愛子さま初の公式訪問にみる「女性天皇」論① | マッチョメ~ンのブログ

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愛子さまのラオス訪問が問う、日本の「女性天皇」という歴史の真実 


天皇家の長女、敬宮愛子さまが2025年11月にラオスを公式訪問する準備を進めている。これは単なる外交ではない。成年皇族として、そして国家を代表しての初の公式訪問であり、幼少期のオランダへの私的旅行や、学生時代の英国サマースクール参加とは全く性質が異なる。

この訪問は、愛子さまがより高次の役割にふさわしいかを問う、事実上の公開検証となるだろう。成功すれば「愛子さまの即位待望論が再燃するかもしれない」との期待も高まる。一つの外交公務が、国会が先送りしてきた皇位継承問題という「宿題」への関心を喚起する。この訪問は、愛子さまが現在法的には就けない地位への適性を問う、国内政治の代理戦争の様相を呈しているのだ。

この現代的な文脈を起点に、日本の歴史における女性天皇の役割を深く掘り下げてみたい。


第1章:二つの時代の女性天皇―権力者か、象徴か

古代の権力を持った女帝と、江戸時代の儀礼的な女帝は根本的に異なる。この区別こそ、現代の議論を理解する鍵である。

1.1 古代日本の主権者たる女帝(飛鳥・奈良時代)
武家が台頭する以前、朝廷が政治の最高権力を握っていた時代。女性の統治者は例外ではなく、国家形成に重要な役割を担った。推古、皇極(斉明)、持統、元明、元正、孝謙(称徳)と、8代10人の女性天皇が存在した。
彼女たちの権力は、具体的な功績が証明している。
 * 推古天皇は「東アジア初の女性君主」とされ、日本初の成文法である十七条憲法を制定した。
 * 皇極・斉明天皇は、後の天智天皇と共に中央集権化を目指す大化の改新を主導した。
 * 持統天皇は、日本初の本格的な都城・藤原京を完成させ、大宝律令の成立に道筋をつけた。
 * 元明天皇は、平城京へ遷都し、初の公式流通貨幣・和同開珎を鋳造させた。
 * 孝謙・称徳天皇の治世は、僧・道鏡の寵愛による政治的混乱も含め、女帝が国家を揺るがすほどの絶大な権力を行使し得たことを逆説的に示している。
彼女たちの多くが、男性後継者が成人するまでの「中継ぎ」として即位したのは事実だ。しかし、その治世は決して受動的ではなかった。古代における「中継ぎ」とは、即位の「理由」であって、統治者としての権能を制限するものではなかったのである。

1.2 江戸時代の儀礼的な女帝
徳川幕府が実権を掌握し、天皇の役割が象徴的・儀礼的なものに限定された時代。この時代に即位した女性天皇は、明正天皇と後桜町天皇の二人である。
彼女たちの役割は極めて限定的だった。
 * 明正天皇の即位は、父・後水尾天皇が幕府への抗議として断行した、高度な政治的策略であった。徳川の血を引く天皇を一代限りにとどめ、皇統が徳川家に永続的に支配されるのを防ぐためのもので、彼女自身に実権はなかった。
 * 後桜町天皇は、わずか5歳の甥が成人するまで皇位を保持する、明確な「中継ぎ」であった。

政治権力の観点からは「お飾り」という評価が正確だ。しかし、彼女たちの存在は、権力なき時代の皇室の存続と権威の維持において、重要な戦略的資産だったのである。