最近身辺の人ならぬ皆さんの活動が気になります。
たまにお参りする神社の、狛犬さんのしっぽのところに、
明らかに何者かの住まいと思われるものが増築されており。

$KyokoOikawa.violin.com-誰?

拡大図
$KyokoOikawa.violin.com-誰?

そのプチッと穿たれた黒い穴に、
ドキドキです。
中はどうなっとるの。
誰が住んどるの。

お近づきになりたい。

それから、数年前の過激な猛暑によって枯れ果てたと思いきや、
いつの間にか復活したガクアジサイ(数年間枯れたまま放置したものぐさは、英断だったわけだ)の、
花びらだけ喰って行くお方。

$KyokoOikawa.violin.com-誰?3

何故。そして誰。

今日別の家のあじさいの前を通りかかったら、
葉っぱのみ穴だらけになっておった。
そうでしょう、それが普通の姿でしょう。
何で花びらだけ食べておるのじゃ。

お近づきになりたい。


もう一つ毎日ドキドキしているのは、
去年の晩秋、どこぞの家の軒先から、三センチ程度の茎をつんまえてきて、
植えた、ジャスミンと思われる葉っぱの欠片。

その後ず~~~~~~~~~~っと、
冬の間ず~~~~~~ッと、

ホントにぴくりともせず、変化ナシ。
そう、枯れもしないのです。

葉っぱが緑なんだから、まぁさすがに枯れてないけど、
ホントに全く変化ないわねぇ…
と、どうしようかと思いながらも、とうとう春が過ぎて
五月も終わろうというとき。

なんと、茎の間から、新芽が伸びてきたのですよ。

ああ、いつか花が咲くの、たのしみだなぁ…

という、人ならぬ方々の気配満ち満ちる、梅雨入り。
相当ドキドキします。







六本木はアークヒルズカフェ、という、スペイン坂をうねうねと上った途中に忽然と現れる一角にて、何とも太っ腹なチャージフリーのライブ、
とはいえ週のど真ん中で来る人いるんかいな、という半信半疑で現場入りしたけど、
すでに予約でかなりの席数埋まっていて驚き。

ダンサーNoel姫とはユニット「エル・ヒカヤ」以外での共演は久しぶり、太鼓のぺたちゃんはNoelさんとはおそらくアラディーン以来なんだろうか?という久しぶりずくし、そして太鼓とヴァイオリンのみで踊りというなんともチャレンジングなライブでしたが、気持ちよくやりきりました。
音響は中目黒「楽屋」でひじょーーーーーにお世話になっているまっしーさんで、
はっきり言って音響にストレスがない事で、もう今日のライブの8割は勝ったも同然なくらいのアガリかたをはじまる前に既にしていた。
アークヒルズカフェ、写真を撮る間もなくまかないをがっついた、ほどお料理ウマい。
周りのよーろぴあーんな敷居高そうなカフェに比べてナチュラル感があって入りやすい。
気持ちのいい空間なり。

来月はこれまたアラディーン初期から中心メンバーとして踊っていたKiki姫と、ここでご一緒。
この流れ、なかなか面白いよね。

スペイン坂、帰りに通ったら、宵闇にうすぼんやりと、いきには気がつかなかったあじさいの青が浮かんでいた。よく見ると、ガクアジサイ、あじさい、玉あじさいなどなど、すべて種類も違う。
この時期に限っては「あじさい坂」と呼びたいねと話しながら坂を降りた。

★★★★★

帰りの電車では、いつもはメールに終始するところ、今日は珍しく機転が利いた出発前の反射神経の賜物でたのしめるものを持っていた。
今日の午後、現場入りで出かける直前に連載第二回目がアップされたので、帰宅後まで待てないっ!ととっさにプリントアウト(氏は「フローしろ!」と言うだろうか?)してライブの帰りに読むことにした、芦田宏直氏の「ストック情報武装化論」が面白い。というより恐ろしい。

iPadに関する辛口ツイートをきっかけに氏をフォローしてから、(そう簡単に飛びつくなと誰かに言ってほしかった、まさにその言葉を頂きに行った。)氏のブログやツイートで「今これを知らなかったら…」というもっと別の様々な記述にそこここで出会って、なんというかぞっとする事が続いている。

今回も電車の中で「私の興味のある事をよくもまぁここまで盛り込めたものだ」という理由で人目をはばからず思わずもれた驚嘆のうなり。
こりゃもう絶対私のために書いてくださってんでしょう、といいたいところだが、当然そう思って驚嘆している読者がおそらく多数いるのであって、それがまさに簡単にフローするにすまされない文章の証のよい例になっているから面白い。かなりニッチなエリアに身を置く私ですらもそのように驚嘆をまぬがれない、広く時流を捉えた視点を含め知性感性のおよそ鋭い作業をひたひたとたたえた、鍛えられ、研ぎ上げられたばかりの刃のような記事だった。

次第に説かれる「意味」の存在を読み進むにつれて、
何故氏が今このような原稿を恐ろしい程の労力をかけて生み出したのかという理由の一つばかりがす~っと背筋をつたって降りていき、ぞっとした。
わかりきった事ではあるが、今、私たちは激動の時代にいる。そしてその「激動」とは、一瞬目を離すと、人間の認識力までも根底から揺さぶりかねないような勢いで、思いもよらぬほど広範囲にわたって、静かにしかし猛烈なスピードでその影響力でもって浸食を続けている。
とにもかくにも、その事が、今更のようにというべきか、改めてと言うべきか、空恐ろしい迫力で静かに私の肚に落ちてきた。

今まであったもののなかで、安易に時流によってかき消されてしまいかねないけれどもそれは実は恐るべき喪失、なんてことが、なんというかたくさんたくさんある気がしていて、この時代ずーっと落ち着かない気持ちで生きている。物理的なものだけではなく、人の内面活動においても、気がついている以上に激しい浸食が起こっているのかもしれない。
今ここで手に握っていないと、次の瞬間、今時分が持っていたものすらなんだかわからなくなってしまって、それが何だったのかを思い出すのに時間がかかっている間に、また次の何かが…
そんな激流だ。

芦田氏の記事には、時事のキャッチーなタイトルでいながら、それとはほど遠いところまで連れて行かれる、時代の激流に垂直に差し込む、別の静かで激しいエネルギーの流れがある。激流の中で起こっている事をつぶさにもらさず見通しながら、現象を明確に洗い出し、それに一つ一つ名前を与えて行く様は昔で言うところの魔術で、それが生み出す「フック」が、時代の激流の中で、歩いて行くために必要な足場になっていくように私には思える。それによって、私の中に、「これは手放すなよ」という杭が次々に穿たれていって、それによって私は、まっとうな恐れを覚える。この時の恐れは、何もわからないものを闇雲に恐れる恐怖とは違って、正気で冷静な判断による忌避本能のしめす恐れに変わっている。

このところ、その事と、少し前に氏のブログで読んだ「音」に関する記述とが合わさって、
この時代にあって音楽を演奏するという事がなにを意味するのかを、痛烈に考えさせられている。
わたしが「これでいいのかな?」と、疑っていた小さな事の数々に、「それじゃダメだよ」と何倍もの重さでもって言い返され続けている。

のほほんとのんきに音を奏でていたい。
けれどもそののんきは、確信犯的に腹の据わったのんきさでありたい。

なるほど「武装」論なわけだ。

芦田氏の次回の連載もまた、多分新しい論文を探して読みあさっている学生のような気分で待つ。

★★★★★

さて、ライブ、次は19日、大宮「Shuru」の周年記念のお祝いで「月の砂漠」。
その前に都内某所によって演奏してから向かいます。











今日はなんとなんと、
チャージフリーのライブに出演です。
六本木アークヒルズカフェに、どうぞお立ち寄りください!

★★★★★★★

201/6/9(水) 
オリエンタル・ミュージック&べリーダンス

@六本木アークヒルズカフェ
TEL 03-6229-2666 ※ご予約はこちら

SHOW / 19:00~、20:30~
CHARGE / FREE!!

出演
Oreintal Dance / NOEL
Violin / 及川景子、Percussion / 平井ペタシ陽一