「手塚治虫のブッダ」製作委員会

2011年 東映、Warnar  Bro.



やがて、釈尊は尼連禅河を渡り、菩提樹の下に来ると、座って足を組んだ。


"私は、たとえ自分の体が干上がったとしても、正しい悟りを得るまでは、決して、この組んだ足を解くまい"


こう誓願すると、彼は静かに目を閉じた。

吹き渡る風に、菩提樹の葉が、時折、カサカサと音を立てた。しかし、釈尊は深く思念を凝らし、身じろぎ一つしなかった。

菩提樹の下で、釈尊の思惟は続いた。

仏伝によれば、この時、悪魔が釈尊を誘惑したとある。その誘惑の方法は仏伝によって異なるが、優しく語りかけたとしているものもあることは興味深い。

"お前は痩せ細り、顔色も悪い。まさに死に瀕している。このまま瞑想を続ければ、生きる望みは千に一つしかない…"

悪魔は、まず生命の危機を説き、生きることを促した後、バラモンの教えに従っていれば、そんな苦労をすることなく、多くの功徳を積むことができると説得する。そして、釈尊のやっていることは、無意味であると語るのである。


それは、己心の激しい葛藤劇であったと捉えることができる。

釈尊は迷い、心は千々に乱れた。体力も消耗し、衰弱のなかで、死への恐怖もわいてきたのであろう。また、あの激しい苦行からも、何も得られなかっただけに、今の努力も、結局は無駄ではないかという思いも、頭をもたげてきたであろう。

ともあれ、欲望への執着が、飢えが、眠気が、恐怖が、疑惑が、彼を襲った。

魔とは、正覚への求道の心を悩乱させようとする煩悩の働きである。それは世俗的な欲望への執着となって生じることもあれば、肉体的な飢えや眠気となって現れることもある。あるいは、不安や恐怖、疑惑となって、心をさいなむこともある。

そして、人間はその魔に惑わされる時には、必ず自己の挫折を、なんらかのかたちで正当化しているものである。しかも、それこそが、理に適ったことのように思えてしまう。

たとえば、釈尊の"こんなことをしても、悟りなど得られないのではないか"という考えは、それまで大悟を得た人などいないだけに、一面、妥当なことのように思えよう。

往々にして魔は、自分の弱さや感情を肯定する常識論に、すがる気持ちを起こさせるものだ。



だが、釈尊は、それが魔であることを見破り、生命力を奮い起こし、雑念を払うと、高らかに叫んだ。

「悪魔よ、怯者はお前に敗れるかもしれないが、勇者は勝つ。私は戦う。もし破れて生きるより、戦って死ぬほうがよい!」

すると、彼の心は、再び平静を取り戻した。

辺りは、夜の静寂に包まれ、満天の星が、澄んだ光を地上に投げかけていた。



魔を克服した釈尊の心は清々しかった。精神は澄み渡り、晴れた空のように一点の曇りもなかった。不動な境地が確立され、彼の思念は、自己の過去を照射していった。

これまでの人生を思い起こすと、次いで、前の生涯が思い浮かんだ。2つ、3つ、4つと、過去の生涯が蘇り、それは幾百、幾千…の生涯へと至った。

その時々の自身の過去の姿が、鮮やかに彼の脳裏に描き出されていった。そして、さらに幾多の宇宙の成立と破壊へと及んだ。

釈尊は、今、菩提樹の下で瞑想している自分は、久遠の昔から生じては滅し、滅しては、また生まれるという、その連続のなかにいることを知った。

彼は三世にわたる生命の永遠を覚知したのである。

その時、生まれて以来、心の底深く澱のように沈んでいた、あらゆる不安や迷いが消え去っていた。自己という存在の、微動だにしない深い根に辿り着いたのだ。


彼は、無明の闇が滅して、智慧の光明が、わが生命を照らし出すのを感じていた。そして山頂から四方を見渡すかのように、彼の境地は開かれていった。

釈尊の研ぎ澄まされた思念は、さらに、一切衆生の宿命に向けられていった。

彼の胸中に、諸々の衆生が、生き、そして死に、また、生まれてくる姿が、ありありと映し出された。ある人は不幸の身の上となり、ある人は幸福の身の上となっていた。

彼は、一念を凝縮させ、その原因を辿った。

ー  不幸の宿命を背負った人たちは、前世において、自らの行動で、言葉で、あるいは心で悪行をなし、正法の人を謗っていた。そして、邪な見解をいだき、それに基づく邪な行為をしていた。そのために、死後は不幸の宿命を背負って生まれてきているのである。

それに対して、行動、言葉、心で善行をなし、正法の人を謗ることなく、正しい見解をいだいて、正しい行為をするならば、死後は幸福になっていた。

現在世は、過去世の宿業によって決定づけられ、未来世もまた、現在世の行為によって決まっていく。

今、釈尊は、それを、明らかに覚知することができた。彼は、変転する衆生の生死のなかに、厳とした生命の因果の理法を明察したのである。

夜は、深々と更けていた。釈尊は、無限の大宇宙と自己との合一を感じながら、深く、深く思惟を突き進めていた。

いつしか、明け方近くになっていた。東の空に明けの明星が輝き始めた。

その瞬間であった。無数の光の矢が降り注ぐように、釈尊の英知は、不変の真理を鮮やかに照らし出した。

彼は、胸に電撃が走るのを覚えた。体は感動に打ち震え、頬は紅潮し、目には涙が溢れた。

"これだ、これだ!"

この刹那、この一瞬、釈尊は大悟を得た。遂に仏陀となったのだ。


彼の生命の扉は、宇宙に開かれ、いっさいの迷いから解き放たれて、「生命の法」のうえを自在に遊戯している自身を感じた。この世に生を受けて、初めて味わう境地であった。

釈尊は知ったのだ。

ー  大宇宙も、時々刻々と、変化と生成のリズムを刻んでいる。人間もまた同じである。

幼き人も、いつかは老い、やがて死に、また生まれる。いな、社会も、自然も、ひとときとして静止していることはない。その流転しゆく万物万象は、必ず何かを縁として生じ、滅していく。

何一つ単独では成り立たず、すべては、空間的にも、時間的にも、関連し合い、「縁りて起こる」のである。

そして、それぞれが互いに「因」となり、「果」となり、「縁」ともなり、しかも、それらを貫きゆく「生命の法」がある。


釈尊は、その不可思議な生命の実体を会得したのであった。

彼は、自身が、今、体得した法によって、無限に人生を開きゆくことが確信できた。迫害も、困難も、逆境も、もはや風の前の塵にすぎなかった。

彼は思った。

"人はこの絶対的真理を知らず、自分は単独で存在しているかのように錯覚している。その錯覚が、結局は人間を欲望の虜にし、永遠不変の真理である「生命の法」から遠ざけてしまう。そして、無明の闇をさまよい、苦悩と不幸に沈んでいく。

しかし、その無明とは、自身の生命の迷いである。まさしく生命の無明こそが諸悪の根源であり、生老病死という人間の苦悩をもたらす要因にほかならない。

ゆえに、この迷い、無明という己心の悪と対決するところから、人倫の道、崩れざる幸福の道が開かれるのだ!"

彼方には、朝靄を払い、まばゆい太陽が昇ろうとしていた。それは、人類の幸福と平和の夜明けの暁光にほかならなかった。



法楽に包まれながら、彼は朝焼けの大地を見た。

釈尊の出家後の、成道に至る歳月には、いくつかの説がある。彼の成道は、19歳出家説によれば30歳、29歳出家説によれば35歳といわれる。

法楽を味わった釈尊は、しばらくすると、深い悩みに沈んだ。それは新しい苦悩であった。彼は木陰に座り、何日も考えていた。

"この法を説くべきか、説かざるべきか…"



彼の悟った法は、いまだかつて、誰も聞いたこともなければ、説かれたこともない無上の大法である。光輝満つ彼の生命の世界と、現実の世界とは、あまりにもかけ離れていた。

人々は病を恐れ、老いを恐れ、死を恐れ、欲望に身を焼き、互いに争い合い、苦悩している。それは「生命の法」を知らぬがゆえである。しかし、衆生のために法を説いたとしても、誰一人として、理解できないかもしれない。

釈尊は孤独を感じた。それは未聞の法を得た者のみが知る、「覚者の孤独」であった。


彼は考えた。

"誰も法を理解できなければ、無駄な努力に終わってしまうだけでなく、人々は、かえって悪口するかもしれない。さらに、わからぬがゆえに、迫害しょうとする人もいるであろう。

もともと私が出家したのは、何よりも、自身の老・病・死という問題を解決するためであった。それに、自分が悟りを得たことは、誰も知らないのだ。

ただ、黙ってさえいれば、人から非難されることはない。そうだ。人には語らず、自分の心にとどめ、法悦のなかに、日々を生きていけばよいのだ…"

ある仏伝によれば、この時も悪魔が現れ、釈尊を苦しめたとされる。それは、法を説くことを思い留まらせようとする、己心の魔との戦いと解せよう。

釈尊は布教に突き進むことに、なぜか、逡巡と戸惑いが込み上げてきてならなかった。


彼は悩み、迷った。

魔は、仏陀となった釈尊に対しても、心の間隙を突くようにして競い起こり、さいなみ続けたのである。

「仏」だからといって、決して、特別な存在になるわけではない。悩みもあれば、苦しみもある。病にもかかる。そして、魔の誘惑もあるのだ。ゆえに、この魔と間断なく戦い、行動し続ける勇者が「仏」である。

反対に、いかなる境涯になっても、精進を忘れれば、一瞬にして信仰は破られてしまうことを知らねばならない。

仏伝では、逡巡する釈尊の前に、梵天が現れ、あまねく人々に法を説くように懇請したとある。それは、自己の使命を自覚し、遂行しようとする釈尊の、不退の意志の力を意味しているといえよう。


彼は、遂に決断する。

"私は行こう!教えを求める者は聞くだろう。汚れ少なき者は、理解するだろう。迷える衆生のなかへ、行こう!"

釈尊は、そう決めると、新しき生命の力が込み上げてくるのを感じた。一人の偉大な師子が、人類のために立ち上がった瞬間であった。


つづく


『新・人間革命』第3巻
池田大作

参考文献:
⚫︎『国訳一切経 印度撰述部』
⚫︎『南伝大蔵経』
⚫︎『ブッダのことば』、『ブッダの真理のことば』、『ブッダ最後の旅』他 
中村元訳
⚫︎『原始仏典』全10巻 
梶山雄一・桜部建他編集
⚫︎『仏教聖典選』
岩本裕訳
⚫︎『大乗仏典』
原実訳
⚫︎『インド仏教史』
平川彰著
⚫︎『釈尊の生涯』
水野弘元著
⚫︎『仏陀』、『この人を見よ』、『ブッダ・ゴーダマの弟子たち』他 
増谷文雄著
⚫︎『釈尊をめぐる女性たち』
渡辺照宏著
⚫︎『仏陀と竜樹』
K.ヤスパース著、峰島旭雄役
⚫︎『ゴータマ・ブッダ』
早島鏡正著
⚫︎『インド古代史』
D.D.コーサンビー著、山崎利男訳
⚫︎『ウパニシャッド』
辻直四郎著

挿絵:
⚫︎『ブッダ』全12巻(潮出版)
手塚治虫著