪中団の顔には、落胆の色が滲み、帰国の準備を始めた。その時、周総理との会見が伝えられたのだ。 


公明党 × 周恩来

翌28日の午後10時、会見会場の人民大会堂に到着した一行を、周総理らが温かく出迎えてくれた。

周恩来

姿を現した周総理の第一声は「どうか池田会長に、くれぐれもよろしくお伝えください」だったと記録されている。そして、重要資料として配布されたのは池田会長の「日中国交正常化提言」だった。


会談が始まった。

公明党の訪中団の一人が、周総理に、国交を正常化し、日本と平和条約を結ぶ条件とは何かを、率直に尋ねた。

周総理は語り始めた。

「公明党が成立してから、皆さんの主張に注目してきました。皆さんは中日関係について、よい意見をもっており、私たちも、高く評価しております。このたび、私たちが皆さん方をお招きしたのも、こういうことから出発しています」

公明党は、日中国交正常化を外交政策の柱としたが、総理はそこに着目してきたのである。

さらに総理は、「皆さんは、どうすれば中日国交の回復ができるか、正しい意見をお持ちです」と前向きして、公明党の主張を確認するように列挙していった。

①一つの中国を認め、中華人民共和国が中国人民を代表する唯一の正統政府と認めている。

②「二つの中国」「一つの中国、一つの台湾」に反対し、台湾は中華人民共和国の一つの省であることを認め、台湾の帰属未定論という誤った見解に反対している。

③日台条約は不法であり、廃棄すべきであると主張している。

④アメリカの軍事力が台湾と台湾海峡を占領したことを侵略と認め、すべての外国軍隊は、これらの地域から撤退すべきであると主張している。

⑤中華人民共和国が国連のすべての組織において、安全保障理事会常任理事国としての合法的な地位を回復すべきであると主張している。

これらは、公明党がつくり上げてきた政策であった。

周総理は、メンバーに視線を注ぎ、微笑を浮かべた。

総理は断言した。

「公明党の主張する、この五つの点が実現すれば、日本政府と中華人民共和国政府との国交を回復することができ、戦争状態を終わらせることができます。さらに皆さんの期待している中日友好が進み、中日両国は平和五原則に則って平和条約を結び、なお、それにとどまらず、相互不可侵条約を結ぶ可能性もあります」

訪中団のメンバーが重ねて尋ねた。

「日中国交回復のためには、双方が、すべての点において、意見が一致しなければならないとお考えですか」

「すべての点で一致することは不可能です。私たちは中国共産党で、皆さんは公明党です。世界観も、立場も違います」

そして、こう名言したのである。

「すべての意見の一致が国交回復の条件ではありません」

周総理の言葉は、訪中団にとって、全く予想外であった。

前年秋の社会党訪中団との共同声明では、「米帝国主義と日本軍国主義の復活への反対」や「日米安保条約の廃棄」などが盛り込まれ、国交回復の条件とされてきた。

また、訪中してからの公明党との交渉でも、中国側は、盛んにそれを主張していたのである。日本政府としては、中国側が、反米や日米安保条約の廃棄を条件とする限り、国交正常化には、とうてい動き出すことはできなかった。

ところが、周総理は、それを覆して、極めて柔軟な姿勢を見せ、日本政府が、公明党の五つの主張を受け入れるならば、中国は国交正常化に踏み切ることを、明らかにしたのである。

訪中団の顔が輝いた。

翌6月29日から、公明党の訪中団は中国側と、国交正常化の条件を示すことになる共同声明の作成に入り、30日には、内容、表現ともに、ほぼ合意に達した。

そして、遂に7月2日、公明党訪中団と中日協会代表団との共同声明の調印が行われたのである。

中国と公明党の共同声明が発表されると、日中国交への機運は、次第に高まっていった。ここに示された条件なら、日本政府としても了承できるはずだとの見方が、世論となっていったのだ。

国交正常化の基本条件が明示された、この共同声明は、「復交五原則」と呼ばれ、その後の政府間交渉の道標となったのである。


時代の胎動

共同声明の発表から2週間ほどした7月半ば、人々が予想だにしなかったニュースが世界を駆け巡った。

アメリカのニクソン大統領が、突如、テレビ放送で、翌年5月までに訪中する計画があることを発表したのである。

ニクソン

【1913-1994】


そして、既に極秘裏のうちに、大統領補佐官のキッシンジャーが訪中し、周恩来総理と会見していたことが明らかになった。

キッシンジャー × 周恩来


最も大きな衝撃を受けたのは、アメリカの反共政策に同調し、中国に対して非友好的な態度を取り続けてきた、日本政府であったにちがいない。

アメリカは、冷戦構造のなかで、中国を敵視してきたアジア政策の、大転換に踏み切ったのだ。日本の中国政策の変更も、もはや時間の問題となった。

ニクソン訪中計画のニュースを、松村謙三は病床で知った。雷雨が激しく窓を叩く病棟で、彼は力を振り絞るようにして語った。

「世界平和のためにいいことだ。これから我が国としても、打つべき手はある。首相が中国へ行くことだ!」

その松村は、8月21日、日中国交の橋を見ずして、88歳の生涯を閉じた。

ほどなく、日本政府も中国への外交政策を転換することになる。しかし、それは自らの信念によってではなく、"状況の変化"に従ったにすぎなかった。

時代は、日中国交正常化へ、急速な勢いで進んでいった。

また、国連でも、中国の代表権を認める国が大半を占めていった。この1971年(昭和46年)10月の国連総会では、中華人民共和国政府が中国を代表する唯一の政府であることを認め、台湾の国民党政府に代わって、国連に招請すべきだとするアルバニア案が、76対35の大差で可決された。


そして、翌72年(同47年)の2月には、ニクソン米大統領が中国を訪問。米中は、日本の頭越しに国交樹立へと踏み出したのである。

毛沢東 × ニクソン



日中国交正常化へ

7月、田中角栄内閣が発足した。外相は大平正芳であった。

公明党は、この年の5月と7月、中国へ代表団を派遣した。

田中内閣発足直後の7月の訪中では、国交回復への政府とのパイプ役を務めた。公明党の訪中団は周総理と、国交回復の具体的な問題点を、一つ一つ煮詰めていった。

日中国交の実現に際して、日本政府には、幾つかの憂慮があった。その最大の難問が、日本が中国に与えた戦争被害の賠償問題であった。


1937年(昭和12年)から終戦に至る8年間の、中国抗日戦争中での中国側死傷者は3500万人、経済的損失は直接・間接を合わせて、総額6000億ドルともいわれる。日本がそれを支払うことになれば、日本経済は破綻をきたし、経済発展など、思いもよらなかったにちがいない。

しかし、周総理は、公明党との会談で、中国は対日賠償を放棄すると語ったのである。

"かつて中国は、日清戦争に破れ、日本に多額の賠償を払った。そのため、中国の人民は重税を取り立てられ、塗炭の苦しみをなめた。戦争は一部の軍国主義者の責任だ。日本の人民も軍国主義の犠牲者である。その苦しみを、日本の人民に味わわせてはならない"

それが、周総理の考えであったのだ。

総理は、公明党との最後の会談の折、これまで話し合ってきた事柄をまとめた、日中共同声明の中国側の草案ともいうべき内容を読み上げていった。

公明党の訪中団は、必死にメモし、帰国後、それを田中首相、大平外相に伝えた。

大平外相、田中首相と公明党の竹入委員長


そこには、日米安保条約の見直しなど、日本に苦渋の選択を迫るような問題は、一切なかった。首相も外相も安堵した。日中の未来に、確かなる光が差した。

こうして、電撃的なスピードで、田中首相の訪中が可能となったのだ。


田中角栄首相をはじめとする政府の代表団が、中国の大地に立ったのは、1972年(昭和47年)の9月25日のことであった。

そして、29日午前10時18分 - 。

北京の人民大会堂で、日中共同声明の調印式が行われた。


日中両国は、遂に歴史的な瞬間を迎えたのである。そのニュースに、日本中が沸き返った。

田中角栄、周恩来の両国首相、そして、外相が厳粛に声明に署名し、首相同士が何度も固い握手を交わした。




ここに、中華人民共和国の成立から23年にして、遂に日中国交が樹立し、両国の新時代の幕が開かれたのである。




『新・人間革命』第13巻
池田大作





epilogue
「一期一会」

周恩来 × 池田大作
(1974年12月5日)

周総理「よくいらっしゃいました。池田先生とは、どうしても、お会いしたいと思っていました」


冷え込む北京の冬。玄関に入ると周総理は立って待っていた。中南海の305病院。


鄧小平から総理の病状は聞いていた。池田会長は会見を辞退するも、周総理が強く希望した。


廖承志、池田会長、周総理、香峯子夫人


会見の前の記念撮影。この後、周総理の体調を気遣い、池田会長と香峯子夫人だけが、会見の部屋に入った。


周総理「中日両国人民の友好関係の発展は、どんなことをしても必要であることを何度も提唱されている。そのことが私にはとても嬉しいのです」


訪中の2カ月前の同年9月、池田会長はソ連を訪問。中ソ関係が一触即発の緊張を高めるなか、ソ連・コスイギン首相と会見。


コスイギン首相 × 池田会長


コスイギン首相から「中国を攻めるつもりも、孤立化させるつもりもありません」との言質を取っていた池田会長は、それを周総理に伝えた。


約30分にわたって行われた会見。翌6日付『人民日報』には"池田会長夫妻と、親密で友好的な話し合い"と 写真入りで報道された。


周総理

「50年前、桜の咲く頃に私は日本を発ちました」


19歳で留学した日本の思い出を、周総理は懐かしそうに振り返った。

池田会長
「もう一度、ぜひ桜の咲く頃に日本に来てください」


周総理

「願望はありますが、無理でしょう」


周総理は癌におかされ、闘病中の身であった。


周総理の夫人"人民の母"鄧穎超氏と会談。1978年の初会見以来、周総理亡き後も友誼を重ねた。


年ごとに花咲く創価大学の「周桜」。碑は、会見が行われた北京の方角に向かって建てられている。





主な参考文献

『日中戦後関係史』古川万太郎著
『日中国交回復関係資料集』日中国交回復促進議員連盟編
『戦後日中関係50年』島田政雄・田家農著
『日中交渉秘録』田川誠一著
『ドキュメント黎明期の日中貿易』日中貿易逸史研究界著
『戦後日本外交史』石丸和人・松本博一・山本豪士著
『日中問題入門』高市恵之助・富山栄吉著
『現代中国の歴史』宇野重昭・小林弘ニ・矢吹晋著
『戦後日本の中国政策』陳肇斌著
『原典中国現代史』毛里和子・国分良成著
『日本との三十年』孫平化著
『中国と日本に橋を架けた男』孫平化著
『周恩来と池田大作』南開大学周恩来研究センター著
『創価学会』逹高一編著
『花好月圓-松村謙三遺文抄-』青林書院新社
『松村謙三と中国』田川誠一著
『松村謙三』木村時夫編著
『三代回顧録』松村謙三著
『長兄-周恩来の生涯』韓 素音
『周恩来伝』金冲及主編
『中台関係史』山本勲著
『日中関係史の基礎知識』河原宏・藤井昇三編
『日華断交と日中国交正常化』田村重信・豊島典雄・小枝義人知識
『蒋介石と毛沢東』野村浩一著
『文化大革命十年史』厳家祺・高皋著
『中国文化大革命』中島嶺雄著
『資料 中国文化大革命』加々美光行著
『ある紅衛兵の告白』梁暁声著
『紅衛兵の時代』張承志著
『私の紅衛兵時代』陳凱歌著
『毛沢東のベトナム戦争』朱建栄著
『新しい眼で見た現代の戦争』三野正洋著
鄧穎超』西園寺一晃著
『人民の母 鄧穎超』高橋強・水上弘子・周恩来鄧穎超研究会編著



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