皆さん こんばんは♬

今週も自伝ブログ続けて参ります!

今日は母について 少し書いてみますね照れ




母は私と違い、7人兄弟の2番目に

生まれた女の子で長女です。


昭和一桁生まれの母は
小学校4年生の頃
生まれ育った街での空襲が激しくなり
家族全員で今の住処へと疎開してきたそうです。


この時の心境を母は

「連日続く空襲も恐かったけど

あまりにも何も無い所へ
来てしまったものだから
この先の人生は
一体どうなってしまうんだろうと 
ただただ呆然とするしか無かった」
と回想しています。


祖父母の熱心な信仰は疎開してから
始まったのでした。

電気も水道もない 荒れ地に灯した
助け合いの精神。

2人は ほぼ毎日 昼夜を問わず 
あの家、この家と助けが必要な方の元へ
生活の援助や布教活動に尽力したと聞いています。


そんな状況の中
母は自分もまだ子供でありながら
布教活動に邁進する両親に代わって
残された幼い兄弟たちの世話をし
自分の人生かけて

兄弟達にとっての「かあちゃん」を全うしてきた人でした。

幼い兄弟はもちろん
母だって両親が恋しかったことでしょう。


だけど
家族をほったらかしにする親を恨まず
親無しの子だと揶揄する世間を憎まず

淡々と自分のできる最大限で
親、兄弟を全身全霊で支え

守り抜いてきた人なのです。


ですから
当然 私に対しても
似たような生き様を求めました。


家族のために
親のために
生きる という在り方です。


小学校のみの学歴しか無かった母は
学びに対しても厳しい人でした。


中でも 字を上手に書くことに関しては
とりわけ厳しく指導されました。


ひらがなしか書けない母にとって

漢字や文章をスラスラと書けること
人前で堂々と字を書く事は

とても強い望みだったのだと思います。



小学校の硬筆 揮ごう会が近づくと

外へ遊びに行くのも許されず
母の認める字が書けるまで
何時間も何時間も正座して
硬筆の練習を2人でしました。

少しでも字が歪んでしまうと
母の怒鳴り声と共に腕や手を叩かれてしまいます。

おかげで1.2.3.4.6年生で金賞をとりましたが

5年生の時の一度だけ 銅賞をとります。

銅賞をとったと母に報告するのが

とても 恐かった。


絶対に怒られるって思っていました。


いつも こんな風に

私という娘は

母の期待に応えられなかったら

怒られるって思ってた子供だったんです。


               つづく