アレクサンドル・ソルジェニーツィン
【1918 - 2008】
ソ連-ロシアの「ノーベル文学賞」受賞作家。母親はウクライナ人、父親はコサック出の帝政ロシア軍士官として子の誕生前に戦死。ナチスとの独ソ戦にて戦功をあげるも、スターリンを批判して流刑。スターリン死去後に名誉回復するも、ソ連政府により市民権を剥奪され国外追放。ゴルバチョフ政権になり市民権回復。『甦れ、ロシアよ』は2650万部発行された。
戸田城聖
【1900 - 1958】
[とだ・じょうせい]小学校教諭として校長・牧口常三郎に師事。牧口の日蓮正宗入信により帰依。牧口と「創価教育学会」を創立。日本の軍事政権下、治安維持法違反および明治神宮への不敬罪で逮捕・投獄。出獄後、獄死した牧口に代わり「創価学会」の再建に取り組む。池田大作を見出し、「聖教新聞」「公明党」「創価大学」などの後事を託す。
ディミトリー・メレシコフスキー
【1865 - 1941】
ロシア象徴主義草創期の詩人、思想家。「ノーベル文学賞」候補に10回ノミネート。ソ連共産党の前身であるレーニン率いるヴォリシェヴィキ非難を続けた。
ピョートル大帝
【1672 - 1725】
ロシア帝国の初代皇帝。国内の全勢力を皇帝の下に一元化し、大北方戦争において勝利を収める。西欧化を推進し、ロシアを東方の辺境国家から脱皮させ、世界的地位を確立した。
ニコライ・ベルジャーエフ
【1874 - 1948】
ロシアの哲学者。元はマルクス主義であったが、ロシア革命を経て反共産主義者となる。レーニンの革命政府により国外追放。
いわく、「私は私の人格の孤絶化を、自己内部に閉じ篭もることを、自己主張を、求めたのではなかった。私は宇宙の中に開き出ることを、宇宙の内実に充満されることを、一切との交わりをもつことを、求めたのである。私は小宇宙(ミクロ・コスモス)たらんと欲した」(『ベルジャーエフ著書集 8』)と。
ここには、人間が自らの「主」となることによって、手にできる生の充足感、また、宇宙を呼吸しゆく生命空間の無限の拡大感など、いうなれば、大いなるコスモス感覚が、まぎれもなく、浮き彫りにされております。
その輝きは、世紀末の闇を照射しゆく光源として、大乗仏教とも深い次元で通じ合っているように、私には思えてならないのです。
大乗仏教の知見では、信仰による生命変革、人間形成の特徴を、「開く」「具足・円満」「蘇生」という3つの角度から論じております。ここでは、こうした仏教的観点を「規範性」「普遍性」「内発性」の3項目に敷衍しながら、ロシアの力強き人間主義の脈動に注目してみたいと思うのであります。
第一に「開く」とは、依って生きるところの根本規範を、人間自身の内面から開いていく、という意味であります。仏教では、すべての人々に、「仏性」という仏の性分、すなわち、理想的人間形成の種子、可能性が平等に具わっている、と洞察しております。
この「仏性」は、金剛にして不壊、清浄にして無垢なる本質を有し、開示された「仏性」は、まさに「自らの主」として、人生の幸福を決定づける機軸となっていくのであります。
しかし、日常的には、「仏性は、さまざまな邪見、偏見、謬見(誤った見方)などの、煩悩の奥深くに埋没してしまっております。ゆえに、幾層もの分厚い外皮を破って、潜在している「仏性」への突破口を開き、全面的に開花させていかねばなりません。
「開く」とは規範の開示であります。仏とは、どこか遠くの神秘的な存在であると捉え、我が生命に「仏性」があることを信じられない人々のために、『法華経』では、数々の比喩が用いられております。
その一つには - ある貧しい人が、裕福な友人の家へ遊びに行った。歓談しているうちに、彼は寝込んでしまう。友人は彼のためを思い、着衣の裏に高価な宝珠を、そっと縫い込んであげた。翌朝、それを知らずして友人宅を去った彼は、自分が宝珠を持っていることに、少しも気づかず、貧乏暮らしの苦労を続ける。何年か後、友人は、相変わらず、みすぼらしい彼を見て驚き、縫い込まれた宝珠の所在を教えてあげると、貧人は大いに歓喜した - とあります。
この宝珠とは、知ると知らざるとにかかわらず、すべての人が平等に有している「仏性」のことであります。
このように、仏性とは、生きるうえでの根本規範であり、かつて古代ギリシャの数学者アルキメデスが「私に立つ場所を与えるなら、地球をも動かしてみせる」と語った、堅固な足場、つまり"アルキメデスの支点"に当たるのであります。こうした根本規範に目覚めた人間ほど、強いものはないでありましょう。
ここで、私の大好きなトルストイの大作『アンナ・カレーニナ』を連想すれば、作者の自画像といわれるレーヴィンが、「われとは何か、なんのために生きているのか」等々、いわば「規範」への求道を続けるなかで、一農夫の言葉から新境地を開いていく、有名なシーンがあります。
レフ・トルストイ
【1828 - 1910】
帝政ロシアの小説家、思想家。文学のみならず、教育、政治、社会にも多大な影響を与えた。特に『戦争と平和』と『アンナ・カレーニナ』は世界文学の頂点に君臨し続けている傑作。
「ある人間は、ただ自分の欲だけで暮らしていて、ミチュハーなんざ、その口で、ただうぬが腹を肥やすことばかりしてるですが、フォカーヌイチときたら、正直まっとうな年寄りですからな。あの人は、魂のために生きてるです。神様をおぼえていますだよ」と。
この無名の農夫の言葉は、電撃のように、彼の心を貫きます。魂と魂の触発という点では、世界の文学史上でも屈指の、印象鮮やかなシーンであります。
「魂のために」と形容される規範を獲得することによって、眼前に、思いもかけない生命世界が、瑞々しくも絢爛と、開示されていくのであります。
こうした"暗"から"明"、"闇"から"光"への回心のドラマは、トルストイの世界に、しばしば登場いたします。それは、初期の『コサック』などに、荒々しい原初の姿を帯びて描かれ、『戦争と平和』のピエールや、このレーヴィンの思索へと連動しております。
その、苦悩と試練の果てに、忽然と開けゆく人間的な大感情は、むしろ未完成なるがゆえに、かえって重厚な余韻を漂わせつつ、青年の琴線に響くのではないでしょうか。
仏教に対するトルストイの造詣は、よく知られていますが、彼の天才が紡ぎ出す「生のダイナミズム」は、なかんずく法華経で説かれている躍動感あふれる生命観と、強く共鳴し合っております。それはまた、生命の本然的な凱歌にほかならないと、私は申し上げておきたいのであります。
いずれにせよ、「人間は考える葦」であります。自分自身の確固たる人生観、社会観、宇宙観を築き上げるところに、人間としての証があるといってよいでありましょう。自分で目的を創り、自らよしとして、悔いなき人生を生ききった人こそ、幸福なのであります。
第二に「具足・円満」とは、開示された規範は、決して部分観や差別観であってはならない。つまり、人間同士はもとより、自然や宇宙をも平等に余すところなく具足する、全体観、包括的世界観でなければならない、ということであります。
したがって「具足・円満」とは、生命が、世界から宇宙へと「普遍性」を獲得し、拡大しゆく姿であるといってよいでありましょう。
これは、科学や理性でいう普遍性とは、次元を異にしております。なぜなら、そこでいう普遍性は、現実と切り離された抽象的次元で、自己完結しており、非人称的で画一的な世界だからであります。
その次元では、確かに強力な力を発揮し、事実、科学技術文明は、加速度的に、世界を席巻してまいりました。しかし、かつてない大量死(メガ・デス)の悲劇を経験してきた今世紀の人類は、科学や理性の働きを手放しで楽観できるわけでは決してありません。
万物と「共に生きる」生命感覚
私の申し上げたい「普遍性」とは、人間・自然・宇宙が共存し、小宇宙(ミクロ・コスモス)と大宇宙(マクロ・コスモス)が、一個の生命体として融合しゆく「共生」の秩序感覚、コスモス感覚であります。
「共生」を、仏教では「縁起」といいます。「縁りて起こる」とあるように、人間界であれ、自然界であれ、単独で生起する現象は、何もない。万物は互いに関係し合い、依存しながら、一つのコスモスを形成し、流転していく、と観ずるのであります。
ゆえに、そこでは、万物一体の生命感覚の広大な広がりのなかに、理性をどう正しく位置づけていくかが、大きな課題になってまいります。その点から見ても、トルストイが描写する、レーヴィンの感受性は、まことにユニークであります。
夏の暑い日、森の中の草の上に、仰向けに寝転んで、一片の雲もない大空を眺めながら、彼は一人考えます。
「無限の空間についての知識は立派にもちながら、はっきりした青い丸天井を目にすることも、疑いなく正しいのだ」と。
宇宙を「無限の空間」と認識する知性の眼とともに、「青い丸天井」と見る感性の方も、また正しいとするこの独白は、古色蒼然たる"天動説"への逆行などでは、まったくありません。それは、研ぎ澄まされた、鋭敏な精神によって可能な、先見的な近代批判の結晶であります。
しかも、以来数百年を経た、現代科学の知見は、必ずしも、宇宙を「無限の空間」とする見方に、軍配を上げるとは限らないのであります。
レーヴィンのこうした「普遍性」の感触は、したがって、合理主義の壟断する、荒涼たる世界ではない。喜びや癒し、愛や献身、憐れみや共感など、人間性のぬくもりを伝えながら、生々躍動している、宇宙生命の鼓動そのものであると思うのであります。
民族問題を超える和合のヒューマニズムを
特筆すべきは、トルストイの放射する「普遍性」が、当時も今も国際紛争の一凶である、民族問題の閉鎖性に、実に的確な問い直しを、促していることであります。
セルビア戦争への参加を義挙として燃え上がった自己犠牲への民族的熱狂に水をさすように、レーヴィンは言います。
「しかし、単に犠牲になるだけでなく、トルコ人を殺すんじゃありませんか」
「民衆が犠牲になり、また犠牲になるのを厭わない気持ちでいるのは、ただ自分の魂のためであって、殺人のためではありませんからね」と。
こうした生き生きとした「普遍性」の光彩なくして、ヒューマニズムやグローバリズムの地平には、いつまでたっても到達できないでありましょう。
とともに、人生の生き方にあっても、崩れざる絶対的幸福とは、他者のために尽くしながら、「小我」から「大我」へ、自我を拡大しゆくなかにこそ築かれるものであると、私は思う一人であります。
第三に「蘇生」とは、物事を固定化せず、「今日より明日へ」と蘇りゆく創造的生命のダイナミズムを保ち続けることであります。
ギリシャの哲人ヘラクレイトスいわく、「万物は流転する」と。
ヘラクレイトス
【BCE540 - 480】
古代ギリシャの哲学者。著書は現存しておらず、プラトンが引用した「万物は流転する(panta rhei)」など、その断片のみが伝えられている。
仏教でも、物事は、一時として同じ状態にとどまらず、いかに堅牢に見える鉱石も、いつかは摩滅し、損壊していく運命を免れないと説きます。
まして人間社会は、すべてが、変化変化の連続であります。ゆえに、現状に安住しようとする惰性の殻を破り、その内なる変化の律動を、敏感に聞きとっていくことこそが、万物を蘇生させゆく要諦となります。
私どもの信奉する仏法では「自身法性の大地を生死生死と転(め)ぐり行くなり」と説いております。永遠の生命を貫く本源的な蘇生の力が、人間自身に内在することを、明快に示しているのであります。まさしく、「蘇生」とは、「内発性」の異名であります。
この「内発性」ということは、ともすればドグマ(教条主義)に呪縛されがちな宗教にとって、何にもまして心せねばならない肝要中の肝要といってよいでありましょう。
この点、トルストイの分身たるレーヴィンは、「神性の現れ」を、自分の内に感じながら、こう自問しております。
"他のユダヤ教徒や、マホメット(=ムハンマド:イスラム)教徒や、儒教の徒や、仏教徒 - 彼らは、この最善の幸福を奪われているのだろうか?"と。
レーヴィンが実感している「善の法則」は、まぎれもなく、内発的な啓示であります。その幸福は、キリスト教徒に限られているのか、異教徒はどうなるのか?彼は、こうした懐疑を「危険」な問いかけであるという。
しかし、宗教がドグマや狂信に陥らないために、絶対に避けて通れぬ問いかけであります。
なぜなら、レーヴィン的懐疑こそ、内面を見つめ直し、日々新たな自分を作り上げていこうとする内発的な力であるからであります。
それは、古来、人格的な価値の枢軸を成す「謙虚さ」、そして「寛容さ」を生み出す母胎でありました。
また、その「内発性」を疎かにしたがゆえに、宗教史は、独善や傲慢が横行し、「宗教のため」に人間が傷つけ合うという転倒が繰り返されてきたのであります。
先ほど申し上げた「規範性」には、依って立つ足場に対する確信が、当然、伴うでありましょう。
しかし、レーヴィンのように、その「規範」の正しさを常に問いかける内省の眼があってこそ、「規範」は化石化せず、生き生きと創造の営みを続けられるのであります。
逆にいえば、謙虚さや寛容さといった内発的な人格的価値に結実しない「内発性」は、どこか虚偽やごまかしがあると、言わざるを得ません。「規範性」と「内発性」は、両々相まってこそ、優れて人格的な力となっていくわけであります。
ゆえに、強い人ほど謙虚であり、確信の人ほど寛容なのであります。そうした人格形成を支え、「自らの主たれ」と励ましていくのが、真実の宗教の使命ではないでしょうか。
だからこそ、仏典では、「心こそ大切なれ」という簡潔な言葉で、「内発性」を勧めております。また、釈尊の生涯の最大の目的を「人の振る舞い」として、人格の錬磨、完成こそ、修行の眼目と位置づけているのであります。
改めて論ずるまでもありませんが、「地球的連帯の世紀」に向け、宗教、民族、国家などの壁を超えた「平和への対話」と「文化・教育の交流」が、ますます要請されております。
とともに、無原則な離合集散ではなく、それぞれが、こうした人格形成の競い合い、いうなれば「世界市民」輩出の競争をしゆくことが、より創造的であろうと、私は思うのであります。いずれの社会にあっても、よい意味での競い合いこそが、進歩の法則だからであります。
池田SGI会長がゴルバチョフ大統領と初会談
(1990年7月)
モスクワ大学に留学中の創価大学生が
ゴルバチョフ元大統領を表敬訪問
(2016年6月)
「創価教育」の原点である牧口常三郎初代会長は、日本の軍国主義と戦い、73歳で獄死いたしましたが、すでに今世紀の初頭、"人類は、もはや「軍事的競争」でもなく、「政治的競争」でも「経済的競争」でもなく、「人道的競争」の時代を志向すべきである"と提唱しておりました。
その人道的競争にあって、我が敬愛するモスクワ大学の学生の皆さまが、21世紀のトップランナーとして、颯爽と躍り出るであろうことを、私は期待してやまないのであります。
以上、私の知見をベースに、トルストイの名作に言及しながら、人間が「自らの主」となり、「大いなるコスモス」へと人格形成していくための私なりのアプローチを「規範性」「普遍性」「内発性」の3つの角度から申し述べさせていただきました。
ともあれ、未来世紀を指呼の間に望み、カオスをコスモスに転じゆく主役、機軸となるのが、「人間」であります。
宗教も哲学も、文化や政治、経済も、その一点へと、収斂されていかねばならない時代であります。私もまた、皆さま方と手を携え、この人間復興の大道を、力の限り走り抜いていく決心であります。
終わりに、「詩心の国」ロシアの美しき詩の一節を、皆さまに捧げたいと思います。
「大空にあって 大胆たれ! 歓喜の中に 己が使命に目覚めよ! 見よ! 陽光が 時に 空を金色に染め 時に 薄雲に見え隠れする 銀の月は 漂い 田園には 春の美しさが萌え出でて 薔薇の蕾が膨らむ 草の下には 清流が流れ 岡の上では 葡萄の枝が輝き 静寂の中に そよ風の吐息が洩れる すべてが 君のものだ 歓びをもって 人生の恵みを 安らかに受けよ この世は 悪しき快楽と不幸の谷間には非ず 君よ! 幸福なれ 迷うことなかれ すべての恵みの源を忘れまい 『真実』と『法』を尊び 世の人々に 善をなし給え その時 君は なんの畏怖もなく 無常を去り そして 闇にあって 暁を信ずることだろう」
プーシキンが謳ったとされる、この詩のごとく、闇が深ければ深いほど、暁は近い。希望ある限り、幸福は輝くのであります。
新たなる人類文明の希望の暁 - その時代を、諸先生方とともに、皆さまとともに確信しながら、私の講演とさせていただきます。
ご清聴、ありがとうございました。
スパシーバ!
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